大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

名古屋地方裁判所 昭和44年(ワ)3499号 判決 1973年3月30日

(昭和四四年(ワ)第三四九九号)

原告

秋山茂則 外一一八名

(昭和四六年(ワ)第一八九五号)

原告

神足富男 外一一名

右昭和四四年(ワ)第三四九九号、昭和四六年(ワ)第一八九五号原告ら訴訟代理人弁護士

伊藤公 外一四名

右昭和四四年(ワ)第三四九九号原告ら訴訟代理人弁護士

荒井金雄 外二一名

右昭和四四年(ワ)第三四九九号、昭和四六年第一八九五号原告ら訴訟復代理人弁護士

河内尚明

右昭和四四年(ワ)第三四九九号原告ら訴訟復代理人兼

昭和四六年(ワ)第一八九五号原告ら訴訟代理人弁護士

小栗厚紀

被告

右代表者法務大臣

郡祐一

被告指定代理人

岩佐善己 外九名

主文

一、被告は、別紙認容金額目録記載の各原告に対し、同目録認容金額欄の各金員およびその内、内訳欄の損害額の各金額については昭和四三年八月一八日以降、弁護士費用の各金額については本判決言渡の翌日以降、それぞれ支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

右原告らのその余の請求を棄却する。

二、原告左殿由紀子、同左殿泰夫、同左殿和夫、同五十嵐四郎、同五十嵐優子、同五十嵐洋夫の各請求を棄却する。

三、訴訟費用はこれを三分して、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

事実

第一、申立

一、原告らは、

被告は各原告に対し、別紙2の請求金額目録記載の各金員及びこれに対する昭和四三年八月一八日以降各支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並に仮執行の宣言を求めた。

二、被告は、

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決並に予備的に、担保を条件とする仮執行免脱の宣言を求めた。

第二、主張

(原告らの請求原因と主張)

一、バス転落事故の発生

昭和四三年八月一八日午前二時一一分頃、岡崎観光自動車株式会社所有の観光バス二台が、国道四一号線を、岐阜県加茂郡白川町方面より名古屋市に向い南進して同町大字河岐字下山一、二七八番の五地先路上に停車中、同所東側斜面にある沢の上方で生じた山崩れによる土石流に押し流され、右国道西側を流れる飛騨川に転落水没し、そのため同時刻頃右バスに塔乗していた別紙1の死亡者目録記載の一〇四名が死亡した。

二、本件事故に至るバス集団の経過

(一) 昭和四三年七月一〇日頃、株式会社団地新聞奥様ジャーナル社は乗鞍岳登頂目的の観光バス旅行(乗鞍雲上大パーティー)を名鉄観光サービス株式会社と共催で行うことを決定し、参加人員を募つた。

この企画に応じて参加した人々七七三名は、同年八月一七日二一時二〇分頃集合地の犬山市成田山(25.7Km近く・Kmは国道の起点(名古屋市東区高岳町からの道路距離、以下同じ))に集合した。

(二) バスは全部で一五台、一号車から七号車までは岡崎観光自動車株式会社(但し四号車は欠番)、八・九号車は知多乗合自動車株式会社、一〇・一一号車は東濃鉄道株式会社、一二号車から一六号車までは名古屋観光株式会社という編成であつた。ほかに連絡用として乗用車一台、予備運転手のためにライトバン一台が用意されていた。

一号車にバス旅行の主催者側の株式会社団地新聞奥様ジャーナル社々長高笠原武、名鉄観光サービス株式会社中部支社次長鈴木一郎が乗り、最後尾一六号車に同社西部営業所長佐野十朗が乗車した。各バスには運転手のほかに添乗員が乗車した。

(三) 二二時一〇分頃予備運転手を乗せてライトバンが成田山を出発し、二二時二〇分頃バスは一号車を先頭に順次番号に従つて出発し、最後尾に連絡用の乗用車がついた。

この頃、犬山附近の天候は曇りであり降雨はなかつた。主催者側は出発する前、気象協会東海支部に三回電話で(三回目の電話は一八時三〇分頃)乗鞍岳とその経路の天候を問い合せ、天候には心配のないことを確認していた。また、一八時〇分頃名古屋鉄道株式会社の案内所へも電話で定期観光バス「のりくら号」(夏期は毎日名古屋から乗鞍へ出ている定期便)が当夜運行する予定であることも確めていた。

(四) 二三時四〇分頃、バス集団は美濃加茂市内(三八〜四〇Km)を通過したが、この美濃加茂市を出はずれた附近から雨がぽつぽつ降り出してきた。そして下麻生地内(五〇〜五一Km附近)に来たとき、急に雷光、降雨が強く激しくなつた。この中をバス集団が七宗橋(54.1Km)を通過したのは二三時頃であつた。バス集団は二三時一九分頃飛泉橋を通過したが、この頃には降雨の状態はさほど激しくなく普通であつた。このような降雨は二三時三三分頃モーテル飛騨(76.5Km)に着くまで続いていたし、道路にも土砂流出等の異常はなかつた。

バス集団のスピードは平均して五〇Km/h前後であつたが、二三時〇分頃から二三時一五分位までの間は三〇〜四〇Km/hに落ちている。

(五) バス集団がモーテル飛騨についたのは二三時三三分頃であつた。モーテル飛騨の駐車場は既に他の観光バス等で一ぱいであつたため、バス集団はモーテル飛騨前の道路で停車したが、道路には他の観光バスが何台かとまつていた。高笠原、鈴木はモーテル飛騨で進路上に崩落(白川町下油井地内の坂東橋(七八Km)附近であることが後に判明)があり北上できないことを知つた。

右崩落の排除作業の終了をまつていては旅行の目的は達せられないと考え、主催者側関係者は協議の上、旅行の中止を決定し、添乗員を集め、右崩落の発生と旅行の中止、名古屋への引返しを伝え、全員の了解を得た。

主催者側もバス運転手らも、降雨は普通であつたこと、ここまで北上を続ける間道路にも異常を認めなかつたこと、更には国が管理する一級国道四一号に対する信頼と安心感から帰路についての危険は全く感じなかつた。

(六) 一八日〇時五分頃バス集団はモーテル飛騨の前の道路上で一号車から順次Uターンをして名古屋方面に向つた。

(七) モーテル飛騨を出て、白川口駅(66.8Km)までの降雨と道路の状態は普通だつたのでバスは五〇Km/hで進んだ。白川口駅前には車体を赤と白で塗つた名鉄系列の会社のバス数台が停車していたが一号車から七号車はそのまゝ通過した。時刻は〇時一七分頃であつた。

右六台のバスが白川口駅前広場で停車の上同所で待機しなかつたのは、降雨道路状況等から前途の危険を予知する客観的事情は何もなく不安を感じなかつたためである。

又一四号車の河合文夫運転手が同所で停車したのは、同じ名古屋観光のバスが停車していたので、故障でもあるかと心配して停車したのであり、同所で停車中の名古屋観光バスの場合は、本件バス集団と同様乗鞍に行くためモーテル飛騨まで行き、そこで引返して白川口駅で旅行を中止して帰ることを連絡するため停車中のものであつたこと、さらに八号車の早川正美運転手が同所で停車した理由も会社(知多乗合株式会社)へ連絡をしようとしたにすぎず危険を予知したからではなかつたこと等からしても、この段階に於て南進の危険を察知することを白川口駅を通過した六台のバス運転者に期することは無理と言わねばならない。

(八) 白川口駅前を〇時一七分頃通過した右六台のバス集団は〇時二〇分頃65.25Kmで崩落土砂に出合い一旦停車した。

右崩落土砂の規模は山側で六四センチメートル、道路センターライン附近で二〇センチメートルであり、頭大の石が一〇個ほどあつただけで他に異常はなく、排除作業をすれば右側車線を通行できる状態だつたので土砂をスコップで排除して同所を通過したが右停車の時間は約一五分間である。本件バス集団の運転者は右65.25Km地点を通過し、さらに南進をつづけることについて危険を感じなかつた。それは右側車線には頭大の石が一〇個ほど落ちていたにすぎず、しかも右土砂くずれが進行中のものでないこと、又降雨状態が普通であつたことからしても南下の危険性はないと判断したものである。なお、崩落地点をはさんで東海観光バス他三台のバスが停車していたことからしても、これらのバスが北進してきた以上本件バス集団の南進に不安を感じなかつたのである。

(九) ところが、64.17Km地点まで本件バス集団がきたとき、道路上に土砂が流出しており、通行不能であつたので、〇時四〇分頃事故現場附近で一号車より順次停車した。64.17Km地点の崩落は65.25Km地点の崩落より規模も大きく、強いて通れば通れるかもしれなかつたが、危険もあるので停車したのである。

同所で二〜三分間停車した後、運転者及び高笠原らは64.17Km地点の崩落場所から離れた方がよいと考え、三・二・一号車の順で一〇〇メートル位バックをし、七号車の後に三・二・一号車の順でついたため、六四・一七Km地点を基準としてみた場合五・六・七・三・二・一の順序で停車することになつた。

(一〇) バス集団が64.17Km地点の土砂崩落現場についたときの崩落土砂の規模は山側は二メートルに近く、川側はガードレールの高さの中間位であり、巾は二メートル位であつた。そのため崩落の向う側五〜一〇メートル位を容易に見通せる状態であつた。そして極めて緩慢な状態ではあつたが右崩落は進行している状態であつた。そして降雨量は多くなかつたが雷光、雷鳴はあつた。同所にはすでにトラックと乗用車が停車していた。

(一一) 一〜三号車はバックして五・六・七号車の後につき、道路右側に寄つて停車した。道路右側に停車させたのは左は岩壁なので落石があつては困るという判断からであつた。

そして一号車が停車して、それほど時間がたたない内にその後に乗用車、トラック等が沢山つまつてしまい、さらにバックを続けられる状態ではなかつた。

その後本件事故が発生するまで、本件バス集団は約一時間三〇分、同位置で停車しつづけるのであるが、これは前記の如く後続車がつまつていて円滑にバックできなかつたことと、さらには北方64.60Km地点に土砂崩落が発生したので、本件バス集団は64.17Km地点と64.60Km地点間にとじ込められ動きがとれなかつたこと、に原因している。

(一二) 一八日二時一一分、五号車、六号車が64.30Km地点の沢に発生した土石流に押し流され、飛騨川に転落し、本件事故が発生した。

本件事故により五・六号車の乗員合計一〇七名が被害を受けたが、その内原告本人成田良正及び訴外竹下昭男他一名が奇跡的に生存し、その余の一〇四名が死亡した。

三、身分関係

原告らは、いずれも本件事故によつて死亡した前記死亡者らの遺族であり、その親族関係は別紙3の損害明細表(請求)の各親族関係欄記載のとおりである。

四、責任

本件事故は、被告国の営造物たる国道の設置及び管理に瑕疵があつたために生じたものであるから、国家賠償法第二条により、被告は本件事故によつて生じた損害を賠償すべき義務がある。以下その事由を指摘する。

A、国道四一号の危険性

(一) 本件国道の概要

(イ) 位置と機能

国道四一号は、名古屋市を中心とする伊勢湾臨海工業地帯と日本海岸の産業・文化・交通の中心地の一つ富山市とを険しい中部山岳地帯を貫いて直結する重要幹線道路である。

この路線は、全長二四七キロメートルで、名古屋市を起点に犬山・美濃加茂の各市を通り抜け、飛騨川沿いに七宗町・白川町・金山町と急峻な山腹を縫つて北上する。次いで下呂町の温泉街萩原町を通り抜け、本州の分水嶺の宮峠を越えて高山盆地に入り宮川沿いを走る。更に今度は難所の神原峠を越え、神岡町を抜けて高原川・神通川沿いに山地を駆せ下り富山市に達している。

この路線は、表日本と裏日本を結ぶ動脈として沿線の市町村の産業・経済・文化の上で大きな役割を担つているが、同時に観光ルートとしても極めて重要な意味を持つようになつた。沿線には、日本ライン、飛水峡、中山七里等といつた景勝地、温泉の町下呂、小京都と呼ばれる高山市といつた観光地を擁し、その背後には平湯・白骨といつた温泉地、上高地・乗鞍岳・穂高岳といつた中部山岳国立公園を控え、四季を通じて観光客の絶えるときがない。

(ロ) 改良工事の経過

本件道路は岐阜県において管理にあたつていたが、昭和二八年五月二級国道一五五号に指定され、次いで昭和三三年九月には一級国道四一号に指定昇格した。

昭和三四年二月二〇日道路整備緊急措置法(昭和三三年法律二四号)二条に基く「第二次道路整備五箇年計画」の閣議決定がなされた。国道四一号は右計画において「特に国土を縦断して重要産業地帯を結ぶ区間の改築の完了を図るとともに、大都市及び重要産業地帯において生産活動のあい路となる区間の再改築を行なう」べき国道に指定され、建設省の手で直接その改良工事が行なわれることが決つた。

同年から昭和三七年にかけて建設省は、

(1) 全線にわたる経済調査と航空写真撮影と航空写真図化

(2) 全路線にわたる実測線調査、計画線調査

(3) 七宗橋をはじめとする橋梁トンネル等の重要構造物設置のための調査

を完了し白川町には工事施工のため白川出張所も新たに設けられた。

昭和三八年五月建設省による本格的な改良工事がはじまつた。昭和三九年二月には拡幅工事が終つて国道四一号は道路の全幅員8.5メートルに拡がり、五〇Km/h(設計速度)の走行が可能となり(従前は全幅員四メートル、平均走行速度二〇〜二五Km/hであつた)、昭和四〇年一一月路面の舗装工事完成により、従来と全く面目を一新した。殊に本件現場附近は、プロの運転手も避けて通つた交通の難所から、見た目には極めて快適な自動車道路に生れ変つたのである。

国道四一号は工事進捗に伴い、工事の完成した区間は逐次道路法一三条による建設大臣の指定区間の指定を受け、岐阜県から国に管理が移つていつた。本件事故現場を含む区間も昭和四〇年五月一七日建設大臣の「指定区間」となり、以後建設省が直接管理をすることになつた。本件事故のあつた昭和四三年には国道四一号全区間が建設大臣の右指定を受けていた。

(ハ) 交通量の増加

国道四一号の主要地点における一日あたりの交通量は、左表のとおり推移し、著しい交通量の伸びを示している。

観測年度

(昭和年)

観測地点

小牧市小牧南

益田郡金山町

益田郡萩原町

二八

三九九台

一〇九台

三六一台

三三

四、七四九台

二四一台

二九二台

三七

一二、九四〇台

四四二台

五八二台

四〇

一二、八八二台

一、二七九台

一、七三八台

四一

一四、八五八台

二、三一七台

二、九六四台

四二

二〇、六八八台

二、七三九台

三、三五三台

四三

二二、七二六台、

二、四八八台

四、四八三台

四四

二三、五九四台

四、四五二台

五、四四六台

四五

三五、一二〇台

五、四七六台

六、五六九台

益田郡金山町における交通量をみても明らかなとおり、昭和三七年に四四二台であつたところ、昭和四三年にはその約六倍の二、四八八台に、昭和四五年にはその約一三倍の五、四七六台と飛躍的に増加して来ている。

更に、本件国道の利用状況を、ほぼ並行している国鉄高山線のそれと比較してみると次のとおりである。

乗鞍岳への旅客

下呂方面への観光客

年度

(昭和年)

国鉄利用

(万人)

バス等利用

(万人)

国鉄利用

(万人)

バス等利用

(万人)

四〇

二五・〇

七・三

四一・二

一八・八

四一

二七・〇

九・一

四二・〇

二一・〇

四二

二八・〇

一八・〇

四六・〇

二五・九

このように年を追う毎に乗鞍岳・下呂方面への観光客のバス利用が国鉄に比較して急激に増加していることを知ることができる。

(二) 本件国道を取り巻く自然条件

(イ) 地形、地質

1 地形

国道四一号は、濃尾平野・富山平野・高山盆地を除けば、大半が川に沿つて一方の路肩には急傾斜の山腹や岩壁が追つているといつた位置に路線が設けられている。

岐阜国道工事事務所管内では、美濃加茂市より飛騨川に沿うことになるが、七宗橋以北はすべて右の如き山岳道路(第二種山地部)である。

ことに本件事故現場を含む七宗橋と飛泉橋との間の飛騨川は飛水峡といわれ、深く浸蝕された河床の奇岩で知られているが、道路は蛇行する飛騨川に沿つて急峻な山岳のふもとを縫うように走つている。この区間では拡幅にあたつては、まず、できるだけ山側に切りこみ一定の幅員を確保したのち、更に川側に拡幅するとの方法がとられたので各所で山腹が削り取られている。

本件沢は国道東側に位置し、標高716.5メートルの河岐山に至る尾根附近からほぼ東西に下つて飛騨川に流れこんでいる。沢は両岸に険しい山腹がせまつた深い谷状をなし、傾斜は約三〇度の急勾配となつている。

崩壊起点(標高約三八〇メートル)となつた沢の左岸の山腹は四〇度(崩壊後)をこえる急傾斜地であつた。

2 本件沢附近を含む飛騨川上流地域の地質

飛騨川上流地域(白川町河岐―飛騨金山)には、チャート、砂岩、粘板岩からなる古生層が広く発達し、その基盤の上に濃飛流紋岩類が堆積している。

濃飛流紋岩類は東濃から飛騨地方にかけて広く分布するが、この地域はその西縁部にあたり古生層と濃飛流紋岩類の接触部が広く露出している。

この接触部附近の古生層には石英閃緑岩の小貫入体があり、濃飛流紋岩類やこれに近接する古生層には岩脈状の花崗斑岩、石英斑岩が貫入している。

また、濃飛流紋岩類は、この地域では宇津尾疑灰岩層を基準として上層の白川流紋岩と、下層の飛騨川流紋岩類とに大別されている。

河田清雄(地質調査所)によれば、この地域における濃飛流紋岩類の形成史は次のとおりである。

a (ⅰ) 流紋岩類西縁部の基盤古生層に著しい断層破砕帯が生じた(“先濃飛”の断層破砕帯)。

(ⅱ) 西縁部の断層破砕帯に石英閃緑岩が貫入した(“先・濃飛”の火成活動)。

b 西緑部の断層運動によつて陥没した古生層のくぼみに凝灰質砂岩、頁岩などの砕屑岩(足谷層)が堆積した。

c 大規模な火砕流の噴出と、おそらくそれに伴つた火山構造性大陥没運動とのくり返しにより厚い堆積物が形成された(飛騨川流紋岩類)。

d 火山活動の静穏期に入り降下火山灰が水中で堆積した(宇津尾凝灰岩層)。

e 火山砕屑岩類と火砕流堆積物がくり返し堆積した(白川流紋岩)。

古生層との境界部では、断層活動はこの時期にもひきつづいて生じ、断層運動による破砕生成物である特異な角礫岩(白川口層)を堆積させた。

f 花崗斑岩の岩脈が古生層と流紋岩中に貫入した(“後・濃飛”の火成活動)。

右の形成過程からも窺われるように、この地域には断層が広く分布し、濃飛流紋岩類と古生層とは断層を境として接触していることが多い。しかもこの濃飛流紋岩類の西縁部の古生層は強く破砕を受けていることがその特徴として指摘されている。

岐阜県地質鉱産図にのせられている規模の大きい断層だけをとりあげても、白川口附近に直交する二本の断層があり、下油井附近(鷲原、新津から井尻にかけて)は多数の断層が集中している。

本件国道の拡幅工事前の調査によつても、断層の存在が明らかにされている。すなわち、拡幅前にあつた長さ七〇メートルの平山トンネル(65.5Km地点附近)については、その更に山側に長さ八八メートルのトンネルを作ることが検討されたが、右トンネルの白川町側が断層のため採用されず現状の如く切取によつて拡幅が行なわれた。また、七曲り峠についてはいくつかのルートが検討されたが、トンネル案は破砕帯、断層、湧水等に遭遇し工事施工中地すべり等の思わぬ災害を引き起す恐れがあるとして、現状の如く飛騨川の対岸をまわることとなつた。

このように本件地域では、特に基盤となる古生層に断層、それによる破砕帯が広く分布しており、また、上部に存在する濃飛流紋岩類は古生層よりずつと新しい地層であるため、いずれも風化のすすんだもろい地質であることが明らかである。

3 本件沢附近の地質

(1) 本件沢附近は前述の飛騨川上流地域の南端にあたる。本件附近では古生層の基盤の上に直接白川流紋岩が堆積している。

本件沢附近の飛騨川右岸(対岸)は古生層であり、飛騨川左岸は山の斜面の上部は濃飛流紋岩類、下部は古生層である。

本件沢の第一および第二堰提附近(別紙8の検証図参照、以下同じ)には古生層(粘板岩)が露出しており、本件沢の第五堰堤の西寄左岸には古生層と濃飛流紋岩の接触部が露出している。第一〇堰堤附近には石英斑岩(花崗斑岩類)が濃飛流紋岩に貫入して地表に露出している。飛騨川対岸の河床にも古生層に貫入している石英斑岩が露出している。

本件沢より国道沿いに南へ約一一〇メートルの国道東側の64.17Km地点の崩落附近も同じく古生層(粘板岩)であり、その最上部に濃飛流紋岩類が堆積している。

(2) 本件沢の下流はそれ自体一つの断層と考えられるが、第四堰堤西寄りの左岸には断層を確認できる岩盤が露出しており、この断層は沢の方向に走つている。第一〇堰堤と第一一堰堤の中間の右岸にも北西方向に走る断層があり、本件沢の崩壊起点に近い第四石垣と第五石垣との間に露出した岩盤の附近にも断層が認められる。

また、飛騨川の対岸の山林には尾根の鞍部になつているところから飛騨川へ向つて真直ぐに延びる浅い沢状に見受けられる個所があるが、これも断層を明らかに推測せしめるものである。

64.17Km地点の崩落部分には断層があり、破砕を受けているし、本件沢より国道沿いに北へ約一二〇メートルの国道東側の崩落部分にも断層が認められる。

(3) 本件沢には本件事故前、主として濃飛流紋岩よりなる多量の崖錐あるいは崖錐様堆積物が存在していた。それは沢の側方の山の斜面より崩落してきたものや沢の上流より水に運ばれて堆積したものであるが、沢の断面がV字型の部分には、三〇〜五〇センチメートル、広いU字型の部分では1.5〜2メートルぐらい堆積していたと考えられる。これらの土砂は事故当日ほとんど流出したが、沢の側方の崖錐が残つている個所、表土が削り取られた個所から土砂の堆積状況を窺うことができる。なお、第八堰堤から右岸の山林へ入つたところには、現在も濃飛流紋岩の大きな崖錐がある。

事故当日崩壊が起きたと考えられる第一一堰堤と第一二堰堤間の左岸およびいわゆる崩壊起点附近にも崖錐が堆積していたと考えられるが、これらの崩壊個所の土砂や岩石は現在もなお不安定な状態にある。

(ロ) 気象

本件事故現場附近は、飛騨山脈を中心とする中部山岳地帯と濃尾平野のほぼ中間に位置し、東濃山間部と呼ばれる地域である。

同地域における気象の特徴のうち、特に本件事故の原因となつた土石流の崩落と密接な関連を有する降雨の状況についてみると次のような事実が認められる。

(1) 同地域は我国では年間を通じて比較的降雨量の多い地域に属するが、特に毎年六月から九月の間の降雨量は同地域におけるその他の月と比較して著しく多い。

(2) 右期間における降雨は山岳地帯に一般に共通するように驟雨性のもので変化が激しく、かつ集中豪雨となつて現われることが多い。

(3) また、同地域における日降水量は、岐阜県内の他の地方と比較してもそれ程多いものではないが、一時間降満水三〇mm以上の降雨は毎年三回程度の割合で発生しており、五〇mm以上のものも決して少ないものではない(本件事故現場に最も近い観測点である八百津町久田見に於ては昭和三一年から同四二年の間に四回記載されている)。このことは同地方が岐阜県内において極めて集中豪雨の発発生する頻度の高い地域であることを示している。

(4) 集中豪雨による災害の発生は短時間の降水量・強度と密接な関連を有することは当然であるから、前述のような気象的特徴を有する同地方が集中豪雨による被害を受ける可能性の極めて高い地域であることもまた明らかである。

右のような地域において防災の任にあたるものに対しては、降雨の状況の迅速かつ正確な把握とそれに対処するための機敏な行動が要求される。

(三) 本件国道の危険性

(イ)過去の災害歴

被告は、昭和四一年七月一六日から昭和四三年六月一九日までの約二年間事務所管内の国道四一号で発生した崩落として別紙10の八件をあげている。

うち、昭和四一年七月九日白川町村君地内79.4Kmの崩落では死者一名、負傷者二名が出ている。

昭和三八年一一月二八日にも国道四一号62.4Km地点にある柿ケ野トンネルの北側出口附近で崩落が通行中のトラックを直撃し運転手が重傷を負つた。

原告が知ることができたものだけでもこのように多数にのぼつているが、これらのほかにも崩落の事例あるいは落石の発生が多数あると考えられる。

これらの崩落は降雨を直接の原因とするものが大部分であるが、小規模の崩落については降雨がなくても崩落が発生している事例が三例あげられている。

また、その降雨量が必ずしも多くはないのに一〇〇m3、あるいは四〇〇m3といつた大規模な崩落(被告の明らかにした崩落の推定土量は道路上に残つたものをいうので、道路からはみ出して飛騨川(益田川)の中に直接流れ込んだものについてはこれらの数字に含まれていないことも考慮する必要がある)が発生している。

(ロ) 集中する危険箇所

七宗橋と白川口の間、白川口と金山町の間、金山町と下呂町との間は険しい山腹を縫つて道路が走つており、殊に下油井地内には相当大規模な断層が集中している。過去の災害もこの三つの区間に集中して発生している。

道路を管理する事務所、出張所は地形、地質、過去の災害歴等から右三つの区間に崩落の危険のある箇所が集中していることを充分に認識していた。これを裏付ける証拠として「落石注意」の標識をあげることができる。本件事故現場附近の64.48Kmから65.65Kmの間には四ケ所(うち二ケ所は後に述べる平山トンネルのあつた位置)に「落石注意」標識が建てられているが、本件事故当夜にはこの標識のある場所については例外なく崩落が発生している。白川町下油井地内78.5Kmにも落石注意標識が設置されていたが、事故当夜ここにも崩落が発生している。

更に事故当夜には、七宗橋から金山町にかけての間に一九ケ所以上の崩落があり、殊に59.6Kmと65.9Kmの間、約六キロメートルに一四箇所の崩落があつた。

本件の事故直後、建設省は、「道路の災害による事故防止の強化対策に関する実施要領について」と題する通達を出して、各地方建設局に対し管内危険箇所の総点検を指示した。事務所管内の国道四一号だけでも五〇〜六〇箇所の危険箇所が指摘されたがいずれも先に述べた三つの区間に集中していた。

これは七宗橋以北の人家のない地域では一キロメートルの内には必ず一つ以上の崩落危険箇所が存在することを意味している。本件事故後に採用された予備規制の制度でも、この三つの区間は危険地域に指定され、雨量により交通止が為されることになつており、この三つの区間に危険箇所が集中していることを裏書している。

(ハ) 本件国道の危険性

国道四一号は、今まで述べてきたように、右三つの区間内に危険箇所が集中しており、事務所管内の七宗橋以北で崩落につき安全といえる地域は人家集落のある白川口駅周辺、金山町大字金山地内、下呂の温泉街の三ケ所である。これらの危険区間は過去の災害歴から見て相当量の降雨のある場合には当然崩落の危険を予想しなければならないところである。

このような地域に国道を設定し、あるいは管理するにあたつては道路の走つている地域の前述の特徴(三つの集落のある場所をはさんで崩落の危険区域が数十キロメートルずつ連続している)を重視しなければならない。一つの沢のみの土石流、本件バス集団が前進を阻まれた地点だけの崩落、といつた一つの場面を微視的にとらえて考えるのでなく、右に述べたように三つの危険な区間が全体としてどのような状況にあるかを理解把握しなければならない。

B、設置の瑕疵

(一) 改良工事における調査の不備と拡幅の実施

(イ) 平地に道路を建設する場合、特に地質調査を行なうのは橋梁、擁壁等重要構造物設置の箇所だけであり、その調査の重点は主としてこれら構造物を支持する面の強度に置かれるのが普通である。

山岳道路においては地質調査は単なる基礎地盤のみの問題ではなく、全区間の路線の位置決定に非常に重要な意味を有する。トンネルにするか橋梁にするかの決定、切取箇所の決定等に重要な意味を有することは常識としても十分理解できるところである。

(ロ) 前記改良工事において、建設省が相当程度に綿密な調査を実施した場所として次の三ケ所がある。

七曲峠地区(七二〜七三Km附近)

四つの路線が候補としてあげられ各方面から検討が加えられた。地質調査・実測測量調査等が行なわれた結果候補路線上には数ケ所の断層・破砕帯があり、更に崖錐を交えた角礫を含む砂質シルトと軟岩からなる未固結地帯もあつて施行技術上の困難と危険が大きいとしてトンネル案は捨てられた。旧道の拡幅案もヘアピンカーブができ路線が危険になるという理由で採用されず、結局現在の路線新設に決つた。

平山トンネル(65.5Km附近)

旧道としてもトンネルがあつた場所である。三つの路線が調査の上検討されたが、断層が数本あることなどからトンネル案は捨てられ工費の最も安い切取案が採用され現在の路線となつた。従前にあつたトンネルをつぶし、相当思い切つて山地をカットしたのである。その両端の65.65Kmと65.48Kmには落石注意標識がたてられることになつた。

七宗トンネル(56.3Km附近)

トンネルと国道拡幅の二案があつたが、複雑な組成の地層と更には亀裂状に走る断層の存在がわかり、難工事が予想されたので旧道の拡幅が為されることになつた。ここにも落石注意標識が二本設置されている。

このように、かなり丁寧な調査検討の加えられたことのわかつている場所には、いずれも断層が見出されているし、新路線が作られた七曲峠地区を別にすれば、そこには何本かの落石注意標識が設置されている。改良工事の際に先に述べた危険区間全体としてどのような調査が為されたかは被告が資料を提出しないので明らかではない。これは調査が極めて不十分なものであつたか、調査の結果に危険を予測すべき資料があるかのいずれかと考えられる。しかしながら、山腹の崖錐の状況、丹念に行なうべき沢筋の調査がなおざりにされていたことは確実に指摘できる。これらの調査が確実に行われていれば、少くも現場附近にはいくつもの断層があり、危険な部分であることを容易に知ることができたのである。

(ハ) 本件事故現場附近の路線は、旧道の位置でできるだけ山側の斜面に切りこんで幅員6.5メートルを確保した後、飛騨川側に擁壁を設置して8.5メートルの幅員にするという工法が採用された。この工法で、山側の道路に対する傾斜は一層強くなり従前の安定勾配を確保できない箇所も随所に発生することになつた。改良工事という「人間の手」が自然に加えられたために新しい危険が発生したのであつて、この危険に対しては有効な防護措置は考えられていないのである。

注意しなければならないのは、この改良工事において路線を決定する上で重要視された検討のポイントは次の四つであつたことである。

1 設計速度50Km/hを維持することができるように道路の線型を決定する。

2 改良工事実施の上で作業の安全を確保する。

3 工費はできるだけ安くなるようにする。

4 旧道の交通を工事期間中も確保し交通止をさける。

従つて、ここでは改良工事実施後の道路交通の安全確保という面からの議論検討はあまり為されていない。

(ニ) 国道四一号は危険地域を走る道路でありながら、大型の自動車がターンできる余裕のある場所が極めて少ないことにも注意を向けて置く必要がある。本件事故当夜もそうであつたが、前進をさえぎられ後続車両がすぐ後に続いているような場合、全長一〇メートル余にも及ぶバス等が幅員8.5メートルの国道上でUターンして機敏に引返し、あるいは安全な場所に待避することは極めて困難といわざるを得ない。国道四一号の改良工事においてはこの大型車両のUターンという点に関する配慮は為されていない。

(二) 崩落及び土石流の発生

(イ) 事故当夜における64.17Kmの崩落と本件沢の土石流

本件バス集団が南進を防げられた64.17Kmの土砂崩落は、道路山側の急斜面の岩壁が高さ83.5メートル、幅23.7メートルにわたつて崩れ落ち、路面上に約七四〇m3の土砂が堆積したものである。これは長年月の風化と先に述べた断層により破砕され極めてもろくなつていた古生層(粘板岩)、濃飛流紋岩及びこれらからなる表土に、折からのはげしい降雨による雨水が浸透した結果発生したものである。崩落発生の時刻は二三時一五分から〇時二〇分ころの間と推測される。

土石流を発生させる前の本件沢には相当多量の崖錐様堆積物が堆積しており、その厚さは沢の断面がU字型になつている部分で1.5〜2メートル、V字型に近い部分で三〇〜五〇センチメートルに及んでいた。

事故当夜は沢に堆積していたこれらの土砂が土石流となつて大量に国道上に流出した。その推定土量は道路上に残つていたものだけでも七四〇m3、沢から流出したもの全体としては三〇〇〇m3を越えると考えられている。この土石流が発生した時刻は八月一八日二時一一分頃であつた。

(ロ) 崩落及び土石流の原因と予測

1 本件土石流は、沢の上部すなわち第二石垣の東寄り右岸(その最上部は南東尾根のやや下附近の標高約四九〇メートルの地点―この場所に第三ないし第六石垣が現在設置されている)に堆積していた傾斜角約四〇度の表土(濃飛流紋岩より成る崖錐)が幅約一〇メートルにわたつて沢に向けて崩落し、沢に流れ込んで前述した如く沢に堆積しており降雨のためより一層不安定な状態となつた大量の崖錐様堆積物とともに流出したものである。

右崩壊起点には、尾根部分の濃飛流紋岩が長年の風化作用によつて岩盤上に土砂となつて堆積していたところ、折柄の豪雨により土砂に浸透した雨水が岩盤にさえぎられ飽和状態となつて、この土砂を持ち上げ、この持ち上げられた土砂が岩盤を滑り面として崩落したものである。

2 事故当夜の64.17Kmをはじめとする各所の崩落、あるいは64.3Kmの沢の土石流を見るにいずれもその直接的な原因は雨であつた。かような崩落や土石流の予測という問題を考えて見る。

被告は前述の三つの区間(七宗橋―白川口、白川口―金山、金山―下呂)に崩落の危険が極めて大きいことを容易にかつ常識的に知ることができ、改良工事実施の際には充分承知していたのである。

航空写真による地形の分析、更に実地に専門家を派遣しての斜面や沢の丹念な調査を実施すれば、崖錐様堆積物の量とその状況、多くの断層の存在とその附近の風化の進み具合を正確につかんで崩落の危険のある箇所を知ることができた。ある程度熟練した技術者が見れば、その沢あるいは斜面は崩落に対して免疫性を有しているかどうかは容易に知ることができるのである。被告がこの危険区間につきどのような調査をし、斜面や沢の崩落に対する危険を検討しつつ改良工事を進めて行つたのかその全貌を知ることができないが、このような調査をしないまま崩落の危険を全く認識せずに改良工事を実施したとすれば、極めて杜撰な改良工事といわなければならないし、調査の結果危険を認識してはいたが崩落の危険に対処する防護施設を完備しないままに現在のような道路にしたとすれば、著しく人命を軽視した改良工事という非難を免れない。

更にいえば、前述のように明白な危険を知りながら、被告は財政上の制約から防護施設の完備をはじめから放棄し、差迫つた産業、経済上の要請に応じ改良工事を押し進めていつたのである。

3 被告は本件土石流の発生は「予知」できなかつたと主張するが、この「予知」とは土石流がいつ、どこで、どの位の規模で発生するかを予め知り得ることを指すのであつて、道路の災害対策として崩落や土石流を考える場合にはここまで具体的な「予知」ができなくても一向差支えない。

土石流研究の専門家大同証人は、証拠調期日において崩落も含めて「土石流発生のための必要十分条件を明かにすることは現代の科学水準ではできないが、崩落や土石流発生のための必要条件のいくつか(主に地形的条件)はわかつており、崩落や土石流発生の危険が大きい箇所を予め指摘することはできる」という趣旨の証言をしている。災害対策の上で崩落や土石流を考える場合にはこれだけで十分である。

(三) 防護施設の不備

(イ) 既に述べたように、出張所が管理を担当する山間部、とりわけ七宗橋から白川口までの間は危険な山岳道路である。このような場所に設けられていた旧路線を改築し、交通量の著しい増大が予想される新路線を指定設置するにあたつては、少くとも危険な山腹斜面では、崩壊の恐れのないように法面を削りとつてその安全を確保し、土止め擁壁を設置し、沢筋では、崖錐その他の堆積物を除去したうえ、本件事故後に築造したような堰堤を設けるなど、十分な防護施設の設置をしなければならなかつた。

それにも拘らず、右区間を含めた危険な山岳道路部分の全般にわたり、本件事故前には防護施設がはなはだ不備であつた。その理由は、国道四一号の道路整備が数次の「道路五箇年計画」に基き産業、経済上ののつぴきならない緊急な要請にこたえるため、交通量の増加・輸送時間の短縮を主目的に路面の拡幅・舗装に重点が置かれ、落石・崩落などの危険に対する防護施設がなおざりにされ、道路の安全性が犠牲にされたためである。

(ロ) ところで、建設省の直轄工事で拡幅の完了した昭和三九年二月から本件事故前の昭和四三年七月までに、右区間に設置された防護施設は種子吹付・植生・モルタル吹付・PNC・ストーンガード・石積擁壁よりなるが、その大半は種子吹付・植生及びモルタル吹付である。即ち、それは別紙9の一覧表のとおり、種子吹付は一一箇所延一四八六四m2、植生は二箇所延八二九m2、モルタル吹付は五箇所延一四一六〇m2に及ぶのに反し、ストーンガードは二箇所延一〇〇メートル、石積擁壁は二箇所延約六三〇m2、PNCは四箇所延四二四m2にすぎない。

右工事は、65.9Km地点の石積擁壁を除き全て法面保護工事にすぎず、かかる工事はもともと法面が安定していることを前提として、地表面の浸蝕・風化あるいは小石の落石を防止することを目的とするものである。したがつて、右区間の道路山側斜面のように岩盤・岩石等が急傾斜をなし、断層・破砕帯などの影響で岩盤が非常にもろくなつて、法面そのものが不安定となつている斜面の崩落を防止するためにはほとんど効果がない。このような斜面では、勾配をゆるやかにして法面の安定を確保するか、あるいは後背地の土圧に耐える土止め擁壁を築いたうえ、法面保護工事を施すべきである。

また、モルタル吹付は、岩盤に大小の割れ目が多くかつ破砕され、地下水の浸出する法面では、崩落を防ぐのに無価値であるだけでなく内部に剥落した土砂を内蔵し内部の状況が不明なだけに危険ですらある。

これらの法面保護工事が崩落に対しいかに不完全なものであつたかは、64.4Km地点では昭和三九年に種子吹付をしたが同四二年六月に崩落し、64.2(64.17)Km地点では昭和三九年にPNC工法をしたが、同四三年三月に崩落し、更に崩落後はPNC工法にかえてスロープネットを張り立てる工事方法を施したが、これまた本件事故時の崩落に対し無力であつた事実がなによりも如実に示している。

(ハ) バス集団が南進をはばまれた64.17Km地点には、PNC工法施行後の昭和四三年三月崩落したため、これにかえて下部に石垣を作り、その上部にスロープネットを設けていたが、本件事故時の崩落によりその大半が倒壊し土砂に埋没した。この石垣は、高さわずか3.7メートルにすぎず、石垣の約八三メートル上部の後背地を最上端とする崩落になんの役割も果しえなかつた。右石垣は、後背地の土圧を抑止することを目的とするものではなく、また、スロープネットは岩石などの路面上への落下を防止する施設にすぎず、崩落防止の機能はない。

(ニ) 本件沢には、道路の安全を確保するための防護施設は全く存在しなかつた。道路管理者である事務所出張所は、本件道路改築の際はもとより、改築後も本件事故発生までの間に一度も本件沢の状況を踏査したことはなく、大量の崖錐その他の堆積物が沢の河床等に堆積し、不安全な状況にある事実を知らず、そのため危険なままにこれを放置することになつた。もし、事務所出張所が事故発生前に本件沢の状況を調査していれば堆積物の除去、堰堤の築造等の方法により、本件事故を未然に防止することも不可能ではなかつたはずである。

(ホ) 本件沢が国道と接する部分には従来土橋がかかつており、沢の水は橋の下方から飛騨川に流れ落ちていた。事務所は道路改築にあたり、土橋の下方の空間を埋め国道路面下わずか一メートルの位置に直径1.25メートルのヒューム管を設置し、沢の水をこれに通して飛騨川に落すようにした。右ヒューム管の設置は専ら沢を流れる水量の通水のみを念頭においた設計であり、沢の深さ・広さ・傾斜・堆積物等を考慮し、沢水が運ぶ土砂の飛騨川への排出を全く配慮しないものであり、そのため事故前に沢の出口に約1.0〜1.5メートルの土砂が堆積していた。もし、本件沢の国道との出会部分に橋がかけられていれば、沢の出口附近に土砂が堆積することもなく、土石流は橋の下を飛騨川へ流れ落ちた。

(ヘ) 本件事故後被告国及び岐阜県は多額の費用を投じて後述のように本件沢及び附近の沢に種々の防護施設を設置したが、この事からも本件事故前における右危険区間の道路に対する防護施設がいかに不備であつたかを容易に推認しうる。

(四) まとめ

被告は、昭和三四年以降、本件国道を建設省の直轄工事として拡幅工事など一連の改良工事を実施するに際し、とくに七宗橋以北の山間部につきその地形・地質・気象条件・災害歴などを綿密に調査し、且つ国土を横断する重要幹線道路として、そこを通行する国民の生命・身体・財産を危険におとしいれることのない道路を設定しなければならなかつた。

そのためには、山崩れ、土石流の発生しやすい危険な地域、又は個所を避けて安全な位置に路線を決定するのが第一である。どうしても危険な地域を通つて路線を決定しなければならないときには、その地域の地形・地質・気象条件を十分に考慮し、交通の危険をおよぼす恐れのある個所には落石・崩落あるいは土石流を十分に阻止しうるような防護施設あるいは橋梁を設けることが必要である(道路法二九条、道路構造令三一条)。

しかるに、被告は「道路整備五箇年計画」による交通容量の増大と輸送時間の短縮に重点を置いて道路の拡幅・舗装のみを推進し、最も基本となるべき道路の安全性を確保するという見地からの措置を怠つた。

本件事故当夜各所で発生した崩落や土石流により、本件道路が寸断され、そこを通行していた多数の車両が危険にさらされたこと自体、本件道路が通常の安全性を備えていなかつたことを推定させるものであるが、先に述べた改良工事における調査の不備、道路の安全性を犠牲にした工法、防護施設の不備等は右安全性の欠如をより一層明確に示している。

C、管理の瑕疵

(一) 道路管理に要求される安全性

(イ) 国土を縦横に走る道路は都市と町や村を結ぶ国民の足であり、一つの地域社会と他の地域社会とを経済・文化等多方面において有機的に結びつける動脈である。現代の国民生活はもはや道路なしには考えられない。近時輸送は鉄道から自動車中心へとその主役を交代させつつある。汽車電車に乗つての旅、あるいは長い貨物列車による輸送といつた形態からバス等自動車による観光旅行、ドライブあるいは戸口までそのまま届くトラック輸送へと変りつつある。それだけ交通手段における道路の果す役割は年々大きく、またその重要性の度合を増してきている。

国民生活の中でこのように重要な役割を果している道路に対して要求される安全性について考えてみる。

道路の有する地理的条件、構造通行量等によりその道路に要求される安全性は異るものと考えられる。道路の通行量が多ければ多いほど、また社会生活の中で占める重要度が高ければ高いほどその道路に要求される安全性は高度なものとなる。

(ロ) 国道四一号は、前に述べたように、東海地方と北陸地方の経済を結んで中部山岳地帯を貫いて走り、その交通量は年々増加の一途を辿つており、昭和四三年当時の一日の交通量は山間部(例えば益田郡萩原町)でも四、〇〇〇台を越えていた。この国道四一号を更に発展させるものとして東海と北陸を結ぶ東海北陸高速自動車道の建設がすでに決定されている。このように日本海岸と太平洋岸を結んで昼夜の別なく多数の自動車が走行する国道四一号は、単に一地域社会の生活に限らず日本全体の国民生活の中で極めて重要な役割を果している重要幹線道路である。それゆえにこそ、この道路については極めて高い安全性の確保が要求されるのである。

道路管理者としては国道四一号に対して求められる高度の安全性を確実に維持することが、その職務のうち最も重要な一部になつている。従つて交通における国道四一号の重要性が増すのに伴い、そこに要求されるより高度の安全性確保に努めることもまた管理者の職責であるといわなければならない。国道四一号を利用する国民の側は、常に道路がその道路にふさわしいだけの安全性を備えていることを信頼し、安心して通行しているのである。

本件事故は、管理者が通行者の期待していた安全性の確保を怠り国民の信頼を裏切るような管理をしていたために発生したものである。

(二) 災害態勢と気象情報

(イ) 災害態勢

1 建設省は災害対策基本法に基き、所管業務につき防災業務計画を作成し、傘下の各地方建設局ではこの計画をうけて災害対策要綱を決定し、災害対策本部運営計画を毎年度作成する。

中部地方建設局(以下中部地建という)でも「中部地方建設局災害対策要綱」(以下対策要綱という)を策定し、この中で災害に対処する態勢として

(1) 注意態勢

(2) 警戒態勢

(3) 非常態勢

の三つの態勢を定めている。

そしてこの対策要綱を実施するため「中部地方建設局災害対策本部運営計画」(以下対策本部運営計画という)が作成されている。

中部地建道路部傘下の役所である岐阜国道工事事務所(以下事務所という)では災害対策要綱、災害対策本部運営計画に則り、「災害対策部運営計画」(以下運営計画という)を毎年度作成し、前記三つの態勢における事務所の具体的な行動を定めている。

事務所長が対策部長となり職員を、

(1) 総務班

(2) 整備班

(3) 工務班

(4) 機械班

(5) 対策班(出張所担当)

の五つの班に分け、態勢の各段階に応じて担当職員を所定の班に配置することが決められている。

うち整備班においては、

(1) 気象資料の収集

② 交通状況の把握

(3) 対策本部や関係諸機関との連絡と指令の通報に関する仕事

(4) 管内道路の巡回と交通障害箇所の調査、交通障害の防除

を担当することに定められており、対策班にも情報の収集・管内道路の巡回の仕事につく警備係が置かれている。

事務所傘下の役所で国道四一号の管理に直接携わる美濃加茂国道維持出張所(以下出張所という)も、災害対策要綱と事務所の運営計画をうけて、右三態勢に対応する「美濃加茂維持出張所災害対策運営事項」(以下運営事項という)を定めている。

ここでは各態勢に応じた動員配置が定められている。

2 これらの災害対策を通覧するに、事務所を災害対策の単位として異常事態に対処しようとしており、各態勢への発令者は事務所長と決められている。

態勢発令の基準は気象情報、災害発生の報告、災害発生が予想される情報等により対策部長が判断することになつている。

3 また管理の基本となる道路パトロールについては平常時パトロールと災害等の予想される場合の異常時パトロールの二つがあり、右三態勢下では異常時パトロールを行うことが予定されていた(本件事故後になつて異常時パトロールは各態勢に応じて注意パトロール・警戒パトロール・非常パトロールに改められ、パトロールの際の重点も細く決められた)。

(ロ) 国鉄高山線と木曾川の災害態勢

1 七宗橋以北から下呂町にかけて国鉄高山線は飛騨川(上流部は益田川と呼ばれる)をはさんで国道四一号と併行して走つている。事故当時における高山線の災害態勢を見ると大略次のとおりであつた。

名古屋鉄道管理局は昭和三六年八月三一日「線路に災害発生のおそれある区間の運転取扱い方について」(名達甲一三一号)と題する局長通達を出し、線路に災害発生のおそれある区間の運転取扱い方を定め同年九月一日から実施していた。

これは予め災害の予想される路線の区間を定めて、沿線の要所々々に時雨量警報器(自記雨量計に警報器を接続し、雨量が一定量をこえると警報のなるしくみのもの)を設置し、雨量が一定の数値に達したときは列車の速度を制限し、更には線路上に崩落等の障害が発生していなくても列車運転を中止することを定めた運転規制基準である。

規制の内容は規制区間で

(1) 時雨量が三〇mmを越えて豪雨の続くとき、

(2) 日雨量が一五〇mm以上に達したとき、

(3) 連続降雨量が二〇〇mm以上になつたとき、

のいずれかに該当するときは列車の速度を三〇Km/h以下に制限し、

日雨量が一〇〇mmをこえ且つ時雨量が三〇mmをこえたとき

には列車の運転を中止するというものである。

また運転の規制は迅速を要するため、雨量警報器を管理する駅長が右規制の内容を専決で実施できることになつている。高山線の上麻生駅から飛騨金山駅の間は右運転規制が実施された昭和三六年九月から規制区間に指定されており、雨量警報器は白川口駅と飛騨金山駅に設置されていた。

事故当夜白川口駅では同駅二二時三二分発の下り列車がホームに入つたが、降雨がはげしいので発車を見合せるうち、運転中止の規制雨量を越えたので二三時の時点で列車の運行を中止した。間もなく保線区員から白川口、下油井間の線路上に障害が発生したとの連絡が入つた。

2 建設省と気象庁が共同して行う木曾川・長良川・揖斐川の洪水予報業務(水防法、気象業務法による)に関し、木曾川水系内の各関係官庁・諸団体により「木曾川洪水予報連絡会「(以下連絡会という)という組織が作られている。

この組織は昭和二四年頃発足し、中部地建と名古屋地方気象台が中心になり名古屋通産局・名古屋営林局・電々公社・愛知用水公団といつた諸官庁、NHK・CBC・東海テレビ等といつた報道機関、右三川沿いの県市町村、その地方を走る国鉄・私鉄・右三川にダムを有する電力会社等で構成されており、災害発生の虞ある場合における相互の迅速確実な連絡を確保し水害を予防し、被害を軽度に食い止めようというのがその目的である。

連絡会では、観測データーの報告、洪水予報の伝達に関し、「木曾川洪水予報通報規定」を定めているが、この規定では右木曾川沿いに気象台・測候所・中部地建・土木事務所・公団・電力会社等が有する全ての観測点における雨量・流量・水位といつた観測データーを速やかに気象台と中部地建河川部に集中させ、洪水予報を適確に出し、その予報が連絡会構成員に伝達され対応策が速やかに取れる仕組ができ上がつている。この情報伝達には予め伝達の型式が定められ発信者と伝達文には予め略号が定められており、伝達の際の無駄を省く配慮もされている。中心的役割を果すのは名古屋・岐阜の地方気象台と中部地建河川部の木曾川上流・下流の両工事事務所と河川部管理課である。

こうして集められた情報に基き水防法・気象業務法による洪水情報が発表されるのであるが(本件事故当日も現に発表されている)、木曾川上流工事事務所等に集められた雨量に関するデーターは、中部地建傘下の役所でも道路部には全く伝えられていない。

3 国道四一号は相併行して走る国鉄高山線、飛騨川(美濃加茂市で木曾川の本流と合流する)のいずれと比較してもその災害対策においてはるかに立ち遅れている。

国道四一号については、当時雨量による災害発生前の通行規制という考え方も、通行規制のための明確な基準も存在しなかつた。

(ハ) 災害態勢と気象情報との対応関係

1 先に述べたように、中部地建では、注意・警戒・非常という三つの災害態勢を定めているが、事務所に関しこの三態勢と気象台の発表する各種注意報と警報との対応関係を検討してみる。

右三態勢の発令は、対策部長たる事務所長が行うことになつているが、その判断の資料となるのは気象台からの気象情報・管内の現実の降雨に関する報告や観測データー・落石土砂崩落等の災害の報告などが考えられる。

この判断資料の中でも気象台からの気象情報は最も比重の高いものと考えなければならない。

2 これらの三態勢の発令は岐阜地方気象台の各種注意報・警報の発表とは次のように対応すると考えるべきである。

風雨・大雨・雷雨等道路管理に関係ある「注意報」が発表された場合には事務所はその内容によつて注意態勢又は警戒態勢に入らなければならない。この段階で交通規制の実施を検討すべきである。注意報が出ている場合でも、管内の降雨状況や災害発生の状況によつては、非常態勢をとらなければならない場合も出てくることも当然考えられる。

大雨・洪水等道路管理に関係のある「警報」が出された場合には、事務所は非常態勢に入らなければならない。

3 このように考える理由は次のとおりである。

気象台が各種注意報・警報を発表するについては、気象業務法・気象庁予報業務細則に定めがある。

a 被害が発生する虞のある異常気象が予想される場合には、異常気象の内容に応じて大雨・風雨・雷雨・洪水等の「注意報」が発表される。

岐阜県の場合美濃地方で一〇〇mm、飛騨地方で七〇mmに達する日雨量(任意の連続する二四時間の雨量)が予想される場合には、大雨注意報が出される。多くの場合当該地域に相当の降雨があつた時点で注意報が出される。

b 重大な災害が発生する虞のある異常気象が予想される場合には、その内容に応じ大雨・洪水等の「警報」が出される。

岐阜県下では日雨量が二〇〇mmを越えると予想される場合に大雨警報が発せられる。発表の段階では当該地域で相当の降雨が続いており注意報から警報に切りかえられる例が多い。

大雨警報は年平均数回発せられ、年によつては一度も発表されないこともあり、この発表は極めて稀であり、それ自体重大な事態の発生である。岐阜県では昭和四〇年九月一七日に台風二四号接近に伴い暴風雨洪水警報が出され、同年一二月一七日大雪警報が出された後本件事故当夜までの二年六ケ月余の間警報が出されたことはなかつた。雨についてのみ考えれば約三年の間である。

別紙10の崩落事例八件はいずれも昭和四〇年一二月より後に発生したものばかりである。この中には推定土量一〇〇m3を越えるものが四例あるが、崩落の起きたときに警報が出されていたことはない。この事だけからしても、警報発表を知つてから警戒態勢に入るのでは遅きに失するし、警報が発表されなくても非常態勢をとる必要ある場合のあることは明らかである。

本件事故後国道四一号につき実施された規制雨量を見ると

a 連続雨量六〇mmで通行注意

b 連続雨量八〇mmで通行止

である。前述のとおり「注意報」の段階で右規制雨量を越えることは明らかであるから(気象台の基準では日雨量一五〇mmでも大雨注意報しか出ないことがあり得る)、注意報発表の段階で当然注意態勢又は警戒態勢を敷き交通規制の実施を検討する必要がある。

(二) 気象情報の伝達と管内降雨量の把握

1 災害対策における気象情報の重要性を考えると、気象情報伝達の遅れは大きな問題である。岐阜地方気象台二〇時発表の雷雨注意報が事務所に伝えられたのが二〇時五〇分であり、二二時三〇分発表の大雨警報は二三時二五分になつて伝達された。道路管理者としては気象台等の関係官署と連絡協議して、速やかに気象情報の伝達される機構を確立しておく必要があつた。

2 気象情報にもまして重要なのは管内各地における降雨状況の速やかな掌握である。国道四一号の右出張所の管理区間は各務原市鵜沼から下呂町東上田までの76.1キロメートル(うち坂東橋以北の三六キロメートルを金山工区で管理する)に及ぶのに、出張所と金山工区に自記雨量計が設置されているのみで、管内全域の雨量を迅速且つ正確に把握できる設備はなかつた(前記連絡会の有する飛騨川沿いの一八ケ所の雨量観測点と対比すれば一目瞭然である)。道路管理者としては、管内の雨量を正確に把握するため各所にテレメーターを設置したり、あるいはそれに代るものとして中部地建河川部の木曾川上流工事々務所等と連絡協議し、飛騨川沿いの雨量情報が事務所へも速やかに伝達されるような仕組みを作り上げておかなければならなかつた。

(ホ) 危険地域への交通規制

国道四一号の七宗橋(54.1Km)以北は危険な山岳地帯を貫通している。国鉄白川口駅附近、飛騨金山の街並、下呂の温泉街の三ケ所を除いてはその沿道には人家も少く、道路は急傾斜の山腹やそそり立つ岩壁の直下を走つており、大量の降雨がある際にはいつどこから崖くずれあるいは落石が発生するかも知れないような地域がほとんどである。殊に七宗橋と飛泉橋(66.7Km)の間は危険箇所が連続して集中している。

管理者としては、平時よりこのような状況を念頭において管理にあたり、一旦大量の降雨により崩落等が発生する危険が予想されるような場合には、交通安全確保という観点から、この危険な地域についての通行止措置をし、更には危険地帯の路上にある車両を安全な場所に誘導することが当然の職責である。具体的には、危険地域に入つている自動車を安全地域である白川口駅附近、金山町、下呂の温泉街、七宗橋以南の四ケ所のうち最も近いところまで速やかに誘導することが必要である。少くも最も危険な地域である七宗橋と飛泉橋間については、その中にいる自動車を安全地帯へ誘導し、危険区間内の自動車を一掃することは交通規制実施の際に欠くことができない。この誘導を欠くときは交通止をした意味が半ばは失われるのである。

本件事故当時はこのような規制を実施するための基準や態勢が確立されていなかつたがこのことは規制を実施しなかつたことを正当化するものでは決してない。

(三) 事故当夜管理者のとつた行動

(イ) 二〇時発表の雷雨注意報の伝達まで

1 一七日正午まで

(1) 事務所

一六日午後から一七日にかけて台風七号が日本海を北上しながら通過したため、岐阜県北部・西部の山間部には局地的に大雨が予想され、岐阜地方気象台は、

①一六日一七時三五分 台風情報第一号

②同日二〇時〇〇分  風雨注意報

③一七日九時三〇分  大雨・洪水注意報

を相ついで発令し、事務所は右情報・各注意報の全文を約三〇分後に気象台より通報され③の注意報の内容を美濃加茂国道維持出張所ほかの管下各出張所に伝えた。事務所は右情報、注意報を受けたが、その発令及び内容を知つていたのは管理課員のみで、管理課においても右注意報に基き、県下各地の降雨状況等天候に関する情報の蒐集もせず、一七日午前中事務所全体が平常の勤務を続けた。

一七日一〇時三〇分頃、村田出張所長・谷端技官が事務所管理課と打合せのため事務所に到着し、右③の注意報発令中であることを知つた村田は谷端に指示してこれを金山工区に通報させるとともに金山工区の天候状態を尋ねさせた。

その後一一時一〇分気象台から大雨・洪水・雷雨注意報が発令され、事務所は一一時三七分その全文の伝達を受けたが、事務所がその注意報を管下の各出張所に伝えたかどうか明らかでない。

事務所員は、このように注意報が相つぎ、その内容が道路に対する危険を具体的に指摘しているのに、数名の管理課員を除き他の職員は定時刻に退庁した。

(2) 出張所

一七日午前九時頃、岩田・大場の両名が連絡車で出張所金山工区間のパトロールに出発し、右区間の途中にある熊野島ドライブインに所用の青木管理主任も連絡車に便乗した。同時刻頃中園・長谷川の両名は人夫五人と共に金山工区管内の村君にデリネーターの設置作業に出発し、塩谷は人夫二名を連れて美濃加茂・鵜沼・羽場・三柿野方面に道路の補修作業に出発し、次いで九時三〇分頃村田所長と谷端の両名が連絡車で事務所に向けて出発した。郷右近技術係長は午前中出張所内で執務しており、前記(1)③の注意報が事務所より伝えられたのを知つた。一二時頃、岩田・大場のパトロール班が出張所に帰り、青木は帰途も熊野島から便乗したが、往路熊野島までに小雨がパラついていた。

(3) 金山工区

榊原・諸井は一七日午前中一〇三Km附近の三原地内で花畑の草取作業をした。作業中三〇分位降雨に見舞われたが合羽をきて作業を行つた。

2 一七日二一時まで

(1) 事務所

一二時三〇分、当日の宿直員河合隆俊は宿直室で任務についたが、午前中発令された前記各注意報については管理課より知らされていなかつた。

一七時二六分、河合は気象台から一一時一〇分発表の前記各注意報が一七時一五分に解除されたとの連絡を受け、これを事務所に残つていた杉山管理係長に伝えた。杉山からこの連絡を受けた金森維持修繕係長・鈴木管理課長は一七時三〇分頃帰宅した。次いで河合は右注意報解除を出張所に伝えた。その後、河合は宿直室でテレビをみていたところ、二〇時五〇分気象台から二〇時発表の雷雨注意報の連絡を受けた。

(2) 出張所

青木・郷右近は一四時半まで執務していたが、青木は誰れかから午前中発表になつた右注意報を聞き、郷右近は事務所より帰つた村田所長から注意報発令中を聞いた。塩谷は正午頃食事のため帰所したが、一四時頃再度補修作業に出発し、一六時三〇分頃作業を終えて帰所した。当日は土曜日であつたが出張所では直営作業現場があるので、技術係職員八名は出張所に残り執務をしていた。一四時頃村田所長及び谷端が事務所から戻り、一四時三〇分頃から居合せた職員と「道路を守る月間」について雑談的な打合せ会をした。一六時過ぎ、中園・長谷川が作業より帰り、作業中に夕立に会つたと報告したが、村田所長は前記各注意報の内容を知りながら、別に異常を感じず、降雨状況の調査等をしなかつた。一七時三〇分頃質事務所の河合から大雨・洪水・雷雨注意報解除の連絡が入つたので打合せ会を終リビールを飲んで散会した。その後村田・青木らは宿直室でマージャンを始め、郷右近はしばらく見ていたが酔つたので一九時頃出張所裏の官舎にもどり就寝した。一九時半頃マージャンをやめた村田は、名鉄今渡駅一九時五〇分発の電車で名古屋に向つたが、宿直員の青木に対し特別の注意は与えなかつた。二〇時頃、金山工区諸井から電話があり、降雨があつたのでパトロールした結果、九三Km地点の三渕にバラバラと落石があつたが箒木ではいて片付けたとの報告があつた。青木は、諸井から受けた報告内容については村田所長郷右近技術係長などに報告しようとせず、かつ右落石が降雨によるものであることは注意報発表解除の経過から明らかであつたにも拘らず、金山方面の降雨状況の把握に努めず、そのままテレビをみて過していた。

青木がテレビを見ている間に、気象状況は激しく変り、二一時頃事務所の河合から二〇時発表の雷雨注意報を受け、青木はその本文をメモした。

(3) 金山工区

一二時三〇分頃榊原らが工区にもどると出張所の中園・長谷川らが昼食に寄つており、榊原は妻から雷雨注意報の連絡が出張所からあつたことを聞いた。一三時から一六時頃まで榊原は人夫をつれて八〇Km附近でデリネーターの設置工事をして工区にもどつた。一七時少し前、金山町附近に夕立のような雨があり、雷鳴もあつたので翌日が日曜日のことであつて道路に不安を感じたので、榊原は諸井と相談して諸井を下呂方面のパトロールに向わせたが、出発に際し出張所の青木には金山町附近の降雨状況も報告せず、パトロールに出ることも連絡しなかつた。

一八時三〇分頃諸井が工区にもどり九三Kmの三渕で土砂が谷水と共に道路上に流れ込んでいるとの報告をしたので、善後措置のため二人で同所にセフティコーンを置きに行き一八時五〇分頃作業を終り二〇時頃工区に帰つた。工区から諸井が出張所の青木にパトロールに出たこと、三渕にセフティコーンを置いてきたことを報告した。諸井のパトロール中及び作業のための往復路・作業中もずつと降雨があつたのに青木も諸井も降雨状況についての特別の関心を払わなかつたた。

(ロ) 雷雨注意報の伝達

注意報の内容が既述のとおり道路に対する危険を現実に予知させるものであつたのであるから、河合は注意態勢に入る必要があるのに鈴木管理課長にこれを直ちに連絡しなかつた。そして、自分独自の判断で二一時頃右注意報を美濃加茂・大垣・岐南の三出張所のみに伝え、岐阜・八幡の各出張所には通報もせず、宿直室に張つてあつた「お願い」と題する宿直員に対する管理課規定による管理課長への連絡も怠つた。

当時の災害対策部運営計画によつても、注意態勢に入るべきか否かの判断をするため県下担当路線の現実の降雨状況の把握に努めなければならず、そのため少くとも担当の管理課員に連絡する必要があつた。

ところが、河合は事務所附近と出張所附近で降つていなかつたとの事実のみで判断し、管理課長に注意報を知らせなかつたが、当時八幡出張所附近では時間雨量五一mmの豪雨の最中であつた。

一方、河合より右注意報を伝えられた青木は、その内容が重大であつたにも拘らず村田所長はもとより郷右近にも連絡しようとせず、かつ右注意報を金山工区に伝えなかつた。特に青木は先に金山工区から三渕の落石の通知を受けていたのであるから、事務所に三渕の落石を報告すると同時に、遅くともこの段階で注意パトロールに出なければならず、担当区間の現実の雨量の把握に努める義務があつたのに、これを怠り漫然とテレビをみて時を過した。

金山工区では、どこからも二〇時発表の雷雨注意報の伝達を受けず、諸井は工区より離れている官舎に帰り、榊原は風呂に入リテレビをみて就寝した。

(ハ) 白山地内崩落の通報

二二時二〇分頃、テレビを見ていた河合は岐阜県警本部から白山地内で発生した土砂崩落を知らされた。河合は管轄の八幡出張所に電話で尋ねたが同出張所宿直員永井は知らないとの返事であつた。その際永井は「雷と雨が強くてパンツ一つでおるんだ。」と答えており、同出張所附近はなお豪雨のさ中にあつた。河合は鈴木管理課長に県警本部からの連絡と八幡出張所との連絡状況を伝えたところ、鈴木はすぐ事務所に出るから官舎の金森を起せと河合に指示した。

二二時三五分頃、金森・鈴木が相前後して事務所に出てきたので、河合は鈴木管理課長に右注意報の内容を知らせた。八幡出張所から応援要請の電話を受けた金森は、鈴木の指示で橋口運転手が河田八幡出張所長を乗せて右出張所へ向うよう手配したた。

二三時少し前、鈴木の指示で足立機械課長が出所して無線の開局をし、二三時一〇分頃鈴木・金森は協議して市川工務店に八幡町の崩落現場へ重機を手配するよう依頼した。

事務所は、このような状況で白山地内の土砂崩落が起きたこと、右雷雨注意報発令中であることを知りながら、管轄下の各出張所に対し白山地内に土砂崩落の発生したことを知らせず、或は注意パトロールに出よとの指令も発せず、又管轄各路線における現実の雨量に関する情報蒐集にも全く努めなかつた。そのため、相当人数のつめかけていた事務所ですら、二二時五八分ラジオ放送の二二時三〇分気象台発表の大雨警報・洪水注意報を知らず、更に二三時一五分テレビ放映の右警報・注意報をキャッチできなかつた。村田所長・青木・榊原も右警報・注意報の放送・放映についてこれを知らなかつた。

結局、白山地内の土砂崩落を知つて事務所のとつた行動は、その崩落の排除に関するだけのものであつて、その際二〇時発表の注意報を知つたものならば当然予知し得た管轄四一号線での土砂崩落に対して配慮する者は誰一人としていなかつた。

(ニ) 下油井地内崩落と二二時三〇分発表の大雨警報等の伝達

――第一回パトロール――

1 事務所

二三時二五分頃、出張所青木から下油井地内に土砂崩れ発生との電話が入つた。

鈴木は、無線を開局してパトロールに出るよう青木に指示したが、その際、出張所でも非常態勢に入るべきこと、八幡町白山地内に土砂崩落が発生したこと、同所では現在豪雨が降つていることを伝えず、逆に青木から出張所・金山工区附近の降雨状況についての情報を蒐集せず、青木も二〇時頃三渕に降雨による崩落のあつたことを報告しなかつた。

二三時二五分、気象台から二二時三〇分発表の大雨警報・洪水注意報の全文が事務所に伝えられ、金森は八幡出張所に右警報を伝えたが他の出張所には伝えなかつた。金森は村田所長の自宅に電話し、直ちに出張所に出るよう指示したが村田は晩酌をやつたので直ぐ出られないとの返事であつた。

鈴木が出張所に電話したところ塩谷運転手の妻一人が留守番しており、警報を伝えたが要領をえなかつた。

鈴木は二三時四〇分頃、金山工区の榊原に下油井地内の土砂崩落のあつたことを知らせ、すぐ現場の確認に行くことと建設業者への手配を指示した。その際、鈴木は榊原に対し金山工区附近の今までの降雨状況を尋ねもしなければ、八幡町地内にも崩落のあつたことを伝えず榊原も三渕の落石の報告していない。

この頃になつて鈴木ははじめて坂上事務所長に事態を報告したが、所長からは特別の指示もなく「まあしつかりやつてくれ」とのことであつた。

一八日〇時半頃、出張所の谷端から下麻布地内で道路冠水・家屋流失・通行不能の報告が入り、鈴木は金森・杉山らを出張所へ赴かせることにし、一時頃同人等は出発した。金森らは二時頃出張所に到着し、郷右近・青木からパトロールの状況を聞き鈴木にこれを報告した。

2 出張所

二三時二〇分頃、青木は美濃加茂警察署から下油井地内に土砂くずれ発生の連絡を受け、これを事務所の金森に報告し、同人の指示でパトロールに出ることにした。

青木は出張所構内の官舎にいる郷右近を起こし、二人で準備をしてあわただしくパトロールに出たが、その際、郷右近に二〇時発表の注意報を伝えず、又パトロール区間の雨量その他の状況の把握を試みようともしなかつた。

郷右近はパトロールの出発に先立ち既に就寝していた同じ構内官舎の塩谷に留守番を頼んだので、塩谷は急いで服を着て事務所に行つたが、青木らと面談の余裕なく、直面している事態については何も知らなかつた。

塩谷が事務室に入ると、白川町役場から坂東橋附近(下油井)の土砂崩れを知らせてきたので、驚いた塩谷は村田所長にその旨連絡しようとしたが電話が通ぜず、事務所に電話したところ既に事務所では右崩落を知つていたが、事務所から塩谷に対しては特に指示はなかつた。

村田は、同四〇分頃事務所から下油井の土砂崩落と大雨警報発令中の電話を受け、直ちに出勤するよう指示され、その最中に出張所の塩谷からも電話が入つたので、同人に対し塩谷の妻を留守番にさせ川辺町の官舎の職員三名を呼びに行くよう指示し、更に白川町の大脇建設と金山町の金山建設に電話して下油井の土砂崩れ排除のため重機の出動を要請したが、その際、白川町地内に激しい降雨があるため出動不能との返事を大脇建設から聞いた。

村田から右指示を受けた塩谷は、妻を留守番にして自動車で川辺町の官舎に向つたが、途中川辺駅前附近の道路は膝くらいまで冠水しており自動車での通行は不能であつた。

一八日〇時二〇分頃、塩谷の連絡により谷端・松岡ら三人が出所したが、状況を知らない同人等は川辺町附近の災害状況を事務所に報告したのみで待機しており、当時出張所の職員を指揮する職員はいなかつた。その間にも出張所に対し道路上の土砂崩落に対する手配を要請する電話が美濃加茂署より塩谷の妻にあつた。

村田所長は〇時三〇分頃、名古屋国道工事事務所の自動車を借りて名古屋の宿舎から出張所に向け出発した。

(第一回パトロール)

郷右近・青木のパトロールは、無線を開局して出発したが、美濃加茂附近では雨に合わず、中川辺あたりから小雨のなかを普通の速度で走つていたが、七宗橋附近から突如ものすごい豪雨の中に突入し、山側から土砂流が路面に溢水している中を二五〜三〇Km/hの速度で進み、途中無線による出張所との交信を試みたが通じなかつた。

途中、路端にとまつている自動車に動くことは危険だとの警告を与え、又自らの生命・身体に危険を感じながら走行しなければならない道路状況であつたのに、七宗橋附近で北進禁止の措置もとらず、白川町からの南進禁止の措置を手配しようともしなかつた。

七宗橋を過ぎて途中、落石などのある危険箇所五ケ所ぐらいに、バリケード警戒灯・セフティコーンを設置しながら、〇時三〇分頃64.17Kmに到着したが、そこで大崩落にぶつかり前進をはばまれた。

青木らが右地点についたときには、同地点には三重急行の乗鞍行バスが前方の土砂崩落のため停車しており、同バスは青木らが崩落の手前にバリケードを置くのを見て引き返して行つた。

丁度その頃、同じ土砂崩落をはさんで北側に片山達雄が南進をはばまれていたが、同人はパトロールカーの回転灯を目撃し、道路管理者が現場に居ることを知つてやがて土砂が排除されるか救出されるか何らかの方策がとられるものと期待していた。

青木・郷右近の両名は、右崩落にあつて更にその北方にも同じような土砂崩落が発生しているかも知れないと予測し、かつ右崩落の北側に現に南進をはばまれた車両が多数あり、そのことは当然予想しえたのに、これに対する現場での対策・配慮を何もせず、一途に帰ることのみ急いだ。

帰路においても無線での交信は不能であつたのに電話による事務所・工区・警察署・町役場・消防団等との連絡を試みようともしなかつた。

青木らは帰路七宗橋のたもとで警官に会い64.17Kmの崩落と通行止めの事実を伝えたが、なお白川町での南進禁止及び既に右崩落現場に進入している車両の救出については想いをいたさなかつた。

更に南下して下麻生まで来たところ、道路冠水のため立往生し、その附近で三重急行バスの乗務員から電話を借りる家を尋ねられた。

一時四〇分頃出張所にもどると松岡・岩田・谷端・塩谷夫妻が居たが、交通止めの措置がとつてなかつたので、郷右近の指示で出張所前に北進禁止の看板を出した。

一時五〇分頃、村田所長が出張所に到着し、北進禁止の標識を大きくするよう指示した。

村田が青木、郷右近からパトロールの状況を聞いていた二時頃、事務所から派遣された金森・杉山らが出張所に到着し、青木らから右状況を聞いて事務所の鈴木管理課長に報告をしたが、それ以外に警察・町役場・消防団等には何の連絡もしなかつた。

3 金山工区

金山工区構内の官舎に住んでいる榊原は、二三時四〇分頃事務所の鈴木から下油井地内の土砂くずれを知らせる電話を受けたが、それまでは二〇時発表の雷雨注意報も二二時三〇分発表の大雨警報も通報されなかつた。

榊原は運転手の諸井を構外の官舎に自転車で呼びに行き、二人で自動車で崩落現場の確認に行き、一八日〇時二〇分頃現場に到着し、確認の後工区に帰つて諸井が鈴木に模様を報告した。

一時四〇分頃榊原は諸井と相談して金山町井尻地内の三叉路に南進禁止の標識をたて、工区から金山建設に重機の出動を要請した。

(ホ) 第二回パトロール

二時過ぎ村田所長・金森らは64.17Kmの土砂排除のため再度現場確認をするとて四台の自動車に分乗してパトロールに出発した。下麻生地内で道路が冠水して通行不能であり、一時間くらい立往生した。途中、事務所との無線連絡を試みた金森は交信できなかつたので、七宗村役場から事務所の鈴木に状況を電話で報告した。金森から被害状況の報告を受けた鈴木は、事務所長に電話し態勢に入りますと伝えたが、鈴木はこの時点で災害対策部運営計画の非常態勢に入つたと考えている。

一方、パトロール隊は三時三〇分頃、59.6Km附近(鈴ケ谷ドライブイン南)で土砂くずれに前進をはばまれ、引返し、六時頃ようやく出張所に着いた。

金山工区では四時三〇分頃、金山建設の重機が崩落現場に到着し排除作業を開始した。

災害対策部運営計画の最高責任者である坂上事務所長は、当夜、鈴木から二度の災害発生を伝える電話を受けながら遂に出所せず、午前八時になつてようやく事務所に姿を現わした。

八時すぎ村田所長は本件バス事故を知つた。出張所では八時三〇分(即ち通常の勤務時間)になつて、事実上の非常態勢が完成したが、対策部長からの命令はなかつた。

結局、道路管理者である事務所・出張所・金山工区の本件災害に際しとつた行動は全て後手後手であり、道路通行者の安全確保のためには何一つ役立ちえなかつた。

(四) 事故当夜とるべきであつた行動と災害態勢

前述のような考察を踏まえながら、本件事故当夜における管理者側の行動をながめ、どの時点でどのような災害態勢をとり、どんな措置をとるべきであつたかを順次時の流れに従つて検討する。

(イ)  注意態勢(20・50)

1 一七日二〇時五〇分、事務所は岐阜地方気象台(以下気象台という)から気象台二〇時発表の雷雨注意報全文の伝達を受けた。

この時点で、事務所は傘下の各出張所(全部で五ケ所)に状況を説明し、指示を与えると共に、運営計画に従い対策部を設置し、注意態勢に入らなければならなかつた。

2 その理由は次のとおりである。

(1) 前述したように「注意報」が発表された段階で災害が発生するのは極くあたりまえのことであつたし、右注意報本文「岐阜県南部のところどころに雷を伴う強い雨雲が発生していますが今夜半までところによつては落雷や局地的に強い雨が降りますから注意して下さい。このため低地の浸水、河川の増水、山くずれの起こるおそれがあります。中小河川では急に増水することがあります。」というもので、具体的に山くずれ、崖くずれの危険が指摘されていた。管内各所にその可能性の高い山間部を有する事務所としてはその危険に思考を巡らすべきであつた。

(2) 右雷雨注意報は、一七時一五分に大雨洪水注意報が解除されて間もない時期に発表されたものであるし、前日の一六時から台風七号の接近に伴い岐阜県各地に断続的な降雨が続いており、累積された降雨の影響の可能性が強いことを併せ考え、普段の注意報発表の場合より一層強い警戒が必要であることは常識である。

(3) 出張所の下部組織である金山工区の管理する国道四一号三渕(93.0Km)附近には降雨による小規模な崩落が発生しており、その崩落は管理に携わる職員としてそのまま放置することはできず、一旦金山工区にもどつて再度その地点へいきセフティコーンをまわりに置く必要を感じる程のものであつた。(当夜は出張所宿直の青木がこの報告を握りつぶし事務所へ連絡しなかつたが、事務所としては当然知つていなければならないものであつた。更につけ加えれば、この三渕の崩落を事務所が知つて、国道四一号の警戒を一層厳しくし、事務所管内全域に異常時パトロールを出して注意態勢に入ることも可能であつたと考えられる。)

3 実際には、事務所は注意態勢はおろか、美濃加茂・岐南・大垣の三出張所に右注意報を伝えたのみで、何もしなかつた。出張所も注意報を受けたが何の措置もとらなかつた。

この時点で注意態勢に入つた場合、事務所は急いで木曾川上流工事々務所への電話等の方法により管内各地の雨量等の情報蒐集にかかると共に所長以下運営計画に定められた人員を確保し、管内各方面に向けて異常時パトロールを派遣し、速やかに管内の道路がどのような状況にあるかを正確に把握する必要があつた。

4 国道四一号についていえば、出張所の運営事項に定められた注意態勢下の人員を確保し、直ちに管内全域のパトロールを開始し、あるいは、雨量の観測データーを有する木曾川上流工事々務所等関係諸機関との連絡により降雨状況の把握に努めなければならなかつた。

もつと具体的にいえば、二一時頃には美濃加茂市の出張所から金山工区まで日常行われるパトロールのコースに準じて異常時パトロールを出発させなければならなかつた。

このパトロールカーのスピードを四五Km/hとすると、そのパトロールカーは左表のとおり(時間雨量・連続雨量は別紙11のとおり)、大体二二時頃に金山工区(83.7Km)に到達することができたし、その復路金山工区と飛泉橋及び飛泉橋と七宗橋間で豪雨に遭遇したことは明白である。

通過時刻

通過地点

時間雨量

連続雨量

観測地点

22.00前1時間のデーター

21・10

中川辺駅前

45.6Km

2mm

4mm

川辺

44.7Km

20

七宗橋

54 Km

1mm

2mm

上麻生

55.1Km

23.00前1時間のデーター

40

飛泉橋

66.7Km

30mm

32mm

名倉

77 Km

22・00

金山工区

83.7Km

32mm

110mm

大船渡

84.5Km

2

飛泉橋

66.7Km

30mm

32mm

名倉

77 Km

40

七宗橋

54 Km

44mm

46mm

上麻生

55.1Km

50

中川辺駅前

45.6Km

36mm

40mm

川辺

44.7Km

道路管理に直接携わる職員としては、直ちにこの降雨が異常なもので厳重な警戒を必要とする事態の発生を意味するものであることを知ることができたのであるから、二二時二〇分頃白川口駅附近で電話により出張所又は事務所に状況を報告することが必要であつたし、またそれが可能であつた。

白川口駅附近で報告を考えなかつたとしても、七宗橋を通過する二二時四〇分頃には附近から電話等により、通つてきた地域の異常な降雨を出張所又は事務所へ連絡し、交通規制の指示を仰ぐべきであつた。

5 管理者側は、事故直後この時間帯の二〇時から二二時までの間国道四一号を美濃加茂市から下呂町までパトロールを行つたが道路に異常を認めなかつたという架空のパトロールを、その組織をあげてデッチあげ、国会で本件事故が論議されたときもまことしやかにこの時間帯にパトロールが行われたとして道路局長から報告が行われている。

この架空パトロールは、前に述べたような気象状況の下で三渕の崩落・雷雨注意報の連絡を受けながらもこれを聞き流し、何の手も打たずにいたことを隠蔽しようとしたものである。

これは取りも直さず、この時間帯におけるパトロールが管理の上で如何に重要な意味を持ち、且つ欠くべからざるものであつたかを物語るものであると同時に、これをしなかつたのは管理者として職責を尽していなかつたことを自ら認めたものであるといつて差支えない。

この架空パトロールのデッチあげの事実だけからでも、被告の国道四一号の管理に瑕疵がなかつたという主張が失当であることを知ることもできる。

(ロ)  警戒態勢(22・40)

1 遅くとも二二時四〇分には事務所は警戒態勢をとると共に管内全域につき交通規制の要否を検討し、少くも国道四一号については直ちに本件事故後実施したような交通規制措置、即ち金山町(82.7Km)から七宗橋(54.1Km)間の交通止の措置をしなければならなかつた。

2 その理由は次のとおりである。

(1) 二二時二〇分頃事務所には国道一五六号の白山地内に崩落発生との報告が入つている。直ちに他の出張所管内の降雨状況と崩落発生の可能性に思いを巡らせるべきである。

(2) 二二時四〇分頃までには二一時に美濃加茂市から国道四一号を北上したパトロールカーの職員から金山町から七宗橋にかけての異常な降雨の状況報告が入つて来ている。

(3) 木曾川上流工事々務所や沿線のダム等に電話することにより、二二時より前一時間の降雨と連続雨量が左のとおりであることを容易に知ることができた。

観測地点

時間雨量

連続雨量

七宗ダム

81Km

17mm

82mm

大船渡ダム

84.5Km

32mm

100mm

下原ダム

91Km

36mm

150mm

瀬戸第一ダム

112Km

38mm

145mm

通過時刻

通過地点

時間雨量

連続雨量

観測地点

23.00のデーターによる

22.4

中川辺駅前

45.6Km

36

40

川辺発電所

44.7Km

50

七宗橋

54 Km

44

46

上麻生発電所

55.1Km

23.1

飛泉橋

66.7Km

28

60

名倉ダム

77 Km

24.00のデーターによる

20

モーテル飛騨

76.5Km

28

60

名倉ダム

77 Km

25

坂東橋

78 Km

20

182

七宗ダム

81 Km

事故後の七宗橋金山町間の交通規制雨量が連続雨量六〇mm〜八〇mmであることに鑑みれば、即座に通行止をすべき異常事態の発生であることは一目瞭然である。

3 また、先の二一時の時点で事務所傘下の各出張所からパトロールカーを出さなかつたとしても、この二二時二〇分に国道一五六号白山地内に崩落発生の報告が入つたのちは、直ちに傘下の各出張所に状況を説明し管内各路線につき異常時パトロールを派遣する一方、先に述べたように雨量情報の蒐集に努力し管内の道路の状況を正確に把握するようにしなければならない。

仮りに二二時三〇分の時点で国道四一号上に美濃加茂市の出張所から北に向けてパトロールを出し、その速度を四五Km/hとすれば、本件バス集団の少し前を北上することになつた。その進行の状況は左表から明らかであるが、二二時五〇分七宗橋を越える辺りから豪雨の中に入り、その雨の中を二三時一〇分頃白川町の飛泉橋に達することになつたと思われる。

4 パトロールに出た職員としては、七宗橋を越えて異常な降雨を知つた時点で、直ちに電話等の方法により出張所又は事務所へ報告をしなければならないしそれが可能であつた(七宗橋までもどるか六一Km附近の川並小学校へ立寄れば電話があつた)。この報告は大体二三時にはできたはずである。いくら遅くなつても飛泉橋に達した二三時一〇分頃には出張所又は事務所に報告をいれ指示を仰がなければならない状況であつたことは明白である。

この際には、飛泉橋からは北上する前に飛泉橋で南進・北進禁止の措置をとることも可能であつたし、その必要もある状況であつた。

更に北上しても坂東橋(78.1Km)附近で二三時二五分頃崩落にあい進めなくなつたはずである。

坂東橋の崩落を知つた後は、直ちに飛泉橋に引返し二三時三〇分頃には出張所又は事務所に報告し飛泉橋で南進も北進もとめ安全な地域に自動車を誘導することもできた。

事務所としては、パトロールカーに飛泉橋での規制を指示し、パトロールカーの降雨状況の報告と蒐集した雨量の情報により金山町と七宗橋で交通止の手配をすることもできた。

5 二二時四〇分事務所から職員に指令を出してあるいは沿道各町村役場(具体的には七宗村役場・白川町役場・下呂町役場)警察(具体的には美濃加茂警察署・金山警察署・岐阜県警本部)に電話で依頼し、七宗橋での北進、飛泉橋と金山町(82.7Km)での南進と北進、更に下呂町での南進をとめる規制を実施していれば、本件バス集団は二二時四〇分頃美濃加茂市内を走つていたのであるから、規制実施に必要な時間を考慮しても七宗橋で北進をとめることも可能であつた。また七宗橋での規制が間に合わなかつたとしても飛泉橋では相当の余裕をもつて確実にバス集団の北上をとめることができたのである。

本件バス集団が七宗橋を北上したのは二三時頃、飛泉橋を北上通過したのは二三時一九分頃である。

6 二二時三〇分頃、国道一五六号白山地内の崩落を聞いて、鈴木管理課長をはじめとする職員が事務所に出てきて、職員の動員をし、国道一五六号の管理にあたる八幡出張所と連絡をとり出張所長以下の要員を派遣し、崩落土砂排除のための重機の手配をしている。

しかしながらこの状況を知つていたのは事務所と八幡出張所のみで他の出張所については何の連絡もされなかつた。

事務所は国道一五六号の崩落にだけに心を奪われ、他の出張所にその状況を知らせ、各出張所管内の異常をパトロール等により調査させ、あるいは雨量に関する情報を前述の関係官公署等から入手し、管内全域を眺めて手を打つて、交通の安全を確保して行こうという努力を全くしなかつた。

7 事故当夜の道路管理者の行動を一貫して流れる姿勢であるが、崩落発生の報告の入つたものについての土砂排除のみを考え、道路全体を見渡してその交通の安全を確保するという観念は全く欠如していた。道路管理の基本姿勢は物理的に通行が不能となるまでは通行させるべきだし、通行不能の箇所が生じたらその箇所のみに交通止めの措置をすることで足るというもので、国民の足である道路交通の安全を確保するという理念からは程遠いものであつた。

事故当夜も、事務所は道路管理の直接責任者であるのに崩落発生を警察や役場等から知らされてはじめて知り、それからその対策に狂奔している。本来管理者であれば最初に災害発生を知り警察等の他の団体に連絡するのが当然の姿である。事故当夜のこういつた管理者の行動は災害対策の不備を端的に現わしている。

8 国道一五六号以外にも崩落発生の可能性があると考えるのは道路管理者としては常識以前の思考であると思われるのに、傘下の出張所に事態の急を知らせることもなく、徒らに事務所と八幡出張所だけで国道一五六号上の崩落の手配のみにくれている状況では、未だ事務所が警戒態勢はおろか注意態勢に入つたということもできない。八幡出張所以外の傘下各出張所の宿直は布団に入つて眠つているのである。

この二二時三〇分頃の時点で一斉に各路線に異常時パトロールを傘下各出張所から出していれば、事故当夜の状況、殊に国道四一号の事情は大いに異つていたと思われるのに、二三時二〇分頃国道四一号下油井地内に崩落(78.0Km前記坂東橋の崩落と同じ)発生の連絡、二三時二五分に大雨警報全文の伝達といつた連絡が相次いで切迫した状況を伝えるまでの間の一時間、事故当夜道路管理の上で最も貴重だと思われる一時間を現実に発生した国道一五六号の土砂排除のみに追われて空費してしまつた。

この一時間の空費がなければ国道四一号の交通規制ができていたかも知れない。せめてラジオかテレビ等による気象情報の放送に注意を払つていればもつと早く大雨警報発表を知ることができた。NHK名古屋中央放送局では、ラジオでは二二時五八分からテレビは二三時一五分からのローカルニュースの時間にこの警報を報じていた。

一般人でも台風等の場合には、テレビ・ラジオをつけつ放しにして気象情報に注意するのが決して珍らしくない。道路管理に携わるものとしては、テレビ・ラジオの気象情報に注意を払うのは当然である。

(ハ)  非常態勢(23・30)

1 二三時三〇分には事務所は非常態勢に入り、国道四一号については要所で交通を遮断して通行規制をすると共に通行中の車両を安全な地域に誘導する手配を直ちにしなければならなかつた。

理由は以下のとおりである。

(1) 国道一五六号白山地内の崩落に加え、国道四一号下油井地内に崩落発生の報告が入つた。岐阜県各地に相当の降雨が続いており各所で崩落が発生し通行車両が危険な状況におかれるかも知れないことは直ちに予測ができた。正に非常事態の発生である。

(2) 二三時二五分に伝達された二二時三〇分発表の大雨警報は、その本文で「長良川流域の美並では二一時までの前一時間五六mm、二二時までの前一時間一四九mm、降りはじめてから二七四mm」」と異常な降雨の続いていることを報じ、今後の見込として「今後雨は明朝まで時々強く降り長良川流域、飛騨川流域、中濃地方では一〇〇〜一五〇mmに達する」と予想し「洪水、山くずれ、がけくずれの起るおそれがあります、中小河川では急に増水することがあります、警戒して下さい」と急を告げていた。大雨警報が出されたのは、実に約三年振りであり、その間国道四一号には警報も出ていないのに大規模な崩落がいくつも起きていることを思い合せれば、この警報発表という一事だけでも事態の急迫を知り得た。

(3) 前から述べている如く、木曾川上流工事々務所等の関係官公署に電話することにより飛騨川沿いの降雨を容易に掌することができた。このとき照会すれば知り得た各観測地点の二三時前一時間の降雨量と連続雨量は左表のとおりであり、その管轄区域内において事故後の規制雨量の連続八〇mmをはるかに上まわる場所が多数あることもすぐにわかつたはずである。

観測地点

時間雨量

連続雨量

川辺

44.7Km

36mm

40mm

上麻生

55.1Km

44mm

46mm

名倉

77 Km

30mm

32mm

七宗

81 Km

80mm

162mm

大船渡

84.5Km

47mm

157mm

下原

91 Km

42mm

192mm

瀬戸第一

112 Km

17mm

162mm

2 事務所は、ここまで事態が切迫していても坂東橋の崩落の土砂排除しか念頭になかつた。二三時三〇分になつてはじめて美濃加茂市の出張所から現場確認のためのパトロールを出しているが、斥候の目的でパトロールを出す時機としては既に遅きに失している。また金山工区からパトロールを下油井に向けて出すのならば、出張所から出かけた場合の五分の一以下の時間で状況報告を受取ることができたはずである。いずれにしろこのパトロールの目的は不明確で適切を欠いた処置であつたといわざるを得ない。

この時点で急がなければならないのは国道四一号の各所に崩落が発生していることを察知し、沿線の要所の警察・役場等に連絡をとり、交通規制を実施し、通行車両を安全な場所に誘導することであつた。度々触れるように、警報が出されていない状況下で国道四一号にはいくつも大規模な崩落が発生しているのであるから、大雨警報の発表された切迫した事態にあつては各所に崩落が発生し交通を各所で遮断する危険が発生しているかあるいは目前に迫つていると考えなければならなかつた。従つてこの時点での通行止実施をためらう理由は全くなかつた。

現に道路は寸断され通行車両は各所で立往生をはじめていたのである。

3 この大雨警報を受取つた時点での事務所が直ちに非常態勢に入り、国道四一号の交通規制に直ちに着手していれば、一八日〇時〇分までに七宗橋で北進をとめ、金山町(83.3Km)で南進をとめ、飛泉橋(66.7Km)で南進・北進を止めることができた。即ち、本件事故を未然に防止することができたのである。バス集団がこの飛泉橋を通つて南下したのは〇時一七分頃であつた。国道四一号に交通規制を実施する場合飛泉橋と七宗橋間の規制は絶対に欠くことはできない。最も危険な地域に入ろうとする車両をその両端で食い止める必要がある。

なお、事務所はこの頃から職員に動員をかけ、出張所でも川辺町の官舎から職員を呼出しているが、いかなる災害態勢に入つているのか明確ではない。運営計画で定められた整備班の活動というものはこの時点を過ぎてもほとんどなく、警戒態勢がとられていたとはとうてい言えない。

事務所も出張所長村田も崩落事故発生を聞いただけで、現場を確めもせずに電話で建設業者に土砂排除を依頼しているが、このことは事務所等道路管理者に対し崩落発生の連絡が入る場合には、すでに重機で土砂を排除しなければ通れない程度の通行不能の事態を常に意味し、車両の通行が可能である間は連絡が管理者には入つて来ないことを意味していると考えられる。そうだとすればこの二三時三〇分の時点では事務所はより強く国道四一号の交通規制実施の必要性を認識しなければならないし、非常態勢をより速やかにとらなければならなかつた。

(ニ)  パトロールカーからの連絡に基く交通規制実施と非常態勢(23・50)

1 美濃加茂市からパトロールに出た職員は七宗橋を越えた二三時五〇分頃には異常な降雨に突入したのであるから、下油井地内の崩落(78.0Km)と豪雨を結びつけて考え、直ちに七宗橋まで引返し、出張所又は事務所に連絡をとり、速やかに国道四一号の要所(前述の金山町・飛泉橋・七宗橋の三ケ所)で交通規制を実施しなければならなかつた。事務所や出張所へ連絡しては遅いと考えた場合には、パトロールに出た職員が自ら各要所の出張所職員・警察に電話して前述の交通規制を実施すべきであつた。もちろんこの連絡を受けた事務所は直ちに非常態勢に入らなければならなかつたことは前の場合と同様である。その理由は二三時二五分の態勢と交通規制について述べたのと同一である。

2 パトロールに出た職員が速やかにこの措置を実施し、あるいは事務所がパトロールカーからの報告でこの規制措置をとつた場合には辛うじて本件バス集団が飛泉橋を通過して南下するのを食い止めるチャンスが残されていた。バス集団は飛泉橋を〇時一七分頃通過して南下した。

パトロールに出た職員は、パトロールの途中パトロールカーに装備された無線で岐阜市の事務所と美濃加茂市の出張所と交信しようとしたが連絡できなかつた、また七宗橋以北の山間部に入ると平時でも事務所あるいは出張所と交信できない区間の方が長いことは予めわかつていた、と述べている。

無線は本件事故当夜のように差迫つた状況における迅速確実な連絡を確保するためのものである。然るに最も危険な地域で連絡を度々とることが必要な事態が起きると考えられる七宗橋以北において、交信不能の不感地帯が長区間に亘つていることを事務所は予め知つていたのであるから、その性能をより強力なものにして不感地帯をなくするようにするか、無線に代るべき緊急時の連絡方法(例えば民家からの電話連絡)を確立しておかなければならなかつた。

パトロールカーは64.17mm地点で崩落のため北上を阻まれたが、この際崩落をへだてて向う側に停車している自動車を認めていたと考えられる。仮に自動車を認めることができなくても自動車が附近にとまつているであろうことはここまでパトロールを続けてきた経験から充分予測できたところである。

ところがパトロールカーの職員はここにバリケードを置いただけで他には何もせずに引返したのである。

(五) 事故後の道路管理における改善点

(イ)  管理における基本姿勢の転換

国道四一号の管理は本件事故後にいくつも大幅な改善がなされた。

なかでも最も重要なのは道路管理の基本姿勢が遅まきながら転換されたことである。

何回もくり返すように、従来の道路管理は道路上に現実の交通障害が発生し、物理的に通行が不能となつたのち、その部分についてだけ通行止の措置をとり、それで職責を尽したかのように考えていた。

これが本件事故を契機として、気象情報を重視し、その掌握に積極的に努力すると共に崩落等の危険が予測されるような場合には崩落等現実の交通障害が発生していなくても交通安全確保の見地からその通行を規制するようになつたことである。

以下改善の為された主な点について詳述する。

(ロ)  予備規制の実施

建設省は事故のあつた昭和四三年九月一八日「道路の災害による事故防止強化対策に関する実施要領について」と題する通達を出した。更に翌四四年四月九日「異常気象時における道路通行規制について」と題する通達を出した。

降雨等の際危険が予想される道路については予め区間を指定してその周辺の状況、気象の状況(降雨量・積雪量・風速・震度等)に関する基準を設定し、それらが一定の基準値に達した場合には、現実の通行障害が発生していなくても道路の通行を規制するという制度がはじめてできたのである。国道を直接管理する職員はこの制度を予備規制と呼んでいる。

国道四一号では七宗橋(54.1Km)から金山町(83.3Km)間(白川口の町により更に二つに分けられる)及び金山町(87.7Km)から下呂町(105.6Km)間の二つの区間を右予備規制の指定区間とし、その区間内の雨量が連続雨量で

六〇mmに達したときに通行注意

八〇mmに達したときには通行止

という基準が定められた(昭和四七年夏頃この基準値は連続雨量八〇mm、一二〇mmに改められた)。この予備規制をより効果的に実施するためにいくつかの具体的な措置がとられている。

1 テレメーターの設置

前記二つの区間内の雨量が基準値に達したかどうかを知るため七宗町地内62.6Km附近・下呂町東上田地内一一二Km附近にテレメーターが新設された。

しかしながら、前述の木曾川洪水予報連絡会が飛騨川沿岸に有する一八ケ所に比べ、未だ著るしく少いということができる。

2 道路情報板の設置

道路の要所々々に通行車両に道路の状況を知らせるために道路情報板が設けられた(出張所前(39.7Km)・七宗橋(54.4Km)・鈴木石油店前(66.0Km)・モーテル飛騨(76.5Km)・金山町井尻三叉路(82.7Km)・下呂町地内(105.6Km)等である)。

これらの道路情報板には、障害発生の虞ある区間と理由等が表示されるが、その表示内容は出張所の職員、又は管理を委嘱された道路情報モニターの手により板面に表示されることになつている。

3 道路情報モニターの委嘱

沿道の要所に所在する民間人に対し道路管理上有益な情報の提供を予め依頼しておき、異常時における速やかで確実な情報の蒐集をはかる制度である。

国道四一号では七宗橋附近(54.4Km)の長谷川宅・鈴ケ谷ドライブイン(59.6Km)・鈴木石油店(66.0Km)・モーテル飛騨(76.5Km)等が道路情報モニターとして事務所から委嘱を受けている。

情報モニターの設置については昭和四一年一〇月四日付で「災害時における道路情報について」と題する中部地建局長通達において、道路情報モニター制を採用するようにとの指示が出されていたが、国道四一号では事故当時全く無視されており、事故後はじめてこれが採用されたのである。事故当時、このモニター制だけでも実施され、モーテル飛騨か鈴木石油店が道路情報モニターになつていれば事故はくい止めることができたと考えられる。

4 通行止め用ゲイト

七宗橋近くの54.75Kmの地点、金山町の町並をはさんで81.6Kmと87.7Km及び下呂町の町並の南はずれ105.6Kmにそれぞれ通行止めの規制をより徹底させるためにゲイトが設けられている。

通行注意の雨量を越えると、出張所職員がゲイト近くに待機しており規制雨量を越えたとの連絡を受けて、通行止めのバーを道路におろし車両の通行を完全に遮断するのである。

七宗橋附近54.75Kmのゲイト・金山町地内87.7Kmのゲイトは北進を、その余のゲイトは南進を止めるためのものであるが、白川口の町並をはさんで更に二ケ所のゲイトを設置しなければ規制の効果を徹底させるのは困難である。というのも飛泉橋と七宗橋の間に危険地帯が集中しているのであるから飛泉橋で南進をとめなければ規制の意味の半ば以上失われるのである。

(ハ)  気象情報の重視と伝達の迅速化

1 建設省と気象庁は本件事故後に協議し、災害の予想される時における気象情報の伝達をスムーズで且つ迅速に行えるような協力体制を作りあげた。

これは事故後における気象庁の「道路情報対策に対する協力について」と題する通達となつて端的に表明されている。事故当夜の事務所に対する気象情報の伝達は岐阜地方気象台の発表から五〇分余を要しているが、道路管理者としてはこのような伝達に要する時間を短縮するために何らかの措置をとつておくのが当然であつた。

2 事故後になつて岐阜地方気象台と気象情報の連絡を受ける側との間に同時通話装置が取り付けられ、同時に多数の通報先へ気象情報が伝達されるようになり、時間がかかりすぎる悩みは解消された。

また気象情報重視という観点から、事務所傘下の各出張所にも様式一号用紙が備えられ、気象情報の全文が末端の出張所まで確実に伝えられるようになつた。事故当時は各出張所に対する気象情報の伝達は概要のみあるいはタイトルのみの伝達に終ることも珍らしくはなかつた。

(ニ)  パトロールの強化

昭和四三年八月一九日建設省は前にも触れた「道路の災害による事故防止の強化について」と題する通達を出し、その中で災害が予想される時期におけるパトロールの強化と、危険箇所の総点検を指示した。

従来災害の予想されるときのパトロールは異常時パトロール一本で処理して来たが、事故後は前述の三態勢に応じ、注意パトロール・警戒パトロール・非常パトロールに細分され、状況に応じて密度が濃くなつた。

国道四一号でも事故時に比しパトロールのきめは細かくなり、危険箇所については重点的なチェックが行われるようになつた。

危険箇所総点検の結果、一部の沢には堰堤が設けられたが、その他の沢や急険な斜面について、土砂の堆積状況や安全性を定期的に見回るという管理態勢はとられていない。

(ホ)  防護施設の改良

1 土砂流を起した本件沢については頑丈な一二ケ所のスクリーン堰堤と六ケ所の石垣が設けられた。

この沢の附近の沢についても同じようにスクリーン堰堤と石垣が設けられた。これらの沢の防護施設の工事は建設省と岐阜県の手で行われた。

また崩落を起した64.17Kmについては崩落の危険をはらむ土砂を大量に取り除いて岩盤を露出させ、更にはいくつも防護柵が設けられた。

このほか危険箇所については、堰堤あるいは石垣の設置・崩落の危険のある土砂の取除き・ネット張り立て・コンクリート吹付等種々の工法を用いて防護施設の強化が実施されてきた。未だ防護設備が完全とはいえないことももちろんであるが、昭和四七年前項予備規制通行止の雨量を連続八〇mmから一二〇mmに引き上げることもできる程度には改良されてきている。

本件の沢に現在設置されているような堰堤が事故当時設置されていれば、土砂流を防止し、あるいはその勢いを弱めたり規模を小さくすることができ、バスの転落という最悪の事態だけは避けることができた。

2 国道四一号の管理を見るに、本件事故前は路面舗装に重点が置かれていたが、本件事故後になつて安全対策の面に力が入れられていることをその予算執行からも知ることができる。

事故前は崩落があつてもその箇所に対する工事は常に応急手当をするに止まり、真正面から崩落の危険に取り組もうとするものではなかつた。このことは同じ場所(例えば64.17Km地点)で何度も崩落が発生していることから明らかといえよう。

(ヘ)  関係諸機関との連絡強化

気象台のほか右沿道を管轄する各警察署・各市町村との連絡を強化し、異常事態発生の場合の情報交換、交通規制の場合の相互連絡を緊密にするようになつた。

現在では前述の予備規制の実施は警察と連絡をとりながら行うようになつている。殊に前述の白川口から南進する車両の規制については美濃加茂警察署・白川警察官派出所の警察官があたつている。

現在では予備規制における通行注意の雨量に達すると、出張所が関係市町村や警察に連絡するので有線放送等でこれが管内全域に速やかに伝達されるようになつた。このため沿道のガソリンスタンド・ドライブイン等で通行車両は道路状況に関する情報を容易に得られるようになつた。

道路状況に関する情報を一ケ所に集め、一般の問い合せに応じてこれを提供できるようにするための機関として道路情報センターが作られ活動を開始している。この道路情報センターは建設省・警察が中心になつて作られており各方面の情報を蒐集し一般への情報提供サービスを目的としている。

(ト)  改善の意味するもの

これらの改善はいずれも道路法四六条の改正を要することなく、その解釈の枠の中で具体化されてきている。

法律は当然に交通の安全確保という観点からの予備規制実施を予定していたのに、道路管理者がこれを怠つていたと考えなければならない。気象情報の掌握についても同様のことがいえる。

換言すれば、事故後国道四一号について具体化されたいくつかの改善は、当然最低限度のものとして事故当時に実施されていなければならないものばかりであつたのに、道路管理者がこれをなおざりにしていたのである。

従つてこれらの改善はそれ自体事故当時における国道四一号管理の瑕疵の存在を具体的、且つ端的に物語つているということができる。

(六) まとめ

現在の幹線道路は都市と都市を町と村を結び、常時その上を何百台もの自動車が人と荷物を乗せて、高速で流れていくベルトコンベアとも考えることができる。そのベルト上の一点に流れを妨げる障害が発生するときはその影響はすぐさま道路全体に波及する。崩落等交通障害の発生した場所を起点にして極めて短時間のうちに数十台、百数十台といつた自動車が珠数つなぎの団子となつて、流れが停頓することは管理者ならずとも直ちに理解できるところである。既に障害のため自動車の長い団子ができてしまつてから通行不能の状況を現認に出かけ、その部分だけに通行止をするというのでは最早や管理の意味を為さない。多くの自動車や貴重な人命は適切な誘導の行われるまでの間本件事故当夜のように危険な地域に立往生する公算が大きく、更に重要なのはこれらの自動車は道路上その地域が危険な場所とわかつても身動きできないことが多いのである。

災害態勢の面を見ても、国道四一号と併行する飛騨川の管理における木曾川洪水予報連絡会・国鉄高山線の災害時の運行規制基準に比べると、国道四一号の災害対策が極端な表現をすれば一時代前のものであつたことは明らかである。

また災害対策をたてる上で最も重要な判断資料と考えられる気象情報、殊に雨量の情報に対する著るしい軽視があつたことを見逃すわけにはいかない。本件事故当夜の管理者の行動を見るに管内の雨量というものにどの程度の認識を有していたか首をかしげざるを得ない。

事故当夜の管理者の行動を順次仔細に検討していくと、驚くべき無秩序混乱に終止したといつて差支えない。道路管理者は管内全域に目を向け全体を掌握し、異変の兆候に目を光らせながら状況に対処しようというような考えはその念頭に浮ばなかつたようである。崩落の報告を受け、個々の職責がてんでバラバラにその場面だけをながめて管内を走りまわつたに過ぎず、全体をながめて対策を考えるという判断中枢は存在せず、管理する組織としては全くその用を為さなかつたといつても過言ではない。事故後の国道四一号の管理につき為された改善とこの当夜の管理者の行動を対比して見ればその混乱は一層明白である。

このような管理状況下にあつた事故当夜の国道四一号特に本件事故を起した沢の附近一帯の道路は、とうてい「通常の安全性」を具有していたとはいえず、管理に瑕疵があつたことは明らかである。

D、被告の主張立証に対する反論

(一) 瑕疵の立証責任

瑕疵の立証責任は被害者にあるとされている。

しかし、公の営造物により事故が生じた場合、事故の発生自体により営造物の瑕疵の存在が推定され、この瑕疵の存在により設置または管理の瑕疵のあることが推定される。したがつて、設置管理者は瑕疵のないことについて、右の推定を覆すに足る反証をあげなければ、瑕疵による責任を免れない。

本件事故は、土砂崩落のために前進をはばまれたバスが、別の土砂崩落によつて飛騨川に転落したものであつて、国道上への土砂崩落による本件事故の発生自体により本件国道の設置管理に瑕疵があつたと推定される。

原告らは、右の推定に頼るのではなく、先に述べたような立証の困難な状況の中で多くの資料を集め法廷に提出し、さらに多くの証人と二度の検証によつて、被告の本件国道の管理がいかにずさんであつたか明らかにした。

これに対し、被告は、右の推定を覆すことはもとより、この推定を疑わしめるほどの反証さえ行つていない。

反証の評価について、裁判所がたやすく反証を採用するなら「一応の推定」は採用されないのと同じことになるのであつて、反証の評価は厳格にすることを要するのであるが、被告の反証活動からは、設置管理に瑕疵がなかつたと認めることは、いささかもできない。

(二) 不可抗力

被告は、本件事故の生じた沢は通常予想し得る降雨によつては崩落又は土石流の危険は全く予見されない状況にあり、今回の土石流は、気象台開始以来初めての経験則上夢想だにしなかつた異常な局地的集中豪雨による不可抗力であると主張する。

事故当夜の降雨が通常の雨の規模を越える豪雨であつたことは原告も積極的に主張するものであるが、被告の主張する如く岐阜気象台開始以来の経験則上夢想だにしない異常局地的集中豪雨であるというのはあまりにも誇張された表現である。

事故現場附近上麻生で記録された日降雨量三八二mm、時間雨量九〇mmの雨が並大抵の降雨でないことはそのとおりであるが、岐阜地方気象台開始以来未曾有の降雨であるとの被告の主張は事実に反する。乙七号証によると、過去の日降雨量の最高は八幡における六〇七mm、当夜の上麻生の記録は第四位に該り、時間雨量の最高は広瀬における九三mm、上麻生の記録は二位に該る。また建設省で把握している記録によると、時間雨量一〇〇mmを越える記録は以下のとおり昭和四一年一月以前に六回に亘る。

昭和二九年九月一日

桑名

一一八mm

昭和三三年八月一日

湯屋

一一二mm

昭和二九年九月一日

大之田

一〇八mm

昭和三五年八月一三日

黒津

一〇八mm

昭和二八年七月二八日

春日

一〇八mm

昭和二八年八月一二日

中切

一〇〇mm

降雨量について総合的に判断しうる端的な現象として河川の水位についてみても、飛騨川上麻生ダムにおける過去の水位の記録は第二回現場検証の際に明らかなとおり事故当日の記録より更に約一m上位の記録があり(昭和三三年七月二六日)、当夜とほぼ同様の記録が他に四件(昭和三六年六月二七日、昭和三五年八月一三日、昭和三四年九月二六日、昭和四六年九月六日)あつて、飛騨川の水位をみても過去に類例をみない異常な水位ではない。

被告は更に本件国道につき通常予想し得る降雨によつては崩落又は土石流の危険は全く予見されない状況であつたと主張し、通常予想し得る降雨とは時間雨量五〇mm程度をさすと言う。

しかし、国道四一号が時間雨量五〇mmまでは崩落・土石流の危険が全くないとの保証はどこにもないし、これに関する具体的な科学データーに基く立証はなされていない。個々の崩落箇所についての正確な雨量は知るよしもないが、下油井七八Km地点の崩落は一七日二三時前後と推定されるが、その附近の観測点である名倉・大船渡における雨量はその時刻までに時間雨量五〇mmを越えた記録はなく、時間雨量五〇mm以下で崩落したと言い得る。

また、通常予想し得る降雨の基準を時間雨量五〇mm程度とした被告の論拠は薄弱である。気象台の把握している記録によると、岐阜県下で昭和三八年より昭和四二年の五年間に三七観測点において合計二三回もの五〇mm以上の雨量を観測しており、同じく昭和三一年より昭和四二年までの間七〇ケ所の観測点のうち五〇mm以上の雨量があつたのは三八ケ所、うち八ケ所では五回以上五〇mm以上の雨量を記録している。また建設省の記録によると、三一ケ所の観測所において過去昭和四一年一月までの間時間雨量五〇mmに達する記録がない所はわずか三ケ所にすぎない。さらに事故の前年である昭和四二年一年間に岐阜県下だけで以下のとおり計六回の五〇mm以上の雨量が記録されている。

昭和四二年七月九日

加子母

八六mm

同      七月九日

久田見

五三mm

同      八月一日

高須

五七mm

同    八月二〇日

今須

五二mm

同    八月二〇日

久田見

五〇mm

同    八月二六日

丹生川

五四mm

以上にみる如く時間雨量五〇mm程度の雨は毎年何回か各地にみられる程度のもので、被告主張の如く本件事故現場附近が時間雨量五〇mmの降雨に対して安全であるとの立証が全くなされていないうえ、安全度の基準を時間雨量五〇mmに設定していること自体極めて問題である。ことに五〇mm以上の降雨に対しても交通規制その他何らの対策がこうじられていない当時の国道管理状況は著しく不完全なものであつたと言わなければならない。

不可抗力を論ずる場合に、自然的な異常現象と、この異常現象によつて発生する被害とは別途に検討すべきものである。自然の異常現象自体を防止することは、多くの場合不可能であろうが、これによつて生ずる被害を未然に防止しあるいは軽減することは可他な場合が多い。本件の場合、異常降雨そのものを防止することは現在の科学的水準では不可能であるが、これに基因する沢の土石流を防止し、被害の発生を予防することは別問題である。異常降雨―沢の土石流―バスの転落と続く一連の事実について、それぞれの予測可能性、回避不可能を個々に検討すべきもので、これら全体をあたかも一つの不可抗力現象であるかの如く把握している被告の主張は粗雑なものと言わなければならない。事故当夜の異常降雨の発生は過去の記録からみれば類例をみない未曾有のものではなく、当然予想できたものであり、更に、現実に一七日二〇時には雷雨注意報が、山くずれ・がけくずれの発生の危険を予告しており、同日二二時三〇分には飛騨川流域に対し一〇〇mmから一五〇mmに達する降雨並びに洪水・山くずれ・がけくずれ等に対する警戒を報ずる大雨警報が出されたものであつて、国道管理者としては異常降雨を予測したうえで国道の管理に当るのが当然であつたと言える。

また本件沢の土石流についても、沢の規模・勾配、当時沢に堆積していた崖錐等を考慮に入れてある程度の異常降雨を予測した場合、土石流発生の危険は容易に発見できたものである。被告側の野上・大同・武居の各証人はいずれも土石流の発生を予知することは現在の科学的水準では困難であると言つているが、こゝで言つている予知とは、土石流の発生日時、場所、規模等を特定して事前にその発生を確定させることを意味するものであつて、当該場所につき土石流の発生の危険性あることを指摘することが不可能でないことは各証人も認めている。一般に不法行為あるいは不可抗力の主張において、予測できたか否かが問題とされる場合、右の如き正確な意味での「予知」を言うのではなく、単にその虞があるということで予測が充分であることはこゝで論ずるまでもない。土石流の危険性を事前に認識したうえで、崖錐の除去、堰堤の設置その他の方法により土石流の発生を未然に防止する対策は今日の土木工学、道路工学の立場から決して不可能なことではないし、あるいはまた財政面からみても決して不可能ではなかつた筈である。従つて、本件事故当夜の豪雨そのものは不可抗力であつたとしても、これによつて発生した沢の土石流は決して道路管理者にとつて回避不能の不可抗力現象ではなかつたと言いうる。さらに百歩譲つて本件沢の砂防工事等が予算上の制約を受けて、土石流の流出現象自体を防止することは著しく困難であつたとしても、このような土石流によつて通行車両に対する直接的被害が生ずる事態を防止することは、その管理の中で交通規制等の方法により容易になし得るものであつた。

さらに付言するに、被告は本件沢の土石流についてのみ不可抗力を主張しているが、本件バス集団が事故現場に停車せざるを得なかつたのは直接的には64.17Km地点のがけくずれが原因であつて、右地点の崩落現象についてまで不可抗力の主張・立証をし得ない以上、本件事故の原因を不可抗力として損害賠償を免責させることはできない。

被告の不可抗力の主張は排斥さるべきものである。

(三) 財政上の制約

被告は「道路の通常具有すべき安全性は……当該道路の効用・性能・規格及び利用状況等並びに国家社会ないし地域社会の経済能力ないし財政的事情を総合的に勘案して判断しなければならない。国道四一号沿いの山間部七宗橋から県境に至る間……延べ一〇一Kmに亘つて完全な防護工事を実施した場合……合計四四八億四二四〇万円という莫大な費用を要する。本件のごとき土石流事故の絶対完全な防止措置を講ずることは期待可能性の範囲を超えるものである」と主張する。

右の被告の主張内容はあまりにも漠然としたもので、延べ一〇一キロメートルに亘る完全な防護工事が個々の危険箇所について一体どの程度の工事を実施するものであるか、特に本件沢附近については、単にトンネルにするとのみで、どの程度の費用を要するのか、具体的に主張立証せず、また原告側の釈明要求にも応じない以上全く不明であつてかゝる主張に対し具体的に反論すること自体不可能であり、またその必要も全く認められない。

さらに、右のごとき経済的あるいは財政上の期待可能性といつたいわば刑法上の概念を民事上の損害賠償責任論にもちこむこと自体不当なものであるとともに、予算上の制約が何ら不可抗力ないし回避可能性のないことを構成するものでないことは、すでに最高裁判所でも認められたもので講学上も判例上も確立している。

更に第一回(昭和四五年六月二日)第二回(昭和四七年九月二八日〜二九日)の現場検証によつて明らかなとおり、本件事故後、本件沢には一二ケ所のスクリーン堰堤、六ケ所の石垣が設置され、沢の土石流を防止する処置がとられている。また七宗橋から下呂までの間、本件沢以外にも大小多くの沢が存在するが、大部分のものに事故後何ケ所かの堰堤その他防護措置がこうじられている。さらには沢以外の部分についても石積み、スロープネットその他斜面防護工事が事故当時に比べて格段の規模で拡充されている。現状のような防護施設は完全とはいいえないが、ともかく、国または県の予算措置がとられて右の如き工事がなされたものであつて、予算的な面で事故当時の防護施設以上の工事が財政上、経済上不可能であつたわけではない。

本件沢に限つてみても、事故後設置されたスクリーン堰堤その他が事故前に設置されておれば、本件事故が防げたであろうことは明白であつて、この点からだけみても予算的制約があつたからと言つて被告国の損害賠償責任は免れないものである。

(四) 運行上の過失について

被告は本件事故は運行管理者、運転者らの過失がその原因であるとして、飛騨モーテルで引き返した点、白川口駅前を通過した点、65.25Km地点の小規模の土砂崩落を排除して南下を続けた点、本件事故現場附近に長時間停車した点について運行上の注意義務に欠けたと主張する。

被告の主張する運行管理者・運転者らの過失の第一の点は、本件バス集団が飛騨モーテルにおいて直ちに引きかえしを決定したことである。その論拠は、本件バス集団は七宗橋以北で豪雨にあつていること、白川より飛騨モーテルの間69.6Km地点で流出土砂に出合い右側車線を通つて北上してきたこと、飛騨モーテルに到着して以北下油井(78.0Km地点)での土砂崩落を現認していること等を考え合せれば、降り続く豪雨のため南下する帰路について危険を想到すべきであつたと言うのである。しかし右論拠の一つである69.6Km地点での流出土砂については、往路のバス集団が出会つていないことは明白であり、本件バス集団より後に白川より北上した白川派出所の高橋警察官の証言でも69.6Km附近山側車線通行不能の土砂流出は認められていない。帰路についても七号車までのバスは白川までの間土砂流出に会つていない。Uターンの関係で多少おくれてモーテル飛騨を出発した八号車以下のバス(一四号車を除く)が始めて69.6Km附近で山側の土砂流出を認めているにすぎない。往路異常な降雨に遭遇したとはいえ、引き返す直前まで安全に通行してきた道路であり、モーテル飛騨附近では降雨状況も普通の状態に戻つていたもので、往路での豪雨は一時的通り雨と判断し、まして帰路について土砂崩れ等の事態を予想しなかつたのは当然であり、折からモーテル飛騨にいた大部分のバス、乗用車等は続々と折りかえしていたのであつて帰路について一抹の不安もいだかなかつたことは何ら責めらるべきものがない。

また、雨の中の運行と言えども当時の視界が二〇メートル以下であつたわけではなく、運行自体に降雨による不安を感じた運転手はなく、自動車安全運転服務規律二〇条の規程に反していたわけではない。

次に、被告は白川口駅前で停車すべきであつたのに南下を急いだ本件バス集団に以南の道路における崩落の危険に対する冷静な思慮を欠いた過失があり、八号車以下は白川より南の道路に危険を感じ、慎重に白川口駅前に待機して事故をまぬかれたと主張する。ところが、八号車以下のバスが、白川口駅前で停車したのは前途に不安を感じたためでないことは各証言から明瞭であり、運転者側には危険を予測する事情もなかつた。七号車が白川口駅前を通過した後、初めて同駅前に到着した一四号車の運転手河合文夫は、たまたま同所に同じ会社である名古屋観光のバスが停車していたので、故障でもあるかと心配して停車したのであり、そこに停車していたバスも本件バス集団と同様乗鞍に行くためモーテル飛騨まで行きそこで引き返して白川口駅で会社に旅行を中止して帰ることを公衆電話で連絡するため停車中のものであつた。八号車の早川運転手も会社に運行の変更を電話連絡するため適当な場所を捜していたところ白川口駅で電話連絡が可能であると思い一時停車したのであつて、先方の道路について、あるいは雨中の運行について危険を感じたためではない。そして、いずれも同所に停車した後に以南の道路について通行が不能らしいとの情報を得たので、後続車両を停車させて、そこで翌日まで待機したに過ぎない。

本件バス集団(一号車より七号車まで六台)は飛泉橋を何らの警告も受けずに通過し、南方1.5Km附近、65.25Kmの地点において小規模の土砂くずれに出会つた。被告はこの地点で直ちに以北の平坦部に後退を決意すべきであつたと主張する。しかし、この時点での65.25Km地点での土砂くずれはいまだ山側の左車線のみに二〇〜七〇センチメートルほどの土砂があるのみで、右側車線は人の頭程度の大きさの石が一〇個程度あつただけでアスファルトは見えていた。土砂くずれが進行中であつたわけでないので、二〜三分で右車線の石を排除し、センターライン附近を平らにならすことで、充分安全に通行し得た状態であつた。この地点の土砂崩れは本件バス集団が通過した〇時二〇分頃より更に三〇分ないし一時間後にも車両の通行は可能であつた。特に65.25Km地点を超えて南下するに危険がないと判断したのは、バス・乗用車等多くの対向車が直前に以南の道路を北上してきており、これら対向車の運転手も、本件バス集団の運転手から下油井の土砂崩落を聞いてこの地点からUターンして南下することに決定している。本件バス集団の運転手らは対向車のこの決定を聞いて石を排除する作業にかかつたのであり、これらの事情から以後の南下が可能であると判断したのは当然である。北上車両は何ら爾後の道路の安全を保証するものではないとする被告の主張は、何を論拠にするものか理解に苦しむ。被告の言う如く豪雨中では次の瞬間に如何なる事態が以南の山間部路上に生ずるやも保し難い状態だつたのであれば、豪雨中国道を通行する車は剣の刃を渡るが如き危険にさらされていたものであり、このような道路に対し何らの防護施設もなさず、かつ漫然と車両の通行を放置していた道路管理者の措置に憤激の念を禁じ得ない。

最後に64.17Km地点で土砂崩落に遭遇し、南進を阻止されたバス集団が落石のみを予想して64.3Km地点の川側車線に長時間停車を続けたことは注意配慮を欠くもので、危険地帯から直ちに脱出すべきであつた、と被告は主張している。

本件バス集団が64.3Km地点に停車したのは〇時四〇分頃であつたが、その時点ですでに64.17Km地点から上麻生堰堤まで約五〇〇メートルの間の少くとも二〜三〇台以上のバス・トラック・乗用車がひしめき合つていたのである。道路の幅員(8.47メートル)からみて、現場近くでのバス・トラック等の大型車両のUターンは絶対不可能であり、かつ、前記の65.25Km地点から続々と車両が引き返してくる状況の中で、深夜、雨中での長期間のバック運転などもさらに危険な行為であつた。さらに、本件バス集団が64.3Kmに停車した一〇分程後には二〜三〇〇メートル北方でバスとトラックの接触事故により三〇分から一時間の間通行不能状態が出現していた。後刻、白川町消防団が現場で引き返しを指導した事実があつたとしても、この指示は徹底せず、またバックのための車両整理がなされぬ以上、前述のとおり引き返しは事実上不能であつた。

本件バス集団は現場においては消防団員の意見を聞いて金網のあるようなところは避けてなるべく安全な所に停車させていたのであり、深夜のことで本件沢自体の認識は不可能であり、かつ沢自体の危険性は何ら警告されていないし予測さえされていない。消防団自身も現場附近について、特別な危険を感じていなかつた模様である。従つて本件の土石流が出現するまで64.3Km地点に停車していたバス集団の行為は、当時の状況からみて不当なものではなく、かつ、不可避なものであつたのである。

以上いずれの時点においても、本件バス集団の運行管理者、運転者に過失があるとは到底言いえない。

五損害

本件事故により、原告らは別紙3乃至5の損害明細表記載のとおりの損害を蒙つた。

六結論

よつて、原告らは被告に対し、損害賠償として右損害のうち別紙2の請求金額目録記載の各金員およびこれに対する本件事故発生の日である昭和四三年八月一八日より各支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるため本訴請求に及んだ。

(被告の認否と主張)

一、請求原因一、の事実は認める。

二、請求原因二、の(一)乃至(二)のバス集団の経過については、後記四の(四)(六)に記載の限度でこれを認める、その余の事実は不知、同(一二)の事実は認める。

三、請求原因三、の事実は不知。

四、請求原因四、の事実について

本件国道四一号線の設置及び管理に瑕疵があつたとの主張事実は否認する。瑕疵は何ら存しなかつた。

而して、本件事故は不可抗力によつて発生したものであるから、瑕疵の有無を論ずるまでもなく、被告に損害賠償の義務はない。

以下にその理由を述べる。

(一) 国道四一号本件事故現場付近部分の沿革

国道四一号の本件事故現場付近部分は、明治二五年以来郡道「白川街道」であつたものを、大正九年四月一日岐阜県道金山太田線並びに岐阜県道付知太田線の一部重復区間として岐阜県知事の路線認定をうけ、ついで昭和二八年五月一八日道路法旧六条(現在削除)、昭和二八年政令九六号により、二級国道一五五号に、ついで昭和三三年九月三〇日道路法五条昭和二七年政令四七七号により一級国道四一号に指定されたのであり、その位置は古来当該地域の自然的制約の下において最も安全合理的なものとして維持せられ、何ら変更されていない。

その後該国道については、昭和三八年五月から翌三九年二月まで拡幅工事を実施し、従来の全幅員四メートル(有効幅員三メートル)を全幅員8.5メートル(有効幅員7.5メートル)とし、さらに一部について昭和三九年一二月法面保護工事を、また昭称四〇年六月から一一月の間舗装工事をいずれも建設大臣の直轄工事(岐阜国道工事事務所担当)として施行し、道路構造令に要求される設備を完成した。

右の拡幅改良計画に際しては、あらかじめ航空写真を撮影し、山腹、斜面、沢、河川等の地形状況を立体鏡等を用い、当時最新鋭の手法で念査したうえ、地質学者である牛丸周太郎(当時岐阜大学学芸学部教授)及び土木工学者である加藤晃(当時岐阜大学工学部助教授)の現地踏査による助言を受け、その他従前の道路管理者たる岐阜県関係者、地元町村関係者、地域住民の古老等から過去の出水状況や土砂崩壊等の状態を聴き取る等、入念に路線調査を行つた結果、最も安全かつ合理的な位置であることを確認している。そして、拡幅改良の設計施行に際しては、コンクリート擁壁や石積擁壁でその大部分を河側に拡幅し、山側の斜面に対する切取りは極力少なくして、古来から安定を保つて来た自然斜面との調和に十分配慮して行なわれたものである。

昭和四〇年五月二七日以降本件事故現場付近の部分は、道路法一三条の規定による「指定区間」に指定され、事故当時には国道四一号全域が右区間に指定され、建設大臣がその維持修繕その他の管理を行つている担当官署は中部地方建設局岐阜国道工事事務所及びその下部機関である美濃加茂国道維持出張所である(以下それぞれ「事務所」及び「出張所」と略称する)。

事務所は、事務所長以下一一三名の職員をもつて一般国道二一号、二二号、四一号(但し、各務原市鵜沼から岐阜県道益田郡下呂町東上田まで76.1キロメートルの区間)一五六号および二五八号の改築工事および維持修繕その他の管理を行つている。

出張所は、出張所長以下二〇名の職員をもつて一般国道二一号(但し岐阜県可児郡可児町中恵土から各務原市郡加新加納までの27.4キロメートル)および一般国道四一号(但し、右事務所の担当区問と同じ)について維持修繕その他の管理を行つている。

(二) 事故当時の気象及び一般災害状況

昭和四三年八月一七日九時三〇分岐阜地方気象台から岐阜県全般に対し大雨洪水注意報が発せられ、同日一一時一〇分には美濃地方に対し大雨洪水雷雨注意報が発せられていたが、さしたる降雨量もないまま同日一七時一五分右注意報は解除された。しかるに同日二〇時再び県下に対し雷雨注意報が、また二二時三〇分には大雨警報、洪水注意報が発せられた。

一七日夜から一八日にかけて岐阜県中濃地方は短時間に未曾有の局地的集中豪雨に見舞われた。通常いわゆる豪雨といわれるものは一時間雨量三〇mm程度であるが、このときには一時間九〇mmの降雨が二時間連続し、局地的には一時間一〇〇mmを越えた箇所もあつた程である。その異常さは別紙12に明らかなとおり、例えば名倉・上麻生・川辺のように相互に僅か八ないし一〇キロメートルの距離を隔てる地点で、同一時間帯の雨量に二倍ないし四倍の大差を生じ、かつ、雨域は不規則に変化移動したのであつて、偶々測量した右地点における部分的数値からは、本件山間部における降雨の全貌は知るよしもない。

右集中豪雨に見舞われた岐阜県下においては、学校・役場・地方道・河川の護岸等の公共施設をはじめ住家・田畑・山林等に合計約五六〇億円にのぼる甚大な被害を蒙り、最も被害の大きい美濃加茂市・白川町・川辺町・上之保村及び富加村の五市町村に対しては災害救助法が適用されている。また本件山間部の山復の崩落も相つぎ、国鉄高山線は寸断せられ、国道四一号は川辺町・七宗村・八百津村・白川町の延長二八キロメートルの区間において大小十数箇所に及ぶ冠水・土砂崩壊が生じ、交通は麻痺状態に陥り、通信も遮断せられるに至つた。右区間の国道上土砂堆積の状態は別紙7のとおりである。

(三) 事故当時の国道四一号管理状況

国道四一号の管理は、先に述べたとおり、事務所である各務原市鵜沼から益田郡下呂町までの間を所管し、出張所において右区間のパトロールを常時一日一回以上実施しており、また落石等のおそれある箇所には、当時「落石注意」の表示板(縦約六〇センチメートル、横約三〇セントメートルの白地プレートに黒字で記載)を車線山側の路端部分に建てておいた。本件区間におけるその位置は別紙6のとおりである。

(パトロールには、平常時パトロールと異常時パトロールがあつた。平常時パトロールは、路面、路側部、構造物および附属物等の点検を目的として担当区間を一日一回(日曜、祭日を除く)巡回する一般パトロールと、夜間の道路照明等の施設点検を重点として週一回巡回する夜間パトロールがあり、いずれも道路パトロール車をもつて行うこととしており、巡回の際、道路の破損、欠陥等を発見した場合は、必要な連絡にあたるとともに、これらの道路の構造、施設の異常に対し軽易な応急措置をするため、人員、資材等を積載している。異常時パトロールは、道路の特別の異常事態の発生又はそのおそれの濃厚な場合に、特別に巡回するものであつて、道路の被害状況、交通状況等について連絡するとともに、道路標識、保安柵等を携行し、緊急の場合にそれらを設置することとしている。

落石注意の標示板は、道路法四五条二項の規定に基く「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」(昭和三五年一二月一七日総理府建設省令三号)により設置されるものであり、その基準としては、当該道路の地形、地質および落石の発生状況等により落石のおそれがあると道路管理者が認めた地点に設置することとしているのである。)

ところで、出張所では八月一七日(土曜)午前中の前記注意報により午後もパトロール及び連絡等に必要な職員を待機させていたが、一七時一五分注意報解除とともに警戒体制を解いた。

そして事務所では同日二〇時岐阜地方気象台発表の雷雨注意報を二〇時四〇分頃通報され、続いて二三時二五分には二二時三〇分発表の大雨警報・洪水注意報を通報された。そこで直ちに関係職員を動員し、動員に応じて管理課長以下八名が逐次集合し、また同時刻頃出張所は加茂警察署から白川町下油井地内の国道四一号で土砂崩れが発生した旨連絡をうけ、直ちにその旨金山町所在の出張所現場監督員詰所(通称「金山工区」。工区は、二名の職員をもつて一般国道四一号のうち、岐阜県加茂郡白川町坂東(七八Km地点)から同県益田郡下呂町東上田までの三六キロメートルの区間について、美濃加茂国道維持出張所長の指揮を受けて維持修繕その他の管理を行つている。)に連絡すると共に、パトロール員を出して崩落地点の位置・崩落の規模の確認に当つた。右崩落は後述の本件バス集団をしてモーテル飛騨から折り返させる原因をなす78Km及び78.45Km地点のものである。

しかし、パトロール員が北上するに従い、雨は雷を伴つて激しさを増し、白川町大洞橋付近64.17Km地点で土砂崩れ(崩落土砂は、国道路面上山寄りで五〜六メートルの高さに堆積し、ガードレールを越して飛騨川の中に土砂が落ち続けており、歩いて進むことも不可能な状況にあつた。)のため北進を妨げられ、同地点に一八日〇時三〇分バリケード及び赤色警戒灯を設置して交通を遮断し、引返して同日一時四〇分頃右出張所に到着、出張所長は直ちに同所前の国道四一号上に通行止め標識を設けて交通規制を行つた。一方金山工区では出張所からの右連絡により一七二三時四〇分頃崩落を確認したうえ、南進車両に対する通行止め標識を同工区前の国道四一号上83.5Km地点に設置して交通規制を行つた。

また、右とは別に、事務所からの応援をえて出張所職員は、一八日二時一〇分頃パトロール車二台・作業車一台で現地調査に向つたが、飛水橋付近59.6Km地点で大規模な土砂崩落に逢着し引返した。64.17Km地点にはかつて同年三月一二日に土砂崩落が起きており、それ以前のフエンス・PNC工法にかえ土砂崩落の再発を防ぐため不安定な崩落箇所を切取り、浮石を除去し、法面土砂を取除いたうえスロープネットを一面に張り立てる工事方法が入念に行われ完了していたものであり、右工事は道路周辺の状況を考慮のうえ、予見可能な雨量によつて起りうる落石、崩落等に対する十分な安全性を備えたものとして施行完了したものである。

なお、土砂崩落の規模を知つた道路管理当局は、一八日早朝から急ぎ復旧につとめ、一九日一五時漸く崩落土砂の排除作業を了し交通規制を解除した。

(四) 被害バスの遭難経過

被害バスを含むバス集団一五台が犬山市に集合し、国道四一号を北上してモーテル飛騨に到着後、土砂崩落に北上を妨げられ南下した時刻は、バスの台数が多く先頭車と最後尾車との間に若干の時間差はあるが、概ね原告ら主張のとおりと思われる。

犬山市を出発した本件バス集団は、白川口とモーテル飛騨の中間点辺り69.6Km地点で国道左側から土砂が流出して左車線をふさがれたため右車線を通つて進んだ。第一回の予定休憩場所モーテル飛騨に二三時半頃から逐次到着、集結し、ここでさきに述べた下油井地内78Km地点及び78.45Km地点の土砂崩落により北上不能を知り、約三〇分位待機したが、集団旅行の主催者たる株式会社団地新聞奥様ジャーナル社社長高笠原武及び名鉄観光サービス株式会社中部営業局次長鈴木一郎の二名の協議により方向転換し、強い雨の中を南下することになつた。南下開始時刻は一八日〇時頃、最後尾車もおそくても〇時二〇分頃までには南下を開始したと思われる。ここから国鉄白川口駅までは約一〇分の距離であり、先行の六車は激しい雨の中を同駅前を通過し、さらに南下したが、その余の後続車が同駅前にさしかゝつた頃には、国道から駅前空地にかけて自家用車や他の観光バスが数台停車していて国道の交通が渋滞しており、ここで後続の七台目以下の運転手は他の観光バスからこの先に崖崩れがあり南下不能の旨報らされ、さらに折からの激しい降雨で南下に危険を感じたので、駅前に待機するに至つた。先行した六台のバスは、時間雨量九〇mmというしのつく雨をついて南下したが、途中65.25Km地点で〇時二〇分頃崩落土砂に出合つて停車し、スコップでこれを排除のうえ道路の右車線を辛うじて通過、さらに約一キロメートル南下を続け事故現場南方の64.17Km地点で崩落土砂に妨げられ、〇時四〇分頃事故現場64.3Km地点に後退停車したものである。

原告ら主張の断層地帯の位置は明らかでないが、少くとも本件事故と関係のある土砂崩落は断層地帯に生じたものではなく、また事故現場周辺の山腹の地質は石英斑岩という通常の硬度の岩石と土砂から成り、我が国山岳地帯全般からみてその安定度はむしろ通常的なものである。本件事故現場の沢に生じた土石流は、気象台開始以来初めての集中豪雨が右沢上流の山腹の浅井表土、小灌木の雨水把持力を圧倒し、年月日を経て徐々に風化していた石英斑岩を巻き込み、本件事故現場国道から斜距離約一キロメートル、標高約六〇〇メートルの沢頭付近から巾数十メートルに亘つて表層崩落を起し、突如として沢の急斜面を流下し、国道に出会う手前百数十メートルの間、沢の両側が相迫つて狭いV字型をなしているところを、毎秒数トンの速度で通過、国道を越え、停車中の本件バス二台もろ共飛騨川に注いだものである。本件沢に生じた右土石流によつて押し流された土石量は約五、〇〇〇乃至一〇、〇〇〇m3と推定される。

ところで、本件国道の山間部は全体が急峻な山腹に取り囲まれているのではなく、国道に山腹の迫つた部分もあれば、山間部が開けて平野状をなすところもあり、周辺の尾根ないし山頂も高低まちまちであるし、山腹ないし尾根の末端が崖状をなして国道沿いに迫つているところもあれば沢の未端が樹木に囲まれながら飛騨川に合する直前に国道と出合うところもある。従来の落石、土砂崩落は専ら右の崖地に生じていたが、本件事故はこの沢の部分に生じた点で異る。そして従来本件事故現場周辺一帯の山腹に今回の如き長大な土石流の跡が見当らないことからも、今回の局地的集中豪雨の如何に異常なものであつたかを窺わせるに足るものである。

(五) 国道の設置及び管理に瑕疵がないことについて

(イ) 本件事故の生じた沢は、国道との出会部分が狭いV字型をなし、両側の山腹の樹木が茂つて深くこれを蔽い、かつてこの場所に崩落の生じ、或いは崩落土砂が通過した痕跡は全くなく、またこの沢の上流の山腹が従来より安定していたことは既に述べたとおりであり、通常予想し得る降雨(通常豪雨といわれるものは、一時間雨量三〇mm程度であり、通常予想し得る降雨とは、右三〇mmを相当程度上まわる雨量即ち一時間五〇mm程度をいう。)によつては崩落又は土石流の危険は全く予見されない状況にあつたのであつて、崩落又は土石流の防禦施設を設けていなくても、本件道路部分は、通常具有すべき安全性を備えていたものといえる。

土石流については、最近になつてようやくその発生機構の研究が始められたところであり、いまだ解明されていない部分があまりに多く、殊にその発生を予知することは、現在の段階では困難であるとされている。まして本件沢については、原告指摘の断層や崖錐状堆積物の分布状況等は、何ら特異な地質条件を示すものではなく、そのほかに本件沢に於いて特異な地質条件の要因を見い出すことはできないのであるから、事前に土石流発生を想定することすら困難であつた。仮に本件土石流を事前に想定することができたとしても、その規模は推定流出土砂量五、〇〇〇乃至一〇、〇〇〇m3に達するものであつて、このような大規模の土石流による災害を未然に防止する工法は、現在の土木技術の水準では見当らないのである。

今回事故の原因をなす土石流は、道路区間から遠く離れた沢頭近くから山復をえぐる大規模のものであつて、経験則上夢想だにしなかつた異常な局地的集中豪雨による不可抗力のものというべきであり、また本件バス六台が南下を阻止された64.17Kmの崩落地点は、既に述べたとおり過去における崩落(従来本件国道において発生した土砂崩落事例は別紙10のとおりである。)にかんがみ、予見しうる危険に備えて既に修築工事を完了していたのであつて、修築工事に何らの瑕疵はない(本件事故以前に設置された防禦施設は、別紙9のとおりである。)。

(ロ) そもそも公の営造物の設置及び管理に瑕疵があり、国家賠償法二条一項の規定による責任の生ずるのは、通常予見すべき危険に対して通常具有すべき安全性を欠く場合であつて、通常予見されない危険に対する安全性が欠如していたとしても、あるいはまた設置・管理上期待し得ない安全性を欠如していたとしても、それをもつて設置・管理の瑕疵があるものとすべきではない。

そして、道路の通常具有すべき安全性は、それぞれ具体的道路についてまず通常予見すべき危険を前提として判断することとなるのであるが、その場合、個々の道路について右の危険を前提としていかなる程度、態様の安全性を確保すべきかは、当該道路の効用・性能・規格及び利用状況等並びに国家社会ないし地域社会の経済能力ないし財政事情を総合的に勘案して判断しなければならないものである。

本件土石流を生じた沢を含め国道四一号沿いの山間部七宗橋から県境に至る間一六二キロメートルのうち白川町・金山町・下呂町・高山市等の平地部を除き、延べ一〇一キロメートルに亘つて完全な防護工事を実施した場合

トンネル

二〇、三〇〇メートル

二四六億七、〇七五万円

十二橋

一四億三、三二五万円

取付道路

一、〇〇〇メートル

三億九、〇〇〇万円

ストーンガード

八、三〇〇メートル

四億一、五〇〇万円

ロックシェード

二九、三〇〇メートル

一七五億八、〇〇〇万円

スクリーンえん堤

一、二三四メートル

二億四、六八〇万円

溝橋

二〇箇所

八、〇〇〇万円

モルタル吹付

七四〇平方メートル

一六〇万円

コンクリート擁壁

三〇〇平方メートル

二、〇〇〇万円

山留擁壁

一、〇〇〇平方メートル

五〇〇万円

合計

四四八億四、二四〇万円

という莫大な費用を要するのであり、本件国道本体の建設費用が七宗橋―県境間で一〇一億円を要したことに比し、余りにも高額のものといわねばならない。もとより、国及び公共団体(道路法五〇条)が本件沢だけに全力を注ぐことが許されるならば、本件土石流防止も物理的には不可能ではなかつたかもしれない。しかし国の管理する道路は、本件国道四一号のみではないし、いわんや本件沢だけではない。しかも山地が大部分を占める我国においては、土砂崩落の危険の差こそあれ、そのような危険箇所は随所に存在するのである。そして特定の箇所について崩落ないしそれによる事故発生の可能性たるや甚だ偶然であつて、その率は極めて徴少である。道路改良上限られた費用で最大の効果をあげるには、より重要度の高い路線・区間から改良することとせざるを得ない。そうでなければ土砂崩落より遙かに事故率の高い諸原因が除去できずして人身事故を著るしく増加させ、また、交通渋滞等により我国の道路交通の機能を麻痺させ、我国の社会経済の円滑な発展を著るしく阻害し、国家国民の利益を害することとなる。本件のごとき土石流事故の絶対完全な防止措置を講ずることは、期待可能の範囲を超えるものである。

(ハ) 原告らは、右の防護設備の能否とは別に、土砂崩落の危険ある国道の通行を規制しなかつたことが不当であり、それが本件国道管理の瑕疵であると主張する。

(本件道路の交通規制の権限を有する者は、中部地方建設局長であるが(道路法四六条一項、九七条の二、同法施行令三九条一六号参照)、右の局長の権限については、同局長の訓令(中部地方建設局処務細則一六条の三)により事務所長の専決が認められている。この場合出張所長が交通規制をすべき事態を了知し、急を要するときは、事務所長の補助者として、交通規制の現場的処置をすべきことは当然である。)

しかし通行止めをするほかは絶対的安全を計ることのできない道路といえども、その供用継続が当然管理の瑕疵となるべきものではない。

なるほど、本件道路を早期に通行止めにしておれば、本件事故は防止し得たであろう。しかし気象予報は往々にして的中せず、また崩落・落石は必ずしも降雨量に比例せず、時間的にも降雨と一致せずに起りがちの偶発的突発的なものであつて、これを的確に予見することは不可能である。絶対的安全を計る防護設備ができないからということで、落石・崩落の可能性が考えられさえすればすべて直ちに交通規制するとすれば、規制期間はおのずから長期に亘ることとならざるをえず、道路交通は麻痺し、地域社会に与える影響は極めて大きなものとなり、かかる規制自体社会的非難をうけること必定であろう。本件道路は、地域住民・地方経済にとつては重要な路線であり、これを長時間閉鎖規制すれば県内の幹線道路の一としてのその効用は激減し、公益に及ぼす影響は大なるものがある。

今本件事故当時に限つて、交通規制の能否を検討してみるに、事務所が気象台から一七日二〇時発表の雷雨注意報について通報をうけた同四〇分現在では別紙12に明らかなとおり未だ降雨は殆どなかつたのであるから、右予報だけで直ちに交通規制をすべき段階でなかつたことは明らかである。またその後もさしたる降雨のないまま経過し(同日一六時から一七時までの間には上麻生で29.0mmの降雨中に拘らず、一七時一五分大雨洪水雷雨注意報が解除されている)、二三時二五分に至り二二時三〇分発表の大雨警報・洪水注意報が同事務所に通報されたが、これ亦、岐阜地方全般に対する予報であつて、本件山間部における本件事故当時の局地的集中豪雨を予見すべくもない。右警報等によつては単に事態の推移に警戒態勢をとることが要請されるにとどまるものというべきである。そして二三時二五分出張所が気象台から右警報等を通報されると時を同じくして上述の土砂崩落を加茂警察署から連絡されたときも、従来本件国道における土砂崩れの多くがさほど大規模でなく、かつ崩落の予見される地点は通常の安全性を満たすべく十分補修を了しており、また危険箇所と目されるところには、その箇所毎の予見可能の限度に応じ相当と考えられる法面石積・金網等の防護設備を講じてあり、出張所所在地の降雨状態がさほどでないことからかかる通報をうけただけでは未だ本件事故当時の局地的集中豪雨の生起とそれによる被害を察知するによしなく、なにはさておき土砂崩れ箇所の位置・規模を確認するために現場に急行して、土砂崩れを排除してでも円滑な交通を確保すべき事態なのか、反対に交通規制をもつて交通の安全を計るべき事態なのかを判断し、相応の適切な措置を講じようとしたことこそ、まさに道路管理者としてとるべき態度をとつたものであり、かかる通報によつて直ちに交通規制をしなかつたことをもつて、道路管理の瑕疵ありとすることはできない。のみならず、かりに出張所が気象台から上記通報をうけ直ちに出張所前の国道四一号上に通行止め標識を設置して交通規制を行つたとしても、既に本件バス集団は同所を二二時半通過北上した後であり、これを阻止することはできなかつたものである。

従来より、崩落の危険を予見し、事前に交通を規制すべきものとすることは、道路管理者には実際上技術的に極めて困難であることと、円滑な交通の確保の要請が強く、崩落箇所の土砂を排除してでもこの要請に沿うべく努力が払われてきたのであつて、崩落必至と明らかに認められまたは道路が物理的に不通となる以前に交通を規制するには実際上慎重ならざるをえず、一般社会通念も何ら管理者のこのような態度を異とせず、むしろ古来道路通行に際しては土砂崩れを完全に防止する設備を期待することの不能を常識とし、崩落の虞れの有無及びかかる場所を敢て通行するか否かは通行者自らの判断においてなすべきものと心得えてきたのである。従つて、通行者は道路の破損・陥没・路肩の軟弱等と異り、「落石注意」等の表示により気象の如何によつては崖上から土砂崩れ・落石のありうる地域であることを了知すべく、しかるうえはかかる危険地域の通行を諦めるか自己の危険負担において通過するかを決すべく、道路管理者としては通行者に対しかかる判断資料ないし注意喚起を与えることによつて当面の管理責任を果したものとみるべきである。かかる観点より考えれば、本件国道上には既に述べたとおり本件バス集団の行動範囲内だけでも当時七地点に計七個の「落石注意」の表示が建てられていた本件の場合、道路の管理における交通規制上の瑕疵は否定さるべきである。

これを要するに、本件国道の設置・管理には何ら瑕疵はない。本件事故地点の土砂崩落は、予見不能な異常な局地的集中豪雨により極めて偶発的に発生したものであり、かかる事故を阻止することは道路管理の限界を超えることであつて、本件事故は、如何ともし難い自然の暴威の不可抗力によるものである。本件国道の設置・管理には、交通規制の点を含め何ら瑕疵はなく、本件損害の発生は不可抗力によるものであるから、その賠償責任はないものといわざるをえない。

(六) 本件事故が不可抗力によるものであることは以上に述べたとおりである。しかしいま、かりに、本件事故の原因をすべて不可抗力に帰することに疑問の余地があるとして、他にその原因を求めるとすれば、それは本件バス集団の車両運行上の総責任者が明らかでなく、かつ前記高笠原武・鈴木一郎らの運行の安全に対する慎重な配慮の欠如及びこれらの者の判断に無批判的に追随し互に他のバスの行動に同調した各バス運転者の運行上の過失を挙げることができる。

バス集団が犬山に集合した当時既にバス運転者は当夜の行先方向に雷雲を認めながら、その後のバス運行中カーラジオによる気象ニュースに注意した事実は全くない。また69.6Km地点で既にバス集団は、流出土砂に出会い、右側車線を通つて北上したにもかかわらず、これが南下についての態度を決する際に何らの参考にもされていないのである。バス集団はモーテル飛騨到着後大雨注意報を了知し、かつ運転者のうち数名はわざわざ七八Km地点の崩落の現認に赴いているのであるから、往路既に上麻生辺りから遭遇した強い雨がその後益々激しさを増して長時間降り続いており、現に視界もかすむばかりの沛然たる状態(上麻生における時間雨量は一七日二三時から二四時まで44.2mm、二四時から一八日一時まで七八mm、一時から二時までは実に九〇mmに達している)であることと考え合せ、いつ右地点と同様の崩落が以南の路上に生ずるかも計り難い緊急の事態にあることは当然想到すべきところであるに拘らず、さらにまた、多人数の安全を託され、これを確保すべき立場にある旅行主催者・バス関係者らが、「今直ちに南下せば間に合うべし」との人の言を軽信し、それまでの北上において出会つた崩落の箇所及び程度が拡大することなく、同一状態が持続するものと安易に考えて南下に決し、北上時に通過した崩落箇所にさらに約一時間を経過して差しかかつたのである。白川口駅前に停車中の他のバス等には目もくれず、深夜になる名古屋帰着だけを考え、しのつく雨の中をひたすら南下を急ぐ運転者らは既に崩落の危険に対する冷静な思慮を欠いていたものというべきである。因に、七台目(四台目を五号車と称したので八号車に当る)以下の後続車は既述のとおりの理由で同駅前に待機し、行けるところまで進むようにと主催者側から指示されたのに対し「通れるかどうかはつきりした事が分らないと進めない。」旨慎重な態度を持し一夜をここで明かしているのである。果せるかな、打続く豪雨に復路は往路と様相を一変し、65.25Km地点で全道路幅を覆う崩落土砂に出合つた。この土砂を右側車線分だけスコップを手に手に数名のバス関係者が排除作業を行い、運転者は該部分通過に当り乗客に対し車体の揺れを警告さえしており、通過後これで名古屋に帰れると乗客ともども安堵したというが、被告をしていわしむれば、事程左様に無理をしてでも南下を続け排除不能の大崩落に出会うまでは南下を思い止まる気配のなかつたことに驚かざるをえない。右の崩落地点で北上停車中の車に出遭つたようであるが北上車両は、もとより何ら爾後の道路の安全を保保するものでなく、豪雨にいささかの衰えも認められない当時の状態では、次の瞬間に如何なる事態が以南の山間部路上に生ずるやも保し難く、右崩落を目の前にした以上、直ちに以北の平坦部に後退を決意すべきが当然である。

さらに64.17Km地点の崩落に出合つた際には、回地点の落石・土砂崩落が続いているのに漸く危険を感じ、僅かに64.3Km地点前後まで後退し、かつ小規模の落石を南下左車線側にのみ予想し、飛騨川寄りの右車線上への停車でこれを避けうるものと判断して、漫然長時間同地点に停車し続けたのであるが、これも甚だしく注意配慮を欠くものといわざるをえない。けだし豪雨の継続と山間の崖地の迫つた地形とその時までに崩落に繰り返し遭遇したことを総合すれば、現在地点がもはや危険地帯にあることは疑う余地もないからであり、ここに六台のバスが延約一〇〇メートルに亘り縦列を作つて一夜を明かせばそのいずれかの車に落石・崩土の襲う可能性は十分といわねばならない。しかも遅疑逡巡は後続他車の長蛇の列を作り、かつ退路を崩落で断たれ、身動きならぬ事態を招来するのは当然である。すなわち該地点の崩落を目の前にして措るべき策は唯一つ、危険地帯からの一刻を争う脱出あるのみであるが、かかる措置は全く考慮されていなかつたのである。

これを要するに、本件事故については旅行主催者・バス関係者らが再三に亘つて情況判断の誤りを重ね、とるべき措置をとらず、逐次事故の深渕に近づいて行つたものと評せざるをえない。

(七) 原告らの主張について

(イ) パトロール

1 本件事故前日の一七日二〇時発表の雷雨注意報を受けた時点で直ちにパトロールを実施すべきであつたかどうかを検討する。

当夜二一時頃美濃加茂国道維持出張所に雷雨注意報の通報があつたが、その時点では出張所附近はもとより、国道四一号上の出張所管理の区間においてはさしたる降雨はなかつたのであり、その後に、気象台のレーダーを以つてしても捕えることのできない局地的な集中豪雨に急変したものであつて、道路管理者にこのような気象条件の急変を予測してパトロールの実施を要求することは無理である。

2 次に、気象予報の伝達方法が改善されて、気象台からの二二時三〇分発表の大雨警報・洪水注意報が事務所から出張所へと連絡通報されるに要した推定所要時間を二〇分程度と想定して、直ちに道路パトロールを実施したと仮定しよう。

即ち、出張所がこの気象予報を受けて出発するのが一七日二二時五〇分頃、白川町に到着するのが二三時二〇分から二五分頃、下油井崩落地点に到着するのが二三時三五分から四〇分頃となり、白川町警察官派出所巡査部長高橋吉男らの行動とほぼ同時刻となる。従つて警察官のとつた措置以上のことが、道路管理者において行い得たかどうか疑わしい。

3 なお道路パトロールは、パトロールカーで行うことが建前であるが、その日の職員の業務配置計画とにらみ合わせて業務の効率的遂行を期するため、中部地方建設局では、パトロールカー以外の作業車や業務連絡車であつても、目的地までの間はパトロールの業務を兼ねて走行するよう指導していたものである。一七日に右出張所においてパトロールカー以外の車両によつてパトロールを実施したとしても、これを以つて道路のパトロールを怠つたというのは見当外れの非難である。

(ロ) 交通規制

1 交通規制を行い得るのは、道路法四六条により、「道路の破損欠壊その他の事由により交通が危険であると認められる場合」と「道路に関する工事のためやむを得ないと認められる場合」に限定されている。従つて、前者の場合は、災害等により道路が破損・欠壊したか、またはこれらの徴候が現出されていることを要するのであり、かつ実施方法は区間を定めて行うことになつている。

2 そこで、一七日二三時三〇分頃、出張所宿直員青木伯文が、加茂警察署より下油井土砂崩れの通報を受けた時点において、直ちに交通規制をなすべきであつたかどうかを検討する。

その時点では出張所附近は全く降雨がなかつたのであり、しかもその通報によれば、具体的場所と崩壊規模等事態の詳細を同署自身未確認であつて、むしろこれらの詳細を問合わせる趣旨の内容であつたのであるから、この時点で直ちに交通規制の要否、殊にどの区間を規制するかを判断することは不可能であつて、先ずは一刻も早く現場を確認し、しかるうえで早期対策を講ずることを考えるのが、道路管理者としての当然の措置である。

3 次に道路管理者が一七日二二時三〇分発表の大雨警報・洪水注意報を二三時二五分頃通報された時点で直ちに交通規制するべきであつたかどうかを検討する。

道路管理者としては、大雨警報等の気象予報に接した場合には、右予報を念頭において、その後の現実の降雨量の経緯に警戒を払いつつ、これが危険降雨量に達した時点に至つて始めて、交通規制を実施するのが当然の措置であつて、右予報だけで現実の降雨量の経緯を考慮することなく安易に交通規制を実施すべきものではない。

現行の事前規制においても、気象予報だけで交通規制を実施する運用はなされていない。

(ハ) 事前交通規制

1 道路管理者は、本件事故後、降雨量による事前交通規制の制度を実施することとした。土砂崩れ等のような一般に発生予知が不可能とされる現象に対して事前交通規制を如何に的確に運用するかは極めて困難な今後の課題であつて、関係諸科学の成果が切に期待されているところであるが、ただ当面他に依るべき基準がないので、連続降雨量のみを一応の目安として、国道四一号中部地建管内では八〇mmで交通止めを実施しているのが実情である(なお、その後、運用実績の経験から現在では一二〇mmに引き上げられている)。ちなみに、過去の崩落事例(別紙10参照)でも、八〇mmに達する以前の雨量で崩落したり、八〇mmを大きく突破しても何ら異状ないまま推移し数時間或いは数日経過した後に突如として崩落したりする事例がみられ、統計的にも雨量との相関関係は極めて把握し難いものである。

2 降雨量による現行の事前規制の実情はさておき、原告ら主張のように、本件事故当時仮に連続雨量八〇mmの基準で現行の事前規制が実施されていたならば、本件事故は起きえなかつたかどうかを検討することとする。

本件バス集団は、一八日〇時頃モーテル飛騨を反転して同二〇分頃には、65.25Km地点に到達している。

本件バス集団が運行した犬山市からモーテル飛騨にかけての国道四一号は、現在、七宗橋(54.7Km)から金山町井尻(81.6Km)間で交通規制を実施している。この間内の現行のテレメーターは62.4Km地点に設置している。そこで、この現行テレメーター設置地点に最も近接する地点における当夜の降雨記録として現存するのは、同テレメーター位置から直線距離西南5.5キロメートルの中部電力上麻生発電所所在中部地建雨量観測所(55.1Km)の降雨記録であるから、この降雨量が現行のテレメーターで出張所に送信カウントされたものと想定しよう。

同地点における一七日当夜における一六時から一八時までの降雨量は〇であるから、一八時の連続雨量は〇である(連続二時間降雨記録がない場合は連続雨量を〇に戻すのが通常の取扱いである)。そして一八時から降り始め二三時までの連続雨量は四七mmであつて、基準雨量の八〇mmにはいまだ遠く達していない。その後の一時間に実に七八mmの集中降雨があつて、その結果、一八日〇時に基準雨量以上の一二五mmに一気に達したのであるから、出張所が基準雨量突破を確認することができたのは、現行テレメーターを用いても、一八日〇時であるとしか想定しえない。

なお、同テレメーター位置から直線距離北方八キロメートルの中部電力名倉えん堤観測所((77.0Km)の雨量記録でも基準雨量に達したのは、一八日一時である。

原告は、中部電力七宗えん堤観測所の降雨記録を以つて一七日二二時に規制基準雨量たる八〇mmに達したとされる。

ところが、同観測所地点は、当該規制区間北端附近の東方数百メートルであり、このような地点にその区間内の交通規制のためのテレメーターを設置することは、到底想定しえないものである。

そこで一八日〇時にテレメーターで基準雨量突破を確認し、現行通常の運用に従い、直ちに交通規制を実施するべく、職員が降雨のなか可能最高時速五〇キロメートル程度で白川に向けて急行したと仮定しても、一八日〇時三〇分以前に64.17Km地点を通過することは不可能であるから、同地点の土砂崩落で前進を阻まれることになり、本件バス集団の南進を規制することは不可能である。また同地点の土砂崩落は事前にその情報がもたらされていないのであるから、これを予測して、白川町所在の関係機関に交通規制を依頼することも到底不可能である。

3 次に現行の道路モニター制度を利用したとしよう。

一八日〇時に基準雨量を突破したことを確認し、他の所定の連絡業務をすべて後回しにして、最優先で白川町鈴木石油店前のB型情報板に交通止の規制標示を行うべく、同情報板受け持ちの同石油店へ電話指令したと仮定しても、通話呼出し・標示内容の伝達・同記録復唱・身仕度・情報板までの六〇メートルの走行・情報板の操作等をするに要する通常の所要時間は、少なくとも二〇分程度を必要とすると考えられるから、南下する本件バス集団がこのB型情報板を果して確認しえたかどうかは、時間的にはなはだ疑問である。

4 以上のとおり、現行の降雨量による事前規制を、本件事故当時的確に運用したものと想定して、あらゆる可能な限りの仮定を立ててみても、本件バス集団の南下を阻止することはできなかつたものといわざるを得ない。

(ニ) 避難誘導処理

64.17Km地点で駐車中の本件バス集団に対し、道路管理者は避難誘導の措置を講ずることができたかどうか、を検討する。

当夜、青木・郷右近らのパトロール員が同地点に到着したのは、〇時二〇分から三〇分頃であつたと考えられ、本件バス集団が同地点に到着したのとほぼ同じ時刻でなかつたかと思われる。

さて、64.17Km地点の土砂崩落現場を挾んでパトロール員がバス集団を現認できたかどうかであるが、同地点の崩落現場は、山側法面から河側ガードレールの高さに達する崩落土があり、なお崩落が続いていたこと、この地点附近の道路の線形から推察して見通しは極めて悪く、加えてしのつく雨に視界を遮ぎられていること等から判断して、本件バス集団を見いだすことは不可能であつたといえる。

よしんば、パトロール員が崩落現象が続く同地点の崩落土の上を身の危険をおかして乗り越えたとしても、現に同時刻白川町消防団員八名が、駐車車両のことごとくに避難勧告をなし、献身避難誘導の措置にかかつたのであるが、狭い幅員に大型車両が混乱を極め、遂に自分らの身の危険を感じ、これを断念して反転せざるをえなかつたのであり、僅か二名のパトロール員がこれに加わつたとて、それ以上の如何なる臨機有効な対策が講じえたものかどうか疑わしい。

(ホ) 以上これを要するに、本件事故を発生せしめた土石流は、現在の科学技術の最高水準をもつてしても防災の工法の見当らない規模のものであつて、自然の暴威によるものというべく、これを誘発せしめた豪雨は極めて限られた局地にかつ短時間に集中したものであつたために、想定可能な如何なる交通規制をもつてしても本件事故は避けえなかつたものといわざるをえない。

強いて言及すれば、旅行主催者やバス運行関係者の度重なる情況判断の甘さ、就中、本件事故現場で実に二時間近くも漫然時間を過したことは、極めて遺憾としなければならない。

五、請求原因五、の事実は争う。

第三、証拠関係<略>

理由

一、(事故の発生)

昭和四三年八月一八日二時一一分頃、岡崎観光自動車株式会社所有の観光バス二台が、一般国道四一号を岐阜県加茂郡白川町方面より名古屋方面に向い南進して同町大字河岐字下山一、二七八番の四地先道路上にいたり同所に駐車していたところ、同所東側斜面にある沢で生じた土石流に押し流され、同国道西側を流れる飛騨川に転落水没し、そのため同時刻頃右バスに塔乗していた別紙死亡者目録記載の一〇四名の者が死亡したことは当事者間に争いがない。

(註) 右転落事故地点は、名古屋市東区高岳町地内に存する国道四一号の起点からの道路距離をもつて示すと64.30キロメートルの地点にあたる。以下において、同国道上の位置を示す場合に、例えば「64.30Km」というのは右起点からの道路距離の意味である。

二、(本件事故にいたるバス集団の経過)

<証拠>を綜合すると、次のとおりの事実が認められる。

1  乗鞍岳観光バス旅行の計画

(一)  株式会社団地新聞奥様ジャーナル社(本社・名古屋市中村区泥江町一丁目二四番地、代表取締役高笠原武)は、家庭生活に関する情報の提供を内容とする「奥様ジャーナル」という新聞の刊行を営業とし、その配布対象を名古屋市およびその周辺の日本住宅公団、名古屋市営、愛知県営および名古屋市住宅供給公社の各住宅団地、その他社宅、分譲住宅の一部とし、本件転落事故当時発行部数約八万部に達していた。右新聞の配布は住宅団地については全部無料であり、一部に有料の配布先があつた程度で、同会社の主たる収益は同新聞に掲載される各種商品の広告料によつて挙げられていた。

同会社では右新聞の読者に対するサービスの一環として観光バスによる観光旅行を行うことを企画し、その行先等についての希望調査をしたところ、当時山岳部の道路事情が改善されたためもあつて、乗鞍岳(標高三、〇二六メートル)山頂における御来迎を見物する目的の旅行が盛んに行われていたことから、右希望調査の結果も乗鞍岳を希望する読者が圧倒的多数を占めた。そこで同会社は右調査結果により昭和四三年七月一〇日頃乗鞍岳登頂と御来迎見物を目的とする観光バス旅行(同社では「乗鞍雲上パーティー」という名称をつけた)を名鉄観光サービス株式会社中部営業局(同営業局所在地は奥様ジャーナル社の本社と同じ)と共催で実施することを決定し、名鉄観光サービス側は観光バス(大型乗合自動車)を調達してその運行面を担当し、奥様ジャーナル社側は同社営業担当責任者である多戸某を右観光旅行の総括責任者とし、同旅行全般を担当させることとした。

右観光旅行の実施計画はおよそ次のとおりであつた。

ア 集合出発地点 愛知県犬山市所在成田山大聖寺(名古屋別院)山門附近の駐車場。各団地から同地点までは観光バスにより参加者を運送する。

イ 乗鞍岳までの経路 犬山市(愛知県)・美濃加茂市(岐阜県)・川辺町(同県加茂郡)・七宗村(同上)・白川町(同上)・金山町(同県益田郡)下呂町(同上)・高山市(同県、以上国道四一号経由)・乗鞍岳山頂(同県大野郡)

ウ 集合時刻 昭和四三年八月一七日(土曜日)二一時三〇分

エ 出発時刻 同日二二時

オ 乗鞍山頂到着予定時刻 同一八日(日曜日)三時三〇分ないし四時。山頂にてパーティを行う。

カ 乗鞍岳にいたる往路の休憩場所(休憩一回)

「モーテル飛騨」(加茂郡白川町)および「モーテル金山」(益田郡金山町)

キ 山頂出発予定時刻 同一八日一〇時三〇分ないし一一時

ク 帰途休憩場所 下呂町旅館にて一四時頃昼食

ケ 犬山到着解散予定時刻 同一八日一八時

コ 会費 大人一名につき金二、〇〇〇円(子供はこれより減額)

かくて、奥様ジャーナル社は前示新聞に右企画を掲載して参加者を募集したところ、参加希望者は約七五〇名(主として名古屋市千種区猪高町所在引山団地等同市内四ケ所の団地住民)に達し、名鉄観光サービスにおいて調達した観光バスも各社あわせて合計一五台となつた。

(二)  旅行主催者による気象状況の確認については、往路および復路における天候のほか、ことに乗鞍岳山頂における天候の良否が旅行の成否に決定的な影響をおよぼすことに鑑み、同山頂方面の気象状況の把握に特に注意を払つていたが、出発当日においても名古屋市所在の日本気象協会東海支部に対し、三回にわたり電話照会をし、最終照会(同日一八時三〇分)に対する同支部の回答が「高山測候所の予報では、明日は西よりの風で霧時々晴、一七日午前九時、乗鞍はにわか雨と濃い霧、見透し一五〇メートル位、一七日午後三時乗鞍は北西の風が五メートルにわか雨と霧で、雨量は六〇ミリメートル、一八日は天気は回復する予想」というものであつたので、主催者は天候は好転するものと判断し、さらに同日一八日頃には、名古屋鉄道株式会社新名古屋駅案内所に対し、電話照会し、同会社の定期観光バス「のりくら号」(乗鞍方面への観光客のため夏期々間中毎日名古屋から乗鞍岳へ向う定期バスで、当時夜行便を含め一日三便ないし四便運行されていた)が当夜平常どおり運行することも併せ確認し、予定どおり旅行を実施することを決定した。なお、出発時刻頃犬山市附近は曇つてはいたが降雨はなかつた。

なお、右のほか、七月二八日、二九日の両日、全コースについて実地踏査が行なわれ、八月一六日には添乗員会議を開催して配車計画、旅行日程等の打合せを行なつた。

2  犬山出発からモーテル飛騨到着まで

(一)  旅行当日である同年八月一七日参加者約七五〇名は、各団地の指定場所において出迎えの観光バスに乗車して二一時二〇分頃集合地点である犬山市所在成田山大聖寺(名古屋別院)の山門附近駐車場(同所は25.7Kmの東方約二〇〇メートルに所在する)に集結を終り、乗車区分等の編成にしたがつてそれぞれ観光バス一五台に分乗しした。

観光バスには、一号車から一六号車まで(ただし、四号車は欠番)の番号が付され、その所有バス会社ごとの編成は、一号車ないし七号車は岡崎観光自動車株式会社(四号車はないから合計六台である)、八・九号車は知多乗合自動車株式会社(二台)、一〇・一一号車は東濃バス(二台)、一二号車ないし一六号車は名古屋観光自動車株式会社(五台)であつた。

そのほか、各観光バス相互間の連絡用として奥様ジャーナル社の社員山田某および原田某の運転する乗用車一台、岡崎観光の予備運転手六名を乗せたライトバン一台が用意されていた。

一号車は本部車として主催者側の奥様ジャーナル社々長高笠原武および名鉄観光サービス中部営業局次長鈴木一郎が同乗し、最後尾一六号車には同社西部営業所長佐野十朗が同乗したほか各観光バスには運転手のほかに添乗員(主催者側二社の社員)が一名ずつ同乗した。

(二)  同日二二時一〇分頃、まず予備運転手らの乗車する前示ライトバンが同山門広場を先発し、続いて二二時二〇分頃バス集団は一号車を先頭に順次番号にしたがつて出発し、最後尾に連絡用の乗用車がこれを追尾した。

二二時四〇分頃、バス集団は美濃加茂市内(三八ないし四〇Km)を通過したが、同市内を出はずれた附近から雨が降り出してきた。ところが、下麻生地内(五〇ないし五一Km附近)にさしかかつたところ、天候が急激に悪化し、雷光が断続的に走り、これとともに激しい豪雨の中に突入し、運転席前のワイパーブレードを高速作動させても、なおフロントガラスに打ちつける雨をぬぐい切れず、前方の視野が著しく制限された状況となり、これに加えて路面に叩きつけた雨水は浅瀬のようになつて流れる状態であつたため、バス集団は減速ないしは徐行しながら進行した。篠突く雨と雷光の中をバス集団がなおも進行して七宗橋(54.1Km)を通過したのは二三時〇分頃であつた。激しい雷雨は柿ケ野隧道(62.4Km)を通り抜けてもなおも止まず、二三時一九分頃飛泉橋(66.7Km)を渡り終るまで降り続いたが、その頃になつて雷雨がやゝ弱まり、降雨はなおも続いていたけれども、それまでのように激しいものではなかつた。しかし、相当強い雨がその後本件事故の発生した翌一八日二時一一分を過ぎてもなお降り続いたのであつた。(気象観測では、一時間当りの雨量が三ミリメートル以下を弱い雨、三〜五ミリメートルを並み雨、一五ミリメートル以上を強い雨として分類している(甲第三九号証)。当日二三時から二四時までの一時間雨量は、別紙13のとおり、上麻生(55.1km附近)で七八ミリメートル、名倉(77.0km附近)で二八ミリメートルであつた(乙第七号証)。時間雨量が五〇ミリメートル以上ということはバケツで水をぶつかけられるという表現でも誇張でない、九〇ミリメートルを越すというのはほとんど想像を絶するほどの雨量である(田中政由の証言))。

(三)  主催者としては、美濃太田を過ぎる頃まで車内マイクを使つており、その後は「もうおそくなりましたのでおやすみなさい」と言つてラジオを切つたため、二二時三〇分発表の「大雨警報、洪水注意報」を知らなかつたうえ、道路上にそれまで土石の崩落等もなく、また当時他にも同一方向に進行する観光バス等が相当数あつたところから、前記豪雨を一時的なものに過ぎないと判断していた。

(四)  バス集団が往路の休憩場所として予定していたモーテル飛騨(76.5km、岐阜県加茂郡白川町坂の東一、二三一番地の一附近)に到着したのは二三時三三分頃であつた。同所前の駐車場には、当日が土曜日であり、高山・乗鞍方面に向うべく北上する他の観光バス・乗用車等が多数駐車しており、さらに同所附近道路上にもおよんでいたので、バス集団は同モーテル前道路左側(北行車線)に一列に並んで停車した。

主催者である高笠原および鈴木の二人はモーテル飛騨の混雑に入つて行き、そこで同所から約1.5キロメートル先の同国道上に土砂崩落(それは後記認定の白川町下油井地内坂東橋(78.0km)附近の崩落であつた。同郡白川町坂の東七四六番地の二附近)があり、通行不能であることを聞き、さらに右崩落の排除作業が通常夜明けを待つて着手されるのが例であることを知り、右排除作業による復旧を待つていては旅行の目的が不可能となることが明らかとなつたので、右両名において協議のうえ、旅行中止を決定し、同モーテル隣りのガソリンスタンドの事務室を借用してバス集団の添乗員全員を集合させ、旅行中止の事情を説明するとともに、直ちに反転して帰途につくことおよび帰途における集合場所を名鉄新鵜沼駅前とすることを決定し、これを各バスの運転手および乗客らに伝えるよう指示した。

当時、同駐車場附近には合計四〇台におよぶ観光バス、乗用車等が北上すべく停車していたが、それらの多くが、前示土砂崩落のためこれを断念し、相前後して名古屋方面に向け帰途につきつつあつたことは添乗員のみならず、運転手および乗客らもこれを了知しており、主催者らの右中止決定に対して、とくに異議を述べる者はなかつた。

なお、その間にあつて、前示ライトバンでバス集団に先行していた岡崎観光の予備運転手ら(同運転手らはモーテル飛騨において交替する予定であつた)は同車を運転してさらに北上し、坂東橋附近の前示崩落現場に赴き、土砂崩落の規模が同国道左側において高さ約一ートル、右側の川側において高さ約0.2メートルの傾斜をなして土砂が堆積しておりそれが前後約一〇メートルにわたつており、通行不能の状態であることを現認し、直ちにモーテル飛騨に引き返して主催者らにその旨報告をした。

前示反転帰途につくにあたつては、主催者側も運転手らも帰路における危険については全く念頭になかつた。

3  モーテル飛騨から事故現場まで

(一)  一八日〇時五分頃モーテル飛騨前道路上で、一号車(同車には、主催者側の高笠原および鈴木が同乗したほか、岡崎観光バス運転手指導主任である岩間清が同乗しており、同号車は名実ともにバス集団の本部車となつていたと認められる)を先頭に順次反転して次の集合地点である名鉄新鵜沼駅(二八km附近にあたるのでモーテル飛騨から約48.5キロメートルの道路距離にある)に向い帰途についた。反転した際の位置関係で一号車から五号車までが順番通り反転したのに続いて一四号車(名古屋観光所属)が反転したため同車の後に六号車および七号車が続くことになつたが、その後一四号車は七曲モーテル前で乗客のための休憩をとるべく停車しているうち右六号車および七号車に先行され、結局一号車から七号車までの六台(いずれも岡崎観光所属)が一団となり、他社のバス九台を引き離して先行することとなつた。

(二)  右岡崎観光のバス六台は、モーテル飛騨を出発して国鉄高山線白川口駅(66.8km、同郡白川町坂の東無番地所在)を同〇時一七分通過した。その間降雨は依然として続いたが、道路にはとくに異状が認められなかつたので、深夜降雨下にもかかわらず、時速約五〇キロメートルの速度で同国道を進行していた。

(註) 当時地元の白川町消防団では二二時頃からの激しい豪雨と河川の増水が甚だしいところから水害の発生をおそれ、〇時一〇分頃消防団員召集のためのサイレンを鳴らしていた。

白川口駅前には前示下油井地内土砂崩落のため旅行計画を変更した他の観光バス数台がそれぞれ所属会社にその旨を電話連絡するため停車していたが、岡崎観光バス六台は格別異状を認めず、そのまま同所を通過し帰途を急いだ。

ところで、岡崎観光バス六台の一団となつたバス集団より遅れてこれに続いていた一四号車(名古屋観光)の運転手河合文夫は白川口駅前にさしかかつたところ、同所道路上に停車中の前示数台の観光バスのうちに、自車と同一所属の名古屋観光のバス二台が同一進行方向(南下)に向け停車しているのを認め、不審に思い、故障の有無を尋ねるため、その傍らに停車して同車の運転手に話し掛けたところ、同運転手から、南方道路に土砂崩落があつたらしいとの情報を聞知した。そこで河合運転手は帰途における集合地点がすでに定められていることでもあり、暫らく同駅前に停車して北進してくる車両の有無等により進路前方の交通の状況を判断したうえで出発しようと考え、同所に停車して時を過すうち、北進車両からの情報等により飛泉橋先における土砂崩落により通行不能となつたことを知り、同車に続いていた本件バス集団に対してその旨を伝えて、同駅前に停車させ、同所において復旧を待つことになつた。これが本件バス集団のうち、先行した前示岡崎観光バス六台(一号車ないし七号車)とそれ以外の他社の観光バス九台(八号車ないし一六号車)とが事実上別行動をとる契機となつた。

(三)  かくて岡崎観光のバス六台は、飛泉橋(66.7km・長さ105.8メートル・幅7.0メートル飛騨川の架橋)を通過した。

(註) 当時同橋東詰め北進車道上には後記認定のとおり白川警察官派出所の高橋巡査部長が下油井地区崩落の報告により二三時三〇分頃に立てた「北進禁止」の標識板が存在した。

以上のとおり途中停車することもなく同国道を南下してきた六台であつたが、同日〇時二〇分頃同国道65.25km地点(同郡白川町河岐地内)において道路上に崩落土砂を認め、はじめて停車することとなつた。

右土砂崩落は、幅員約九メートルの道路上左側(南行)車線の山側で高さ六四センチメートル、センターライン附近で二〇センチメートル位であり、そのほか、右側(北行)車線上には頭大の石一〇数個が落下していた。

この崩落土砂に阻まれて、向う側の対向車線(北行)上には東海観光バス一台、明星観光バス二台、名古屋鉄道定期観光バス「のりくら号」(名鉄バスターミナル一七日二二時三〇分発)一台のほかトラック・乗用車等数台が停車していたが、一号車に同乗していた岩間清から下油井土砂崩落のため北上することが不能であることを聞き、方向転換をして岡崎観光バス六台と相前後して南下することとなつた。

岩間清らは右側車線上の石を取り除き、同所を通過しさえすれば、その前方の交通に支障はないものと判断し、雨はなおも降り続いていたが、運転手数名をもつて散乱している石を飛騨川へ転がして捨て、なおセンターライン附近の土砂を備え付けのシャベルでならし、以上の作業に約一五分間を要したうえ同崩落地点を通過してさらに南進をつづけた。

(四)  そして、前示崩落地点から道路距離にして1.08キロメートル進行し64.17km地点の土砂崩落に直面した。

同崩落地点に到着のたのは同日〇時四〇分頃であつた。

同所附近の状況は、国道が概ね南北に通じ、東側は急斜面の山肌が迫り、切り立つた岩壁がいたるところ存在し、その表面に葉樹の雑木が一面に生い茂つており、土砂崩落、落石の危険を防止するため石垣・モルタル吹付・金網等が施されている。西側は路肩から直下に飛騨川の急流が流れており路肩にはガードレールが設けられている。国道は幅員約8.8メートルのアスファルト舗装で、道路山側が南行車線となり、川側が北行車線となつている。

バス集団が停車した当時における前示崩落土砂の規模は、国道山側(東側)において高さ約二メートル、川側(西側)において高さ約0.5メートルに達しており、前後の幅は川側で約二メートル、山側ではこれより相当広がつており、この土砂を自力で取り除くことはもとより、これを乗り越えてバスを進行させることも不可能な状態であつた。しかも右崩落は緩慢な速度ではあつたがなお進行拡大しつつあることが認められたので、運転手および主催者らは同崩落地点から離れた方がより安全であると判断し、崩落地点に向い先頭にあつた一・二・三号車を三・二・一号車の順で約一〇〇メートル後退させ、これを最後尾にいた七号車の後方に三・二・一号車の順で停車させたため、結局同崩落地点を基準としてみると五号車を先頭とし、六・七・三・二・一号車の順序で停車することとなつた。六台のバスの間隔は、当時同所附近道路上に同崩落により進路を遮られて停車していた他のトラック・乗用車等の移動を考慮して五ないし六メートルとし、道路山側からの落石を避けるため川側の飛騨川沿いに停車した。そして、崩落地点に到着した当時からの停車位置を移動しなかつた五・六号車の山側急斜面の山陰にあつた沢(64.3km)からの土石流の突然の流出により本件事故が発生した。

4  事故の発生

(一)  主催者側の多戸某及び運転手らは、深夜降雨(その頃の一時間当りの雨量は、別紙13のとおり、上麻生(55.1km附近)において、〇時―一時の間に九〇ミリメートル、一時―二時の間に四一ミリメートル(乙第七号証))の中にあつて、車外に出て懐中電灯により、道路・崖等の周囲の状況を点検するなどして警戒にあたつていたが、切り立つた岩壁にはさまれて前示沢のあることについては、同沢が国道との出会い部分において狭いV字型をなし、岩壁一面に生い茂つた雑木等によつて深くおおわれていたためこれに気付かず、また前示土砂崩落の地点から北方約四六〇メートルにある中部電力株式会社上麻生発電所下山堰堤にかけての同国道上には当時約三〇台におよぶ観光バス・トラック・乗用車等が無秩序に駐車し、その間を縫つて後退することは至難な状況にあり、道路幅員からしても観光バスが反転することは不可能なことであつた。

これに加えて、同日一時頃本件事故現場北方約一五〇メートルの道路上において同所に停車中の定期観光バス「のりくら号」等数台の観光バスの間を通り抜けようとしたトラック二台がともに左前輪を道路山側の側溝に落し、これを引き上げるべく後退したトラックの右後部が「のりくら号」の左後部ボディに接触破損しその頃から約一時間にわたり同所附近の通行が不能となる事態が発生し、さらには、同日一時三五分頃本件事故現場北方約五〇〇メートルの道路上(64.80km)に土砂崩落が発生し、続いて同一時五〇分頃同方向約三〇〇メートルの道路上(64.60km)に土砂崩落が発生し、これにより本件バス集団は前後方とも封鎖されるにいたつた。

(二)  以上の状況のもとに、バス集団が夜明け後の救助に期待を寄せつつ不安な時間を過ごすうち、同日二時一一分にいたり、突如としてバス集団五号車および六号車の停車位置(64.30km)の左側(東方)急斜面にある沢に大量の士石流が発生し、同国道を横切り真下の飛騨川へ向けて落下した。そのため右二台のバスは土石流の直撃を受け、瞬時にして道管右側(西方)直下にある飛騨川へ転落水没するにいたり、ここに本件事故が発生した。

この転落事故により、前示五・六号車内にいた乗客および運転手ら合計一〇七名が転落した観光バス二台の車中にあるまま車体もろともに、折から当夜来の豪雨に水嵩を急激に増し波打つ水面が道路上に迫りつつあつた飛騨川の奔流に転落水没するにいたつたが、そのうち原告成田良正および訴外竹下昭男ほか一名が奇跡的に水面に浮上し、うち一名は道路下の樹木等に縋りつき辛うじて激流を避けつつ救助を求めているうち、折よく附近道路上に居合わせた片山達雄らによつて発見され、同人らの手によつて救助され、その他の二名は自力で路肩まで這い上がる等して危うく死を免れたものの、その余の一〇四名は濁流に呑まれたまま死亡し、または行方不明となるにいたつた。

右一〇四名のうち、遺体の発見されなかつた者は八名であるが、自衛隊・警察関係者その他による遺体の捜索が飛騨川下流全域にわたり約二ケ月間実施され、また一部の遺体が木曾川を経て遠く伊勢湾において発見されたことなどその他本件転落事故当時の状況を考慮すると右行方不明者八名についても本件事故により死亡したものと推認される。

なお、戸籍上の取扱いにおいても、右行方不明者はいずれも加茂警察署長報告により本件事故現場において死亡したものとして記載処理されている。

(三)  本件事故の原因となつた沢は、同国道東側に接する河岐山(標高716.5メートル)の尾根附近からほぼ真西に下り同国道(標高一四〇メートル)を経て飛騨川にいたるもので、その両岸を峻嶺におおわれ、深い谷状を呈し、傾斜約三〇度の急勾配となつている。本件事故時における崩落による流出土石の量はおよそ三、〇〇〇ないし七、〇〇〇立方メートルと推定され、国道上に堆積した土砂の量だけでも七四〇立方メートルに達した。

三、(本件事故当時の集中豪雨による各地の被害状況)

(一)  昭和四三年八月一七日朝から翌一八日朝にかけて岐阜県美濃地方に集中豪雨があり、各地に被害が発生したが、とくに飛騨川および長良川流域の南部の限られた狭い地域では一七日夜から一八日早朝にかけて短時間に多量の雨が降り、加茂郡富加村では一時間最大降水量が一〇五ミリメートルに達した。これを一七日朝から一八日朝までの二四時間雨量についてみると、一〇〇ミリメートル以上の区域は長良川・木曾川の流域一帯にわたつていたが、二〇〇ミリメートル以上になると急に狭められ飛騨川と付知川の流域の一部となり、さらに三〇〇ミリメートル以上の範囲は極端に狭く、飛騨川が木曾川本流に合流する地点のやゝ北方地帯の極く一部の狭い範囲であつた。この典型的な集中豪雨により、これらの狭い地域に著しい被害が発生し、山くずれ・がけくずれが続出し、また山間部の小河川の鉄砲水による家屋の浸水・流失も多かつた。

被害は岐阜県加茂郡・武儀郡・郡上郡・益田郡南部および恵那郡の一部にわたり、家屋の全半壊・流失・浸水・山くずれ等が相次ぎ、同県は一八日に武儀郡上之保村・加茂郡白川町・川辺町・富加村に、一九日には美濃加茂市にそれぞれ災害救助法を発動した。災害は山くずれによる土石流によつて発生したものが多く、人的・家屋・土木・農林関係等各種にわたつた。

これらの被害は、県下全般で死者一一八名(うち一〇四名は本件事故によるもの)、負傷者八名(うち三名は本件事故によるもの)、家屋の全半壊一〇四棟、床下浸水三、三九七棟、田畑の冠水七、三四五ヘクタール、道路の損壊四一九ケ所、山くずれ二三五ケ所、罹災世帯三、九七九、罹災者概数一七、八九〇名にのぼつた。

また、土木・農林関係の被害も大きく、被害金額約五六億円に達した。

国鉄関係では、高山線の古井・下油井間と、越美南線の美濃太田・郡上八幡間で線路浸水・道床流失や士砂堆積流入が各所で発生し、両線は不通となり、とくに高山線は開通まで実に二五日を要する災害を受けた。

通信関係の被害は、電々公社関係では、一般加入電話三、一八四回線、市外電話回線七四回線、農村集団自動電話は四、五二〇回線が美濃加茂・関・美濃局区内で被害を受けた。

一方、電力関係では、落雷による配電線の故障・土石流による送電線鉄塔や発電所の施設に被害を受けている。

(二)  以上の被害状況を飛騨川・長良川流域の主な市町村別にみると、

ア、美濃加茂市では、山沿いの町が大きな被害を受け、とくに三和町・伊深町の被害が著しい。三和町では総世帯数二〇三世帯のうち一五八世帯が罹災し、町内では安全な避難場所が見当らないような状況で、いたるところ無数の山くずれが発生し、川浦川の氾濫も加わり、死者七名、重傷者一名を出した。この下流の伊深町でも総世帯二七五世帯のうち一九〇世帯が罹災し、山くずれや土石流のおそろしさを示した。

イ、加茂郡川辺町は人口約一万、戸数二、一三五戸の町であるが、豪雨による浸水が全町の約三分の一の戸数に達し、浸水は一七日二三時頃から始まり、町の中心部も交通が途絶し、おそい所では一八日一六時頃まで水に浸つていた所もあつた。また山くずれによる農林・土木関係の被害も大きかつた。

ウ、加茂郡白川町では、死者二名、重傷者一名の人的災害が発生し、土木・農林関係および家屋の受けた被害が目立ち、全町の約四分の一の家屋が罹災した。

エ、加茂郡七宗村では、二四四棟が浸水・流失等の被害を受け、道路・農地・山林・河川流域はいたる所被害を受け、同村としては明治四三年の大水害に次ぐ大きな災害であつた。

オ、加茂郡八百津町では、住家被害一二四戸、死者一名、負傷者二名のほか、土木・農林関係の被害が大きく、伊勢湾台風の被害を上まわつている。

カ、関市では、三、三九四名が罹災し、土木・農林関係のほか商工観光施設の被害も大きかつた。

キ、郡上郡八幡町では、野々倉・小那比地区に被害が集中し、土木・農林関係や浸水被害が出ている。

ク、郡上郡美並村では、土木・農林関係の被害が山くずれのため発生し、浸水家屋四九世帯を出した。

以上のような被害をもたらした集中豪雨下において、土石流による本件バス転落事故が発生したのであつた。

四(身分関係)

<証拠>によれば、原告らは本件バス転落事故による死亡者の遺族であり、その親族関係は別紙3の損害明細表親族関係欄に記載のとおりであることが認められる。

五(本件国道の概要ならびに自然的条件)

<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すれば、つぎの事実を認めることができる。

1  本件国道の概要

(一)  位置と機能

(1) 一般国道四一号は表日本と裏日本とを中部山岳地帯を貫通して直結する重要幹線道路である。

この路線は名古屋市から北上して小牧市・犬山市を経て美濃加茂市にいたり、さらに山岳地帯を飛騨川に沿つて北上し、下呂町・荻原町を経て宮峠から宮川に沿つて高山市に入り、ついで神原峠を越えて神岡町を経由し、高原川・神通川に沿つて富山平野にいたつている。このように濃尾・高山の各平野部分を除けばほとんど川岸沿いの路線で両岸の山は深く地形は急峻である。

以上のような地形的立地条件にもかかわらず往時より飛騨地方における重要な交通路になつており、国鉄高山線が開通をみるまではこの路線のみが、中部山岳地帯を通り抜けて北陸と東海地方を連絡していたのであつた。

この路線の勢力圏を考えると、東海地方にはわが国四大工業地帯の一つである名古屋市を中心とした伊勢湾臨海工業地帯があり、近代的な重化学工業地帯として発展している。一方名古屋港・四日市港を擁して国内外との貿易通商も盛んである。北陸地方には富山港・伏木港・土屋港などがあり、裏日本の工業・交通の一大要点になつている。また、この路線の通過する中部山岳地帯は、わが国屈指の水力包蔵地帯であり神岡町附近・加茂・可児地方の鉱産物、さらに沿線一帯の林産物資源もわが国産業活動に大きな役割を果している。

(2) この路線は表日本と裏日本を結ぶ動脈として沿線の市町村の産業・経済・文化の上で大きな役割を担つているが、同時に観光ルートとしても重要な意味を持つようになつた。沿線には日本ライン・飛水峡・中山七里等といつた景勝地、温泉の町下呂・小京都と呼ばれる高山市といつた観光地を擁し、その背後には平湯・白骨といつた温泉地、上高地・乗鞍岳・穂高岳といつた中部山岳国立公園を控え、四季を通じて観光客の絶えるときがない。

(二)  改良工事の経過

(1) 一般国道四一号の本件事故現場附近は明治二五年以来郡道「白川街道」であつたものを、大正九年四月一日岐阜県道金山・太田線ならびに岐阜県道付知・太田線の一部重複区間として岐阜県知事の路線認定をうけ、ついで昭和二八年五月一八日道路法旧六条(現在削除)昭和二八年政令九六号により二級国道一五五号に、ついで昭和三三年九月三〇日道路法五条昭和二七年政令四七七号により一級国道四一号に指定され、昭和三四年から第二次道路整備五ケ年計画により建設省直轄で全面的に改良工事が実施されることになつた。

(2) 昭和三四年から同三七年にかけての建設省における調査経過等の概略は次のとおりである。

ア、昭和三四年

国道四一号全線の経済調査完了

全線の航空写真撮影完了

美濃加茂市内(一六工区)実測線調査完了

中川辺―七宗村樫原間(一七―一八工区)計画線調査完了

出合橋附近の実測線調査完了

イ、昭和三五年

全線航空写真図化完了

中川辺―七宗村飯高間実測線調査完了

重要構造物七宗村橋の調査完了

七宗村樫原―加茂・益田郡界の計画線調査完了

ウ、昭和三六年

道路整備五ケ年計画改訂

七曲り峠の計画線調査

七宗村樫原―加茂・益田郡界の実測線調査完了

エ、昭和三七年

白川出張所設置(本格的な工事着手)

七曲り峠実測線調査完了

同地質調査

大利橋・鷲原橋等の重要構造物調査

昭和三六年には前記のとおり第三次道路整備五ケ年計画が決定され、計画の重点を産業基盤の強化におき、このため国道を縦断し、横断し、または循環するわが国の大幹線網の整備、大都市およびその周辺における重要交通区間の交通緩和ならびに地方産業の発展を促進する地方的幹線の整備を計る等の基本方針が決定され、一般国道四一号も昭和四〇年度までに全面改良舗装を完成することに決められた。

(3) 昭和三八年五月建設省による本格的な改良工事がはじまつた。同省中部地方建設局岐阜国道工事事務所の改良担当域は名古屋―富山間244.4キロメートルの内美濃加茂市神明から加茂郡と益田郡界、白川町村君までの41.3キロメートルで、同年三月現在愛知・岐阜県境犬山橋から鵜沼町東町までの約一キロメートルはすでに改良舗装され、鵜沼町東町から美濃加茂市神明までの約一〇キロメートルは一般国道二一号との共用区間であり、すでに改良舗装(車道幅員7.5メートル)を完了していた。そして同管内における改良進捗状況は同月現在道路延長の点からいえば三五パーセント、未改良区間の大部分は飛騨川の川岸ぞいのため幅員は3.5ないし四メートル、屈曲部が多いため平均走行速度は時速二〇ないし二五キロメートルであつた。

未改良区間は次の通りの工事区間に分けられた。

ア、一七工区 川辺町中川辺―川辺町御座野間3.8キロメートル

イ、一八工区 川辺町御座野―七宗村樫原間5.3キロメートル

ウ、一九工区 七宗村樫原―七宗村大柿間8.4キロメートル

エ、二〇工区 七宗村大柿―白川町勘八間5.8キロメートル

オ、二一工区 白川町勘八―白川町出合間6.3キロメートル

カ、二二工区 白川町出合―白川町村君間5.3キロメートル

そして道路構造は、美濃加茂―七宗村樫原までは旧道路構造令(昭和三三年政令第二四四号)第二種平地部の規格に、七宗村樫原―加茂・益田郡界までは同令第二種山地部の規格にそれぞれ合うように設計施行され、特に山地部を適用される一九工区―二二工区は前記のように急峻な山岳と蛇行した河川に狭まれているため、原則として旧道を拡幅する方法がとられた。

(4) また昭和三八年五月以後の改良工事において岐阜国道工事事務所が重要な難所として比較検討した三つの箇所は次のとおりである。

ア、七曲峠地区(七二―七三km附近)

この地区は標高二六〇メートルの峠で、旧道は白川町大利側からヘヤピン七曲七個を数え標高差約八〇メートルの峠に達し、飛騨川に浸蝕された古生層チャート珪質砂岩、石英粗面岩等の断崖絶壁上を蛇行し、河川堆積丘陵地帯の白川町坂東に達する延長約三、〇〇〇メートルである。昭和三六年度において同事務所において次の各ルートについて調査検討が行われた。

Aルート 大利―鷲原―坂東、飛騨川廻り案

Bルート 旧道一部拡幅案

Cルート 旧道ヘヤピン拡幅案

Dルート 大利トンネル案

この四ルートの内A、B、Dについては一〇〇メートルごとを原則とした縦横断測量を実施し、Cについては五、〇〇〇分の一地形図および航空写真を基にした図上設計が行われその検討結果は次のとおりであつた。

Aルート

本ルートは飛騨川ぞいの河川堆積地帯を通るルートであつて、延長約三、一〇〇メートルの内、その大部分が丘陵地帯である。

距離がDルートに比して一、三〇〇メートル長くなつたことを最大の欠点とするが、工費が一億二、四〇〇万円安くなり、旧道路構造令規格の特例を用いることがなく、平面線形・縦断線形等最も秀れた路線ルートである。また工事施行が最も容易であり旧道交通を止めることなく施工ができる。このほか観光的価値を高めることができ、鷲原地区から産出される林産物(旧道では索道で搬出している。)運搬に国道を利用することができる等の長所を有する。

B・Cルート

このルートは旧道を拡幅するもので、Bルートについては大利部落から山側の崖錐地帯を通つてヘヤピン一ケ所にて頂上に達するルートとし、Cルートは旧道のヘヤピン箇所においてヘヤピン三ケ所にて頂上に達するルートである。

延長は他ルートに比してやや長く、縦断勾配六パーセントの区間がBルート二、一六〇メートル、Cルート一、三二〇メートルあり、調査区間の二分の一以上が六パーセントの勾配である。しかし、他方、曲線半径六メートル以下の部分があり、路線線形の悪いことが最大の欠点である。その他地質的に災害を起しやすい道路構造となり工事の大部分が土工工事であるのにかかわらず岐阜方・高山方の二ケ所のみしか施行着手することができないので、全面交通止を長期(約一ケ年半)にわたつて行う必要がある等の欠点を有する。工費はBルートがAルートより一、九〇〇万円余安くなる。

Dルート

本ルートは大利から直接約八三〇メートルの隧道を抜いて坂東に達するもので、距離的には一番短いルートである。隧道予定路線には三ケ所余りの断層が走り、また高山方坑門口附近に湧水等も予想される。

本ルートは距離が他案に比し最も短くなることが最大の長所であるが、工費がAルートに比べて一億二、四〇〇万円高くなることが最大の欠点である。また、八三〇メートルにわたる隧道は将来の維持管理費を要し現状のような混合交通であれば自動車走行上よくないと思われ、観光的価値を全く無くすることになる。そのほか破砕帯・断層・湧水等に遭遇し工事施行中地すべり等の思わぬ災害を引き起す未知の要素を多く含む。

以上検討の結果Aルート案が採用された。

イ、平山トンネル(65.5km近)

旧平山トンネルは白川町新道より飛騨川に沿つて約一キロメートル南部に位置する。現地は急崖をなして川にのぞんでいるため、旧国道も急崖部を長さ約七〇メートルのトンネルで通過していた。附近の地質は主として古生層に属するチャートおよび珪質粘板岩からなり一部うすい岩屑層がおおつている。一般に古生層は北西―南東ないし北北西―南南東の走向を有し(トンネル予定線とほぼ直交する)南に二〇ないし六〇度の傾斜をしめしている。断層は旧トンネルの北側口附近に数本みられ、地層の走向傾斜とほぼ平行または多少斜交する。そこで次の三案が検討せられた。

A、旧路線沿いに幅員1.0―6.5―1.0メートルの道路を作る(切取案)

B、ほぼ直線に結んだ新線で6.5メートルの車道幅員を有する長さ八八メートルの隧道を作る(トンネル案)

C、旧トンネル附近の開鑿、新トンネル堀削とそれぞれ一車線ずつ3.5メートル車道幅員を設ける(二車線案)

以上三案について比較検討されたが、切取案は工費的に極端に安価であるが線形その他はトンネル案に比して良いとは言えないし、また旧トンネルの上を切開くのであるから交通止が長期になる欠点を有するし、トンネル案は線形は非常によいが工費が高く白川町側の坑内施行が断層帯に遭遇し力学的および工法的に疑問点を残し、また同坑門口を施工するために切取案に比しては短期間ではあるが交通止をせざるを得ず、二車道案は線形も悪く工費も最も高いということで結局A案の切取案が採用された。なおその際の法面勾配は1対0.3とされた。

ウ、欧穴箇所(七宗トンネル、56.3km附近)

ここは飛騨川沿いに位置し、七宗橋の東北約1.5キロメートルの地点で、附近一帯はロックガーデンや欧穴があり、急峻で急崖の多い地形となつている。飛騨川は山地を深くきざみ込み、旧国道は急崖を切り取り、絶壁をぬつて通じている。山形は飛騨川に向つて左岸よりほぼ三角形に張り出した尾根で旧国道の標高は一二〇―一三〇メートル、尾根部の標高は二〇〇―二五〇メートルに達している。

昭和三六年の立案ではこの地区に約二〇〇メートルの曲線トンネルを堀削して改良する方法と旧道拡幅の二案について比較検討され、両案とも工費的にはほとんど同じであり、トンネル案が線形的に非常によいし交通止その他の期間も短いのでトンネルを堀削することに方針が決定された。そこで同事務所はトンネル施行を目的としてこの附近一帯の地質概査・弾性波探査等を株式会社応用地質調査事務所をして行わしめ、またパシフィック・コンサルタンツ株式会社をしてトンネルの計画と細部設計を行わしめた。

本地域の地質は、チャート・粘板岩・砂岩からなる基盤岩(古生代)とこれを覆う新生代の段丘堆積層・岩屑堆積層からなつている。基盤岩の各層は、北東―南西の走向で、南に八五ないし九〇度の急傾斜をなす一見単斜構造であるが、微褶曲断層等によつて北傾斜を示す部分もみられ、構造は複雑である。断層も地層とほぼ同様の走向・傾斜を示すものが多く粘板岩層に伴うものが多い。即ち、粘板岩層はチャート・砂岩に比して圧砕に対する抵抗力が弱いため断層は粘板岩の分布する箇所に集中する傾向がある。これに対しチャート中の断層は、亀裂状のものが多く、破砕・粘土化を伴わないものが多い。以上の事実が調査の結果判明した。

そしてトンネルの計画・設計の結果、トンネル施行が思わぬ増工をきたすのと交通止もさけえないとの結論を得たので同事務所では旧道拡幅案が再考され、山側を全面的に切取り一部トンネル(長さ四〇メートル程度)を堀削して改良拡幅する案と、川側へ重力式コンクリート擁壁を施して改良拡幅する案とが現場にて踏査検討された結果、山側切取りおよび一部トンネル案は線形が好ましくなくまた長期にわたつて交通止をせざるをえないため採用されず、結局橋梁も用いず擁壁工法のみの拡幅施行方法が採用されることになつた。

(5) 前記建設大臣の直轄改良工事によつて昭和三九年二月には拡幅工事が終り、国道四一号は道路の幅員が美濃加茂市内一一メートル、川辺町下川辺―七宗村樫原9.5メートル、七宗村樫原―加茂・益田郡界8.5メートルに拡がり、設計速度ではあるが、美濃加茂市―七宗村樫原間時速七〇キロメートル、七宗村樫原―加茂・益田郡界間時速五〇キロメートルの走行が可能となり(従前は川辺町中川辺―白川町村君間幅員3.5―4.0メートル、平均速行速度時速二〇―二五キロメートル)、昭和四〇年一一月路面の舗装工事完成により従来と全く面目を一新した。

(6) 国道四一号は工事進捗に伴い工事の完成した区間は逐次道路法一三条による建設大臣の指定区間の指定を受け、岐阜県から国に管理が移つていつた。本件事故現場を含む区間も昭和四〇年五月二七日建設大臣の「指定区間」に指定され、以後建設省が直接管理することとなつた。本件事故当時には国道四一号全域が右区間に指定され、建設大臣が管理を行つており、その具体的担当官署は中部地方建設局岐阜国道工事事務所、その下部機関である美濃加茂国道維持出張所および金山町所在の出張所現場監督員詰所(通称「金山工区」)であつた。

(三)  交通量

国道四一号の主要地点における一日あたりの交通は左表のとおり推移し、著しい交通量の伸びを示している。

地点

愛知県小牧市

小牧南

岐阜県益田郡

金山町

岐阜県益田郡

荻原町

昭和年

二八

三九九

一〇九

三六一

三三

四、七四七

二四一

二九二

三七

一二、九四〇

四四二

五八二

四〇

一二、八八二

一、二七九

一、七三八

四一

一四、八五八

二、三一七

二、九六四

四二

二〇、六八八

二、七三九

三、三五三

四三

二二、七二六

二、四八八

四、四八三

四四

二三、五九四

四、四五二

五、四四六

四五

三五、一二〇

五、四七六

六、五六九

益田郡金山町(84.5km附近)における交通量をみても明らかなとおり、昭和三七年に四四二台であつたところ、昭和四三年にはその約六倍の二、四八八台に、昭和四五年にはその約一三倍の五、四七六台と飛躍的に増加している。

さらに、本件国道とほぼ並行して走つている国道高山線の利用状況と比較してみると次のとおりである。

昭和年

四〇

四一

四二

乗鞍岳への旅客

国鉄利用(万人)

25.0

27.0

28.0

バス等利用(万人)

7.3

9.1

18.0

下呂方面への観光客

国鉄利用(万人)

41.3

42.0

46.0

バス等利用(万人)

18.8

21.2

25.9

このようにバス等の利用者が国鉄高山線利用者に比較して年を追つて急激に増加している。

2、本件国道を取り巻く自然条件

(一)  地形・地質

(1) 地形

ア、国道四一号は、濃尾平野・富山平野・高山盆地を除けば、大半は川に沿い、路肩には急傾斜の山腹や岩壁が迫つている。

岐阜国道工事事務所管内では、美濃加茂市より飛騨川に沿うことになるが、七宗橋(54.1km地点)以北はすべて右の如き山岳道路(旧道路構造令にいう第二種山地部)である。

ことに本件事故現場を含む七宗橋と飛泉橋(66.7km地点)との間の飛騨川約一二キロメートルは飛水峡といわれ深く浸蝕された河床で知られているが、道路は蛇行する飛騨川に沿つて急峻な山岳のふもとを縫うように走つている。この区間を含む七宗村樫原―加茂・益田郡界間約二六キロメートルでは拡幅にあたつては、旧道拡幅を原則とし、まずできるだけ山側へ切込み旧道(幅員3.5―4.0メートル)と合せて6.5メートルの暫定幅員を確保しておいてそれから川側に拡幅して8.5メートルの所定幅員を完成するという方法がとられた(甲第四一号証三二頁)。

イ、本件事故後の第一回検証時(昭和四五年六月二日)における本件沢の状況は次のとおりである。

本件沢は、中部電力株式会社上麻生発電所下山堰堤から国道沿いに南へ約三三〇メートルの国道東側に位置し、標高716.5メートルの河岐山に至る尾根附近から発し、ほぼ東西に下つて飛騨川に至つている。

右沢は両岸を峻嶺におおわれ、深い谷状を呈し、傾斜約三〇度の急勾配となつている。沢の河床には、土砂・岩石が堆積し、その岩石の間を水が流れ落ちている。

この沢には、落石ならびに土石流を防止するため、別紙8の検証図のとおり、国道寄りから上部に向つて一二箇所に堰堤が、さらに六箇所に石垣が設置されている(以下、国道寄りから上部に向つて右堰堤を第一堰堤ないし第一二堰堤、右石垣を第一石垣ないし第六石垣と略称する)。右堰堤および石垣は、本件事故後である昭和四四年二月頃設置されたものである。

この沢と国道が出合う地点の国道下には、直径1.25メートルのヒューム管が埋設され、そのヒューム管をくぐつて沢の水が飛騨川へ流れ落ちている。国道の標高は約一四〇メートルである。

沢口の広さは、沢と国道とが出会う部分で11.6メートルであるが、第二堰堤から第三堰堤の間では両岸の黒褐色の岩石が切りたち狭まり一番狭い所で2.6メートルである。

第四堰堤の西寄り右岸のコンクリートブロック積み擁壁上部は表土が削り取られており、その跡に白つぽい大小さまざまの岩石が露出しており、これらの岩石は濃飛流紋岩類である(第一回検証調書第二見取図イ点、第三写真綴(4)(5)の写真)。

第五五堰堤の西寄り左岸ではかなり大きな岩石が露出し、上部には白つぼい岩石が積み重なり、その下部は黒褐色の岩石が積み重なつている。上部が濃飛流紋岩類で、その下部が古生層粘板岩である(第一回検証調書第二見取図ハ点、第四写真綴(8)の写真)。第七堰堤の西寄り右岸には河床から上部に向つて直径約一メートル前後の白つぽい岩石が積み重つており、これらは濃飛流紋岩類が堆積した崖錐様堆積物である(第一回検証調書第二見取図ヌ点、第五写真綴(4)の写真)。

第八堰堤から右岸の山林へ入つたところでは直径約0.5メートルないし一メートル前後の白つぽい岩石が山の斜面にかなり広範囲にわたつて積み重つており、これらも濃飛流紋岩類の崖様錐積物である(第一回検証調書第二見取図ニ点、第七写真綴(4)(5)の写真)。

第一一堰堤と第一二堰堤間の左岸は尾根の稜線のやや下あたりから沢に向つて約一二〇メートル表土が削り取られており、沢の附近には白つぽいあるいは黒褐色の多数の岩石が土砂とともに堆積し、そのやや上部から崩壊起点にかけては、表土の間から白つぽい岩盤が一面に露出しており、本件事故当日崩壊した箇所の一つと認められる。右崩壊起点の標高は約三八〇メートルであり、崩壊箇所の傾斜は約四〇度である(第一一写真綴(2)(3)(6)の写真)。

第二石垣の東寄り左岸は、南東尾根のやや下附近から沢に向つて幅員約一〇メートル、長さ約一三七メートルにわたつて表土が削り取られており本件事故当日のいま一つの崩壊地点と認められる。その箇所には四箇所に石垣(第三石垣ないし第六石垣)が設置され、表土から多量の白つぽい岩石が露出し、とくに第四石垣と第五石垣との間には長径約三五メートル短径約一二メートルの、および右崩壊起点附近には長径約二〇メートル短径約五メートルの白つぽい岩盤が露出している(第一回検証調書第二見取図B点、第一三写真綴(1)ないし(6)の写真、第一四写真綴(1)ないし(8)の写真)。

右崩壊起点の標高は約四九〇メートル、第二石垣から右崩壊起点を見通した傾斜は約三六度、前記二つの岩盤の傾斜はいずれも約四〇度である。

沢の本流は第二石垣から東方の尾根に向つて延びており、幅約四メートルで両岸は雑木が生い茂り、表土が削り取られた跡は見あたらず、河床には直径一メートル前後の岩石が多数堆積しているが、土砂の堆積は見あたらない。右地点から沢の上流を見通した傾斜は約三〇度である(第一回検証調書第二見取図A点、第一三写真綴(7)(9)の写真)。

(2) 本件沢附近を含む飛騨川上流地域の地質

ア、飛騨川上流地域(白川町河岐―飛騨金山)にはチャート・砂岩・粘板岩からなる古生層が広く発達分布し、その基盤の上に濃飛流紋岩類が堆積している。

濃飛流紋岩類は、東濃から飛騨地方へかけて広大に分布する白亜紀火山岩類(複合岩体)の総称としてよばれ、岐阜県の三分の一以上の面積を占めて露出し、北北西―南南東に伸長して北方では富山県庄川流域へつづき、南方では長野県木曾郡および下伊那郡下へつづいている。そして、塊状無層理の流紋岩質溶結凝灰岩を主体として構成され、しばしば砂岩・泥岩。凝灰岩・礫岩などからなる陸水成層(飛騨川流域では、古生層に由来する崖錐角礫岩「白川口層」)を狭有する。花崗斑岩類の岩株ないし岩脈状逆入岩類を密接にともなう。

飛騨川流域は濃飛流紋岩類分布地域の西縁部にあたり、こでは水底に堆積した凝灰岩層((宇津尾層)を基準として、それより上位の白川流紋岩類と下位の飛騨川流紋岩類とに大別される。

岩層の層厚は平均して二、〇〇〇メートル前後あるいはそれ以上と推定され、この岩類の両側に分布する古生層とはほとんどの場合断層関係で接触している。

本件沢附近の古生層は今から約三億五、〇〇〇万年前ころに形成され、濃飛流紋岩類は今から約一億五、〇〇〇万年から六、〇〇〇〇万年前の間に形成されたものと推定されている。流紋岩類の中でも後記の流紋岩類の形成史から見られるように前記の白川流紋岩類は最も新しい岩層である。

イ、岐阜県地質鉱産図(甲第三七号証の一、二)作成にあたり調査・研究資料の提供・編集に協力した通産省地質調査所の河田清雄によれば、この地域における濃飛流流紋岩類の形成史は次のとおりである(甲第四七号証)。

a。流紋岩類西縁部の基盤古生層に著しい断層破砕帯が生じた(“先・濃飛”の断層破砕帯)。

b、西縁部の断層破砕帯に石英閃緑岩が貫入した(“先・濃飛”の火成活動)。

金山町東方と白川町河岐で、古生層中に貫入している石英閃緑岩は岩体周辺の古生層に対して明瞭な熱変成作用をあたえている。本岩中の黒雲母のk-Ar年代は97×106をしめしている。

c、西縁部の断層運動によつて陥没した古生層のくぼみに凝灰質砂岩、頁岩などの砕屑岩(足谷層)が堆積した。

この時期に、流紋岩類の初期噴出活動がはじまつた。

d、大規模な火砕流の噴出と、おそらくそれに伴つた火山構造性大陥没運動のくり返しにより、厚い堆積物が形成された(飛騨川流紋岩類)。

e、火山活動の静穏期に入り、降下火山灰が水中で堆積した(宇津尾凝灰岩層)。

f、火山砕屑岩類と火砕流堆積物がくり返し堆積した(白川流紋岩類)。

古生層との境界部では、断層活動はこの時期にもひきつづいて生じ、断層運動による破砕生成物である特異な角礫岩(白川口層)を堆積させた。

g、花崗斑岩の岩脈が古生層と流紋岩類中に貫入した(“後・濃飛”の火成活動)。

流紋岩類噴出後の火成活動は、この地域では花崗斑岩の岩脈への貫入である。岩脈の多くは古生層と流紋岩類の境界部にみられる。

ウ、岐阜県地質鉱産図(甲第三七号証の一、二)および河田清雄(甲第四七号証)によれば、白川口附近に直交する二本の断層があり、また鷲原―新津―飛騨金山方向に、濃飛流紋岩類の西縁部に沿い一万五、〇〇〇分の一の図面にのる程度の規模の断層が存在することが認められるが、右図面上には本件事故現場附近には断層の存在は認められない。

しかし一万五、〇〇〇分の一の図面にのるような断層でなくても、規模の小さい断層は本件国道拡幅工事前の調査によつても、七曲り峠地区の隧道予定路線に三箇所、平山トンネルの白川町側に一箇所その存在が認められている。

エ、また地質は形成の古いものほど堅く、地質形成年代の前後により一般には古生層よりも相対的に濃飛流紋岩類の方が早く浸蝕されやすい。本件沢附近の古生層のみについていえば古生層を構成している粘板岩類は他の地域の同じ時代に形成されたものと比較して浸蝕に対する抵抗が決して弱いものとはいえない。

(3) 本件沢附近の地質

ア、本件沢附近は前記の飛騨川上流地域の南端にあたる。本件沢附近では古生層の基盤の上に白川流紋岩類が堆積している。

本件沢附近の飛騨川右岸(対岸)は古生層であり、飛騨川左岸は山の斜面の上部は濃飛流紋岩類、下部が古生層である。

本件沢の第一および第二堰堤附近には古生層(粘板岩)が露出しており、本件沢の第五堰堤の西寄り左岸には前記のとおり古生層と濃飛流紋岩類の接触部が露出しており、第九堰堤の上下では地質が異なり、上方は濃飛流紋岩類、下方は古生層で、第九堰堤直下のほぼ垂直方向の断層で両層が接しており、しかも上方の流紋岩類の下位には前記のとおり基盤をなしている古生層が存在する。第一〇堰堤附近には石英斑岩(花崗斑岩類)が濃飛流紋岩類に貫入して地表に露出している。飛騨川対岸(右岸)にも古生層に貫入している石英斑岩が露出している(第一回検証調書第一写真綴(9)の写真)。

本件沢から国道沿いに南へ約一一〇メートルの国道東側の64.17Km地点の崩落(第一回検証調書第一見取図リ点、第一写真綴(1)(2)(3)の写真)附近も同じく古生層(粘板岩)であり、その最上部に濃飛流紋岩類が堆積している。

イ、原告らは本件沢の下流はそれ自体一つの断層であり、a第四堰堤西寄りの左岸(第一回検証調書第二見取図ロ点、第三写真綴(1)の写真)に沢方向に走る断層、b第一〇堰堤と第一一堰堤の中間の右岸(第一回検証調書第二見取図カ点、第九写真綴(2)の写真)に北西方向に走る断層、c本件沢の崩壊起点に近い第四石垣と第五石垣との間に露出した岩盤(第一四写真綴(4)の写真)の附近に断層がそれぞれ認められると主張するので検討する。

岐阜大学教育学部地質学科教官(同学部助手)で本件沢に地質調査のため昭和三五年とそれ以前に各一回、本件事故後も三回ほど登つたことのある証人河井政治の証言によれば「この沢そのものが私は断層と考えております。」「阿寺断層に直交していくつもはいつている。その断層の中でこの沢にもその一部分の断層が同じ方向にはいつてきているという解釈はできます。」原告ら主張のa点に関し、「多分これは逆断層ではないかと、ずり上がつた断層じやないかと……、もし堰堤が南北に作られているとするならば、この地層の断層の方向は東西に走つているというふうに考えられます。」同b点に関し「やはりそこは断層と考えられますか―はい。ポールのラインが断層というわけじやなくして、そのポールを右のほうへ行きますと、そこで大きく割れ目が生じております。その割れ目を今度は左上のほうへながめていきますと、またそこに岩盤が出ておりまして、その岩盤が上の白つぽいところと下とくい違つております。そういう一つの断層の面と、それからもう一つはその地層のいわゆる節理の面がここで下側は明らかにこれは縦に走つております。それに対して上盤は横の板状になつております。こういうところに一つの断層のくい違い、いわゆる地層がずれておると、こういう一つの証明の材料になりまます。」同c点に関し、この岩盤そのものは私たちのことばで申しますと鏡肌……、当日見て参りましたときはそれほど光つてはおりませんでしたけれども、まあそれに近いような、そういうすべり面を持つている岩盤であつたというふうに私は考えております。」と証言している。この証言によれば本件沢そのものが断層であり、a、b、c点すべてに断層が現われていると認められそうである。しかしながら、京都大学理学部地質学鉱物学助手で本件沢に地質調査のため本件事故後である昭和四七年九月二〇日頃登つたことのある証人野上裕生の証言によれば、まず本件沢自体については「沢の入口の第一堰堤附近では断層粘土および角礫の幅が約一メートル二〇ほどありました。それが上流に曲がつていきますと、急激に薄くなり、第三堰堤の附近では大体五〇センチメートルぐらいに減少しております。この附近で断層が二つに分かれまして、一方のほうは上流に曲がつて左側の山のほうに延びていつておるようです。しかしそれは追跡していつておりません。もう一方のほうはその沢沿いに延びております。そして第八堰堤の附近まで絶え絶えながら追跡できます。その第三堰堤から第八堰堤の中間では断層粘土および角礫の幅は大体三〇から五〇センチメートル程度のものです。第八堰堤の附近でさらにこれが枝分れをしております。そして一本のほうは上流に向かつて右側の傾斜地のほうに延びていつております。一本のほうは谷沿いに第九堰堤まで延びております。そこの間の断層角礫および粘土の幅は大体二〇センチメートル程度のものです。この断層が第九堰堤の直下で古生層と流紋岩の境を成しておるほぼ垂直の断層で切られております。そしてさらにその延長を流紋岩類の分布しておる地域に探しましたが、求めることはできません。今述べました断層は角礫とか、あるいは粘土がかつてできたのでありますが、その後の長い時間的な経過を経るうちに再び堅くなりまして、ハンマーでたたきましてはね返るぐらいの音がしておる状態であります。それからもう一つ、この断層粘土の中の一部に石英の脈が貫ぬいておるのが観察されます。石英の脈は断層によつて変動を受けておりませんので、断層ができてから貫入したものと考えられます。こういう事実から見ますと、この断層のできた時代はかなり古く、流紋岩類ができた時代よりも古いかほぼ同時代のものと考えられます。具体的に言えば、流紋岩ができた約一億年前のころ生じたものではないかと推定されます。」、そして本件沢の断層と阿寺断層との関連性については、「本件沢の断層は古生層を切るのであつて流紋岩は切つてないように観察されます。したがつて非常に古い時代のものであります。一方阿寺断層は現在もなお活動しておるような新しい断層でして、破砕帯が非常に浸蝕されやすいので谷ができておる、その谷が一直線に長く延びておる地形にもはつきり現われた断層です。そういう新しい断層と一億年も前にできた古い断層が直接の関係があるとはとうてい思われません。」と述べており、a点に関しては「断層ではなくて節理であります。こと断層とするなれば、断層の面に沿いまして鏡肌とか滑りとかあるいは断層粘土・断層角礫、極端な場合にはミロニットという破砕帯などが見られます。またそうでなくても緑泥石化という現象が観察されるわけです。ところが、この現象ではそういう現象が何も見られませんので私は節理と判断いたしました。」、b点に関し、「この場合も私は断層ではなくて節理であると思います。その理由は先ほど述べましたように断層に伴なういろいろな現象がここでは観察されないからであります。」、c点に関し「私はこれも断層ではなくて節理とみております。この露頭の一部に断層粘土の幅が五―一〇センチメートル程度の小さな規模の断層が一本観察できました。しかし、この全体を滑り面とするのは私の見解に反します。ですからこの岩盤の上にのつていた残留土が流れ去つたときに造つた擦痕だと思います。」と述べている。

このように、本件沢の断層の存在箇所につき地質学者の見解が分れているのであるが、右両学者の見解の一致している第九堰堤下に沢に沿つて断層があることは少くとも認めることができる。そして第九堰堤の上流にも沢に沿う断層がある旨の証人河井政治の証言と前記証人野上裕生の本件沢に沿う断層が第九堰堤の直下で古生層と流紋岩の境を成しているほぼ垂直の断層で切られている旨の証言とを比較してみると前記認定の河田清雄の濃飛流紋岩類の形成史におけるa流紋岩類西縁部の基盤古生層に著しい断層破砕帯が生じたことおよび前記認定の濃飛流紋岩類はその両側に分布する古生層とはほとんどの場合断層関係で接触していること等に照し、本件沢に沿う断層は第九堰堤の直下で古生層と流紋岩類の境を成しているほぼ垂直の断層で切られているとする野上証言の方が合理性の点において勝るものがあると考えられる。

そして右第九堰堤下の断層の幅は前記野上証言により沢の入口附近で1.2メートル、第三堰堤附近で約五〇センチメートル、第八堰堤まで約三〇ないし五〇センチメートル、第九堰堤まで約二〇センチメートルであり、断層部分の堅さは流紋岩類ができた約一億年前ころ生じた断層であること、再堅化してハンマーでたたいてもはね返るほどであることおよび地質の堅さはその形成年代により古いいものほど堅いこと等を綜合すれば結局流紋岩類と同程度の堅さであると認めるのが相当である。

また、飛騨川の対岸の山林には屋根の鞍部になつているところから飛騨川へ向つて真直に延びる浅い沢状に見受けられる箇所(第一回検証調書第一写真綴(10)の写真)があるが、これはいわゆる推定断層であるということができる。

六四・一七地点の崩落(第一回検証調書第一見取図リ点)部分には一部に五センチメートル幅の断層が一、二本あり、また本件沢から国道沿いに北へ約一二〇メートルの国道東側の沢(第一回検証調書第一見取図ト点、第一写真綴(7)の写真)部分にも断層が認められる。

このように本件沢附近にもいくつかの断層が存在していることが認められるが、証人野上裕生の証言によれば、本件沢およびその周辺に分布している断層は日本の古生層で構成されている地域の平均的な数に比較して決して多いとはいえないものと認められる。

ウ、本件沢には本件事故前、主として濃飛流紋岩類よりなる多量の崖錐様堆積物が存在していた。それは沢の上方および側方の山の斜面より重力の作用により落下してきたものや沢の上流より水に運ばれて堆積したものであるが、沢の断面がV字型の部分には三〇―五〇センチメートル、広いU字型の部分では1.5―2メートルぐらい堆積していた(証人河井政治の証言)と認められる。この点は、証人野上裕生の沢の「V字型をしておる部分では、三〇から五〇センチメートルの土砂があつて、広い谷の部分では、部分的に二メートルを越す土砂がたまつておつたとみられるかと思います。」との証言、京都大学農学部林学教室助教授で砂防工学を研究している証人武居有恒の「土石流が起つたこと自体から推定して深さ一ないし二メートルの土石があつた」旨の証言によつても前記の程度の土石の堆積はあつたと認められる。そしてこれらの土石は事故当日その大部分が流出したと推認されるが、事故後においても残つている沢の側方の崖錐様堆積物(前記認定の第七堰堤西寄り右岸第一回検証調書第二見取図ヌ点、第五写真綴(4)の写真、同第八堰堤右岸の山林第一回検証調書第二見取図ニ点、第七写真綴(4)(5)の写真)、表土が削り取られた箇所(第八堰堤と第九堰堤の中間からやゝ第九堰堤寄り左岸に露出しているかなり大きな岩石でその岩石の上部は黒褐色になつており、河床に近づくにつれて水苔のようなものがかなり付着しているが、河床から約0.5メートルのところから下部は白つぽく水苔様付着物は認められないことから河床から0.5メートルの部分には土石が堆積していたものと推認できる。第一回検証調書第二見取図ホ点、第七写真綴(2)の写真、第九堰堤東寄り左岸の表土が削り取られている箇所、同第二見取図ヲ点、第八写真綴(3)の写真、第九堰堤と第一〇堰堤のほぼ中間の右岸で表土が削り取られている箇所同見取図ワ点、同写真)等から当時の土砂の堆積状況を窺うことができる。

第一一堰堤と第一二堰堤間の左岸(第一一写真綴(2)(3)(6)の写真)は表土が削り取られた跡があり、事故当日崩壊したものと認められるが、この部分にも崖錐ないし表土が堆積していたと推認され、事故後第一回検証時においても右部分に堆積している土砂や岩石は不安定でその箇所を登り降りするときは土砂が多量にずり落ちる状態であつた。

崩壊起点(第一四写真綴(1)ないし(7)の写真)附近にある大きな岩盤が鏡肌か否かについては前記のように学者の間でも見解の対立があるが、その附近には二メートルには達しないまでもある程度の厚さの岩あるいは岩盤が風化作用で生じた水を通しやすい状態になつている残留土が堆積していたと推認される。

(二)  気象

(1) 本件事故現場附近は、飛騨山脈を中心とする中部山岳地帯と濃尾平野とのほぼ中間に位置し、東濃山間部と呼ばれる。

ア、この地域は我が国で年間を通じて比較的降雨量の多い地域に属するが、毎年六月から九月の降雨量がその他の月と比較して著しく多い(甲第三九号証二八、二九頁、証人田中政由の証言)。

イ、右期間における降雨は山岳地帯の一般に共通する驟雨性のもので変化が激しく、かつ集中豪雨となつて現われることが多い。

ウ、多量の降雨を見ることの多い地域は、岐阜県では揖斐川上流域、長良川上流域および牧田川上流域で、日降水量一五〇ミリメートル以上の雨が毎年一回以上の割合で見られる。これに較べると東濃山間部はそれ程多くはない。それでも一時間降水量三〇ミリメートル以上の降雨は揖斐川上流地域と同様に東濃山間部でも毎年三回程度の割合であり、一時間降水量五〇ミリメートル以上の降雨も本件事故現場に比較的近い岐阜地方気象台の加茂郡八百津町久田見観測所において左表のとおり昭和三一年から同四二年までの一二年間に四回記載されている(乙第七号証九〇頁)。

起年月日

一時間降水量

(ミリメートル)

昭和三三・八・二六

五五

三四・八・二六

五八

四二・七・九

五三

同・八・二〇

五〇

(観測所・久田見)

(2) 昭和四三年八月一七日朝から一八日朝にかけての岐阜県美濃地方の気象

ア、一六日台風七号は東支那海西部から北に進み始め、夕刻には日本海に入つてそのまま北上を続け、一七日一八時には沿海州北部に上陸した。

台風が日本海の北部に達した一七日朝には日本海沿いに寒冷前線ができ、この頃の中部地方には強い暖湿気流が送り込まれていた。

この湿舌は寒冷前線を刺激し、一七日は朝から雷を伴なつた強い驟雨性の降雨が前線ぞいの琶琵湖北部から岐阜北部方面で始まつた。

この降雨域は前線とともにゆつくり中部地方を南下し、夜になつて飛騨川流域に激しい雨を降らせた。

イ、このときの雨の降り方を強さで分けると次の三つの降雨群に大別することができる。

第一群は一七日早朝から午前中の雨で、岐阜県中部を西から東に移動し、やゝつよ目の雨が降り一七日一二時にほとんど岐阜県外に去つた。

第二群は一七日の午後の雨で、岐阜県の東部で主に降つたが降り方は一般に弱く範囲も狭かつた。

豪雨の本体は第三群の一七日夜から一八日早朝にかけての降雨で、主として飛騨川流域の中濃地帯で激しく降つた。地域的に狭く、短時間に集中した。かつ降雨強度は極めて強く、降雨の中心域では一時間実に一〇〇ミリメートルを越えたところもあつた。また、合流点附近の飛騨川や木曾川の流域では一七日二一時から一八日三時頃までは軒並みに時間雨量三〇ないし五〇ミリメートルぐらいの激しい豪雨であつた。

一七日朝から一八日朝までの約二四時間の雨を集計すると、一〇〇ミリメートル以上降つた区域は広く、揖斐川を除く各河川の流域で降つた。しかし二〇〇ミリメートルの範囲となると急に狭められ飛騨川と付知川の流域の一部で、さらに三〇〇ミリメートルの範囲は極めて狭く、飛騨川が木曾川本流に合流する地点のやや北方地帯(七宗村上麻生附近)の極く一部であつた。本件事故現場附近はこの地帯に包摂される。

一七・一八日における飛騨川流域の降水量(日雨量・時間雨量・連続雨量)は別紙13のとおりである。

3  本件国道改良後の状況

(一)  本件国道上の崩落等

(1) 過去の災害歴

ア、本件国道の改良工事完成後の昭和四一年七月一六日から本件事故前の昭和四三年六月一九日までの約二年間における事務所管内国道四一号上の崩落事例は別紙10の事故前の崩落事例一覧表のとおり八件である。

このうち、昭和四二年七月九日白川町村君地内(79.4Km)の崩落では、北進する二台の自動車に乗つていた人が国道上の崩落土砂に遭遇し、通行可能か否か降りて現場を見に行つたとき突然発生した第二次崩落により四人ぐらいが生き埋めとなり、死者一名・負傷者二名がでている。

右八例中降雨を直接の原因とするものが六例であるが、この六例中でも崩落時に降雨のないものが二例あり、八例中残り二例は小規模(推定土量三〇立方メートル以下)の崩落ではあるが崩落時にも崩落前にも降雨のなかつたものである。

右のうちには、連続雨量三〇ミリメートル以下といつたようにその降雨量が必ずしも多くはないのに一〇〇あるいは四〇〇立方メートルといつた規模の崩落が発生したものもある。

イ、右国道改良工事完成以前においても昭和三八年一一月二八日、国道四一号の柿ケ野隧道(62.4Km)北側入口附近で同所を南進中のトラックに国道東側上方より岩石を含む土砂が落下激突し、同車は破損し、同車の運転手が重傷を負つたことがある。

(2) 本件事故当夜の崩落

本件事故当夜事務所管内国道四一号上で起きた崩落の地点およびその時国道上に堆積した土砂の推定土量は別紙7の図面表示のとおりである。

これによると、七宗橋(54.1Km)から金山町(84.5Km)にかけての間に一九箇所の崩落があり、とくに63.25Km地点と65.9Km地点間約三キロメートルに一四箇所(平均すれば二一四メートルごとに一箇所)の崩落があつたことになる。

(3) 64.17Km地点の崩落

本件バス集団が南進を妨げられた64.17Km地点の土砂崩落は、道路山側の急斜面の岩壁が高さ83.5メートル、幅23.7メートルにわたつて崩れ落ち路面上に約七四〇立方メートルの土砂が堆積したものである。これは長年月の風化と前記のように断層によりもろくなつていた古生層(粘板岩)・濃飛流紋岩類およびこれらからなる表土に、折りからの急激な豪雨による雨水が浸透した結果発生したものと推定される。右崩落は本件バス集団が北上通過した一七日二三時一五分以後に始まり、片山達雄が同地点に到着したときには山側(南行)車線まで土砂がきていたが、川側(北行)車線には大人の頭大の落石が散乱している程度のものであつた。そして本件バス集団が復路南下して同地点に達した一八日〇時四〇分頃には山側(東側)において高さ約二メートル、川側(西側)において約0.5メートル、前後の幅は川側で約二メートルと徐々に崩落が進行し、最終的に路上に堆積した推定土量は七四〇立方メートルとなつたものである。そして右〇時四〇分頃には崩落上を強いて歩いて渡ろうとすれば渡れる状態であつたけれども、崩落が進行しているため流されてくる岩石・流水等によりけがをする危険性は多分にあつた。

(4) 本件沢の土石流

土石流発生前の本件沢には前記のとおり相当多量の崖錐様堆積物が堆積していた。このことは砂防工学に関する学者証人武居有恒も土石流が起つたこと自体から崖錐様堆積物の堆積していた厚さが推定できるというのであり、同証人の証言から、本件沢から流出した推定土石量は三、〇〇〇ないし七、〇〇〇立方メートルと推認できる。そして国道上に堆積していた土石量だけでも約七四〇平方メートルであつた。この土石流が発生した時刻は八月一八日二時一一分頃であつた。

本件土石流は、本件沢の上部すなわち第二石垣の東寄り左岸(その最上部は南東尾根のやゝ下附近の標高約四四〇ないし四九〇メートルの地点―この場所に前記認定のとおり第三ないし第六石垣が現在設置されている―この地点(崩壊起点)の国道からの距離は六〇六メートルないし六九五メートル(別紙8の検証図)である。)に堆積していた傾斜角約三六度の表土(濃飛流紋岩より成る崖錐を含む)が幅約一〇メートルにわたつて沢に向けて崩落し、これとともに、五〇年ないし一〇〇年の年月とその間の風雨を経て沢に堆積しており、降雨のため不安定な状態になつていた大量の崖錐様堆積物が秒速凡そ一〇メートルの速度で一挙に流出したものである。

右右崩壊起点は尾根部分の濃飛流紋岩類が長年の風化作用によつて岩盤上に残留土となつて堆積していたところ、折柄の急激な豪雨により残留土に浸透した雨水が岩盤にさえぎられ飽和状態となつて、この残留土を持ち上げ、この持ち上げられた土砂が岩盤を滑り面として崩落したものである。

右崩壊起点の崩壊と本件土石流の関係については、土石流発生と崩壊の発生とがほぼ同じ時期であつたかも知れないが、崩壊はそれほど大きな土石流発生の要因にはなつていないと推定される(乙第一三号証)。

(二)  防護施設等

(1) 本件事故前の防護施設

ア、建設省の直轄工事で拡幅の完了した昭和三九年二月から本件事故前の昭和四三年七月までに、国道四一号七宗橋(55.1Km)から白川口駅(66.8Km)間に設置された防護施設は別紙9の事故前の防護施設一覧表のとおり種子吹付・植生・モルタル吹付・PNC・ストーンガード・石積擁壁よりなるが、その大半は種子吹付・植生およびモルタル吹付である。即ち、種子吹付は一一箇所延べ一万四、八六四平方メートル、植生は二箇所延べ八二九平方メートル、モルタル吹付は五箇所延べ一万四、一六〇平方メートルに及び、ストーンガードは二箇所延べ一〇〇メートル、石積擁壁は二箇所延べ約六三〇平方メートル、PNCは四箇所延べ四二四平方メートルであつた。

イ、これらの防護施設のうち64.4Km地点(白川町下山)では昭和三九年に種子吹付をしたが、同四二年六月二九日に崩落し、64.2Km地点では同三九年に高さ3.7メートル、幅27.8メートルの石積み擁壁の上にストーンガード・法面の中段にPNC工法(高さ34.2メーートルの位置に高さ2.9メートル、幅6.8メートルのもの一箇所と高さ47.2メートルの位置に二箇所にわたつて施工されているが、同工法は、丸太により傾斜面を固定し、コンクリートにより基礎固めし、その上に階段式に厚さ2.5センチメートルのコンクリート板を積み重ねて土石流を防止するもので、このコンクリート板一枚につき六〇センチメートルの間隔で二本の直径2.5センチメートルのヒューム管によつて水抜きがされているものである―甲第六号証)を施したが、同四三年三月一二日に崩落している。

ウ、右64.2Km地点は前記のとおり同四三年三月崩落後PNC工法にかえてスロープネットを設けていたが、本件事故当夜石垣の約八〇メートルの上部から幅23.7メートルにわたつた64.17Km地点の崩落に対し防護の役を果しえなかつた(甲第六号証)。

エ、本件沢と国道が出合う部分には、国道下一メートルの位置に直径1.25メートルのヒューム管を埋設し、沢端に高さ三〇センチメートル、厚さ二〇センチメートルの駒止め工が施されていた(乙第七号証六一頁、甲第一号証五丁)ほかは沢の中に堰堤等の防護施設はなかつた。

(2) 落石注意標識

本件事故当時、七宗村(五二Km)―白川町(八〇Km)間に「落石注意」の標識(縦約六〇センチメートル、横約二〇センチメートルの自地プレートに黒字で記載)が設置されていた。その位置は別紙6の図面表示のとおりである。

これによると、本件事故現場附近の64.48Kmから65.65Kmの間には四箇所(うち二箇所は前記の平山トンネルのあつた位置)に「落石注意」の標識が設置されているが、本件事故当夜にはこれらの標識のある場所から一〇〇メートル以内で例外なく崩落が発生している。

白川町下油井下油井地内78.5Km地点にも「落石注意」の標識が設置されていたが、事故当夜右地点から五〇メートル内の地点に崩落が発生している。

また56.28Km地点にも「落石注意」の標識が設置されているが、この附近は前記のとおり改築時に欧穴箇所として種々検討された急崖地区である。

(3) 本件事故後の防護施設

ア、本件の事故直後、建設省は「道路の災害による事故防止の強化対策に関する実施要領について」と題する通達(甲第一四号証)により、各地方建設局・北海道開発庁に対し管内の地すべり地区・落石地区・河川の水衝部地区等の危険箇所の総点検を指示した。この結果、事務所管内国道四一号約76.1キロメートル間に五〇ないし六〇の危険箇所が指摘され、主に落石・崩落等の危険箇所であつた(甲第一四号証、第四三号証の五、一〇、証人鈴木靖夫の証言)。

イ、土石流を起した本件沢(64.3Km)については本件事故後前記のとおり頑丈な一二箇所のスクリーン堰堤と六箇所の石垣が設けられた。

この沢の附近の他の沢についても同様にスクリーン堰堤と石垣が設けられた。これらの沢の防護施設の工事は建設省と岐阜県の手で行われた。

またバス集団の南進を阻んだ64.17地点については崩落の危険をはらむ土砂を山側法面から約七〇〇立方メートル取り除いて岩盤を露出させたうえ、いくつもの防護柵が設けられた。

このほか危険箇所については堰堤あるいは石垣の設置・崩落の危険のある土砂の取除き・ネット張り立て・コンクリート吹付等種々の工法を用いて防護施設の強化が実施されてきた(第二回検証調書、証人坂上義次郎の証言)。

五、(本件国道の管理)

<証拠>および弁論の全趣旨を綜合すれば、次の事実を認めることができる。

1、本件国道管理の担当官署

(一)  岐阜国道工事事務所(以下事務所という。)

事務所は、建設省中部地方建設局の下部機関として設置され、本件国道の維持修繕その他の管理を直接担当している。

事務所は、事務所長以下一一三名の職員をもつて一般国道二一号・二二号・四一号、(但し、各務原市鵜沼(38.1Km)から益田郡下呂町東上田(114.2Km)まで76.1キロメートルの区間)、一五六号および二五八号の改築工事および維持修繕その他の管理を行つている。

事務所の組織は、庶務課・用地課・工務課・調査設計課・道路管理および機械課の六課に分れ、道路管理課は牌官理係(係長以下九名)と維持修繕係(係長以下五名)とに分れている(甲第三二号証)。

(二)  美濃加茂国道維持出張所(以下、出張所という。)

維持出張所は後記「道路技術基準」に基き、一般におおむね延長五〇―七〇キロメートルの道路の維持のため設置される。

出張所は、出張所長以下二〇名の職員をもつて一般国道二一号(但し、岐阜県可児郡可児町中恵土から各務原市那加新加納までの27.4キロメートル)および一般国道四一号(但し、右事務所の担当区間と同じ)について維持修繕その他の管理を行なつている。

出張所の組織は所長以下、事務係・技術係・管理係の三係に分れている(甲第三三号証)。

(三)  金山町所在の出張所現場監督員詰所(以下金山工区という)

金山工区は二名の職員をもつて一般国道四一号のうち、岐阜県加茂郡白川町坂東(七八Km)から同県益田郡下呂町東上田までの三六キロメートルの区間について、出張所の指揮を受けて維持修繕その他の管理を行つている。

2  災害態勢と気象情報

(一)  災害態勢

(1) 建設省は災害対策基本法(第三条、第三四条、第三六条以下)に基き、所管業務につき防災業務計画を作成し、各地方建設局ではこの計画をうけて災害対策要綱を決定し、その円滑な運営をはかるため災害対策本部運営計画を毎年当初に作成する。

中部地方建設局(以下中部地建という)でも「建設省中部地方建設局災害対策要綱」(昭和三五年七月中建訓第一二号。以下対策要綱という。甲第一二号証)を策定している。本件事故当時の対策要綱によると、災害が発生し、または発生するおそれのある場合には、局長は本局に災害対策本部を、事務所長(営繕工事事務所長を除く。以下同じ)は当該事務所に災害対策部をそれぞれ設置する。

災害対策本部に本部長および副本部長を置き災害対策部に対策部長をおく。本部長は局長とし副本部長は本局の各部長および室長とし、対策部長は当該事務所長とする。

災害対策本部に本部室および次の三班をおき、各班の班長は担当副本部長とする。

総務部班  河川部班  道路部班

道路部班は道路部職員中担当副本部長の命ずる者をもつて組織する。道路部班においては次の事務をつかさどる。

ア、道路の災害調査および災害状況資料収集に関すること。

イ、降積雪・路面状況・通行可否状況等の資料収集に関すること。

ウ、交通の制限または迂回路の指示および連絡および交通情報板の操作に関する指示に関すること。

エ、道路災害の応急復旧に関すること。

オ、除雪態勢の指導および態勢の掌握に関すること。

カ、建設機械の応急配置に関すること。

災害対策部においては事務所に庶務・工務の二班を、出張所に対策班をおき班長は対策部長の命ずる者とする。

以上のとおり定められ、さらに災害に対処する動員態勢として

ア、注意態勢

イ、警戒態勢

ウ、非常態勢

の三つの態勢を定めている。そして、注意態勢は降雨・降雪等により災害の起ることが考えられる場合に、警戒態勢は降雨・降雪等により相当の災害が起りまた起るおそれのある場合に、非常態勢は豪雨・豪雪等により重大な災害が発生しまた発生が予想される場合にそれぞれとるべき態勢とされている。

また特に重大な災害が発生し右の動員態勢によることが困難な場合は臨時の特別態勢をとることができるとされている。

そしてこの対策要綱を実施するため「建設省中部地方建設局災害対策本部運営計画」(以下対策本部運営計画という)が作成されている(甲第一三号証)。

(2) 中部地建道路部の指揮監督を受ける岐阜国道工事事務所では災害対策要綱・災害対策本部運営計画に則り、「岐阜国道災害対策部運営計画」(以下対策運営計画という)を毎年度作成し、前記三つの態勢における事務所の具体的行動を定めている(甲第三〇号証)。本件事故当時(昭和四三年度)の対策部運営計画によると、事務所長が対策部長となり職員を、総務班・整備班・工務班・機械班・対策班(出張所担当)の五つの班に分け、態勢の各段階に応じて担当職員を所定の班に配置することが決められている。

そして各班の業務中、整備班においては、

ア、気象資料の収集

イ、交通状況の把握

ウ、災害対策本部や関係諸機関との連絡と指令の通報に関する事項

エ、管内道路の巡回と交通障害箇所の調査、交通障害の防除

を担当することに定められており、対策班(出張所担当)にも情報の収集、管内道路の巡回等の事務を担当する警備係が置かれている。

また、動員の発令・解除は対策部長が行ない、前記対策要綱に基く各動員態勢発令基準は次のとおり定められている。

ア、注意態勢 気象情報等により対策部長が必要と認めた場合

イ、警戒態勢 気象情報等により相当な災害が予想される場合、その他対策部長が必要と認めた場合

ウ、非常態勢 相当な災害が発生し、あるいは重大なる災害が予想される場合、その他対策部長が必要と認めた場合

(3) 事務所の指揮監督のもとにおいて国道四一号の管理を直接担当する美濃加茂国道維持出張所も、災害対策要綱と事務所の対策部運営計画をうけて「美濃加茂維持出張所災害対策運営事項」(以下運営事項という)を定め、その中で右動員三態勢における動員配置等について定めている(甲第三一号証、証人村田実の証言)。

これによると、所長以下一八名の職員の右の各態勢の場合にとるべき動員配置は次のとおりである。

ア、注意態勢 一班 郷右近・中園・榊原

二班 谷端・足立・大場

三班 大揚・足立・岩田

四班 谷端・長谷川・川合

五班 青木・郷右近・塩谷

六班 松岡・大平・諸井

イ、警戒態勢 一班 郷右近・青木・大場・長谷川・足立・塩谷・諸井

二班 松岡・谷端・川合・大平・中園・岩田・榊原

ウ、非常態勢 全員

(4) 建設省は昭和三七年「道路術基術基準」(昭和三七年三月二日道発第七四の二号通達)と題する通達をもつて、道路の維持にあたつてはまず路面の欠点をなるべく早く発見し、直ちに適切な処置を行ない、破損・欠陥を生ずる誘因を除去し、欠陥を予防することを基本方針とし、道路の巡回(以下パトロールという)については、維持出張所長またはこれに代るべき者は、毎日一回以上担当区間をパトロールし、路面・路側部・構造物および附属物等の状況を調査し、緊急を要する場合は無線電話をもつて処置を連絡指示すること、災害等不測の事故発生の際は直ちに現地出動し、緊急措置の指示・情報の連絡を行なうことを定めている。

また同年、道路局長名で各都道府県知事および五大市長宛に「道路の維持修繕等管理要領について」(昭和三七年八月二八日道路第三六八号各都道府県知事・五大市長あて道路局長通達)と題する通達をもつて、道路の維持・修繕等の管理に当つては、前記「道路技術基準」によるほか、道路のパトロール・維持および応急工事等実施の具体的要領を定めた「道路の維持修繕等管理要領」の実行方について特段の努力を要請した。

中部地建においても本件事故当時「建設省中部地方建設局巡回要領」を定めていた(乙第六号証)。

これによると次のように定められている。

パトロールには、無線電話を装備したパトロールカーを使用することを原則とし、時折徒歩でパトロールする。

パトロールの際、軽易な応急処置ができるようにパトロールカーに人員・資材等を積載しておく。

パトロールは、パトロールの主務担当者が行ない、一定の順序方法にしたがつて担当区間をパトロールする。

平常時には

ア、日常パトロールするものとして、路面、路肩、法面、構造物の外観、安全施設、道路標識、区画線、維持修繕作業および占用工事などの実施状況、大雨・地震・地すべりなどによる被災箇所、道路の不法占用など

イ、定期的にパトロールするものとして、橋梁、トンネル・擁壁などの構造物の細部、排水施設の機能、法面の細部、照明施設の細部など

に分けてパトロールし、その結果は統一された様式のパトロール日誌に記録される。日常パトロールは毎日、定期パトロールは月に一回以上行われる。

その他、大雨・洪水・暴風などの際に特別に行なわれる異常時パトロールがあり、被害状況・交通状況を連絡し、適切な指示をすることになつている。また異常事態の予想される場合には、重点的にパトロールし、緊急の事態にそなえて「注意」・「通行止」などの道路標識・保安柵等を携行する。以上のとおり定められている。

(二)  国鉄高山線と木曾川の災害態勢

(1) 国鉄高山線の災害態勢

七宗橋以北から下呂町にかけて国鉄高山線は飛騨川(上流部は益田川と呼ばれる)を間にはさんで国道四一号と併行して走つている。

名古屋鉄道管理局は昭和三六年八月三一日「線路に災害発生のおそれある区間の運転取扱い方について」(名達甲一三一号)と題する局長通達をもつて、線路に災害発生のおそれある区間の運転取扱い方を定め同年九月一日から実施していた(甲第四六号証)。

すなわち、降雨により災害の発生が予想される区間を運転する列車の速度を制限しまたは運転を中止することにより列車に与える被害を防止することを目的としたもので、管内の各線の運転規制区間を指定し、降雨による運転規制開始の時機の判断を容易にするため、必要な箇所に時雨量警報器(自記雨量計に警報器を接続し、雨量が一定量を越えると警報器が鳴るしくみのもの)を設置するとともに、降雨量が一時間三〇ミリメートルに達した場合、時雨量警報器が鳴り出すよう調整しておき、運転規制区間で

ア、時雨量(六〇分間の降雨量)が三〇ミリメートルを越え、なお豪雨が降り続くとき、

イ、日雨量(二四時間の降雨量)が一五〇ミリメートル以上になつたとき、

ウ、連続降雨量(雨が降り始めてから降りやむまでの総降雨量)が二〇〇ミリメートル以上になつたとき

のいずれかに該当するときは、列車の速度を一時間三〇キロメートル以下に制限し、

日雨量が一〇〇ミリメートル以上となり、さらに時雨量が三〇ミリメートルを越えたとき

列車の運転を中止するというものである。

また時雨量警報器の設置箇所の駅長は、関係駅長に通告するだけで右運転規制を専決施行することになつている。

右通達のなされた当時から高山線での運転規制区間は上麻生―飛騨金山間を始め五区間であり、同線での時雨量警報器設置箇所は白川口駅・飛騨金山駅等五箇所が指定され、白川口駅に実際に設置されたのは昭和三七年三月三一日である。

本件事故当時における高山線の災害態勢は右通達と同趣旨の通達、すなわち昭和四一年三月二八日名古屋鉄道管理局長達第六号による名古屋鉄道管理局運転保安基準規程の定めによつていた。

右規定によれば、時雨量警報器鳴動調整降雨量は、東海道本線で一時間四〇ミリメートルとするほかは、その他の線区では一時間三〇ミリメートルと前記通達と同値であり、運転規制の基準も東海道本線を除くその他の線区においては降雨状態とそれに対応する制限速度ならびに運転中止の措置をとる値が前記昭和三六年の通達とまつたく同値であり、時雨量警報器設置箇所の駅長の運転規制専決施行権限も与えられている。

ただ、運転規制区間と時雨量警報器の設置箇所については前記のとおり昭和三六年通達当時は高山線で五区間・五箇所であつたのが、本件事故当時には、運転規制区間および右区間に対応する時雨量警報器設置箇所(カッコ内)は次のとおり一〇区間・一〇箇所に増えている。

那加―鵜沼(蘇原)

鵜沼―中川辺(美濃太田)

下麻生―下油井(白川口)

下油井―少ケ野(飛騨金山)

下呂―上呂(飛騨萩原)

上呂―渚  (飛騨小坂)

渚 ―飛騨一宮(久々野)

飛騨一宮―上枝(高山)

上枝―飛騨古川(飛騨国府)

飛騨細江―「猪谷」(角川)

このように、七宗橋から下呂町にかけての高出線は下麻生(49.5Km附近)―下油井(78.5Km附近)区間と下油井―少ケ野(焼石93.7Km附近)区間に分けられ、それぞれ順次白川口・飛騨金山各駅に時雨量警報器が設置されていた。

事故当夜は白川口駅では同駅二二時三二分発の下り列車がホームに入つたが降雨が激しいので発車を見合せるうち、運転中止の前記基準降雨量に達したためと、天候・周囲の状況等から判断し、前途の運転は極めて危険と認め、同駅助役野尻富二が運転を中止した(甲第五四号証の一、二)。

その後間もなく保線区員から白川口・下油井間の線路上に障害が発生したとの連絡が入つた(甲第四三号証の一九)。

(2) 木曾川の災害態勢

建設省(中部地建)と気象庁(名古屋地方気象台)が共同して行なう木曾川・長良川・揖斐川の洪水予報業務(水防法・気象業務法による)に関し木曾川水系内の五十有余の各関係官公庁・諸団体により「木曾川洪水予報連絡会」(以下連絡会という)がつくられている。

この組織は昭和二四年頃発足し、中部地建と名古屋地方気象台が中心になり名古屋通産局・名古屋営林局・電々公社・愛知用水公団といつた諸官公庁、NHK、CBC・東海テレビ等といつた報道機関、右三川沿いの県市町村、その地方を走る国鉄・私鉄、右三川にダムを有する電力会社等で構成されており、前記洪水予報業務に資するため、右構成諸団体の間に気象水位流量などの迅速確実な連絡を図り、もつて水害の予防ならびに軽減を図ることを目的としている。

連絡会では雨量水位流量の通報・雨量予報・木曾川洪水予報に関し「木曾川洪水予報通報規定」を定めているが、この規定では右木曾三川沿いに気象台・中部地建・岐阜県土木事務所・愛知用水公団・電力会社等が有するすべての観測所における雨量・水位・流量といつた観測データーを所定の通報型式・通信系統により速やかに名古屋地方気象台と中部地建河川部に集中させ、名古屋地方気象台は木曾水系に洪水が起るおそれがある時は全般気象状況および各河川流域の雨量通報により雨量予報を行ない、中部地建と名古屋気象台は全般気象状況および右雨量水位流量通報にもとづき共同して木曾川洪水予報を行なうことになつている。

この情報伝達には、電話による場合には平文を用いるが、電報による場合には予め時間雨量通報型式・日雨量通報型式等の伝達型式が定められ、発信者と伝達文には予め略号が定められており、伝達の際の無駄を省く配慮もなされている。本件事故当時には観測所から予報センターへの通報所要時間は電報による場合を除き一五ないし三〇分に短縮されていた。

そして雨量観測通報の要領は、一時間雨量観測通報においては、

ア、前二四時間以内に雨量が五〇ミリメートルを越えた時自動的に開始し、雨が止み再び降る気配のなくなつた時停止する。

イ、右ア、の雨量にならなくても通報開始の指示を受け取つたとき、

ウ、指定した日時の雨量観測通報の照会があつたとき、

に通報を開始することになつており、日雨量については、一時間雨量あるいは三時間雨量観測通報を開始する場合第一回目に同時にその観測時の前の九時に測つた二四時間雨量を通報することになつている。

本件事故当時、連絡会は飛騨川沿いだけでも一八箇所(建設省関係八・気象庁関係七・中部電力三)の雨量観測所を有し、その観測データー伝達の連絡網と態勢が整備されていた。

また本件集中豪雨に際しても、名古屋地方気象台・中部地建の共同により、一八日五時三〇分木曾川洪水注意報第一号、同日七時三〇分木曾川洪水情報第三号を発表して注意を呼びかけている(乙第七号証)。

しかしながら、このように中部地建河川部に集められた雨量に関するデーターは本件事故当時同地建の道路部には全く伝えられていなかつた(証人村田実、同鈴木靖夫、同後藤侃の各証言)。

(三)  気象情報

(1) 気象台が各種注意報・警報を発表するについては、気象業務法・気象官署予報業務細則(昭和二九年七月三〇日中央気象台達第一〇号、甲第五六号証)に定めがある。

気象注意報は被害が予想される場合に、気象警報は重大な災害が起こると予想される場合に発表される。

岐阜地方気象台においては岐阜県予報区を担当し、右の各場合には気象台長の承認を得て直ちに発表することになつており、その発表の方法は、警報の場合には気象業務法一五条に定められた日本電信電話公社・警察庁・海上保安庁・運輸省・NHK・建設省または都道府県の機関に、注意報の場合には電話局・県庁・警察本部・NHK・自衛隊・ラジオ岐阜等の予め打ち合せてある機関(気象警報等伝達簿に記載されている)へ、係官がその表題・発表年月日・発表時刻・発表官署・本文の順に(一部は表題のみの場合もある)三、四人で手分けして電話で通知し、相手方にあらかじめ気象協会を通じ配布されている気象台で作成した気象連絡用の統一用紙一用紙(様式一号、乙第三号証の一ないし四の型式)に書きとつてもらい、通知が終れば伝達された時刻分・相手方と気象台側の担当者の名前を前記伝達簿に逐次記録している。

岐阜県の場合には、美濃地方(加茂郡以南)で一〇〇ミリメートル、飛騨地方(益田郡以北)で七〇ミリメートルに達する日雨量(任意の連続する二四時間雨量)が予想される場合には大雨注意報が出され、多くの場合当該地域に相当の降雨があつた時点で注意報が出されており、日雨量が二〇〇ミリメートルを越えると予想される場合に大雨警報が発せられており、発表の段階では当該地域で相当の降雨が続いており注意報から警報に切りかえられる例が多い(証人田中政由の証言)。

(2) 岐阜地方気象台においては、年によつて大きな差はあるが大体一〇〇回前後注意報を発表しており、警報は年平均数回程度である。

しかし、年によつては警報は一回も発表されないこともある。

岐阜県では昭和三九年一月一日から同四三年一二月三一日までの五年間に発表された警報は更新された分も含めると一六回あり、これを年度別に分けると、

昭和三九年一回、同四〇年一一回、同四一年〇回、同四二年〇回、同四三年四回

である。すなわち、昭和四〇年九月一七日に台風二四号接近に伴い暴風雨洪水警報が出され、同年一二月一七日大雪警報が出された後本件事故当夜である同四三年八月一七日二二時三〇分発表の大雨警報までの二年六ケ月余(雨のみについて考えれば約三年間)の間警報が出されたことはなかつた(甲第一八、第一九号証、証人田中政由の証言)。

(四)  気象情報の伝達と管内降雨量の把握

(1) 岐阜地方気象台が前記のとおり注意報・警報の伝達を順次終了するまで、本件事故当時約四〇分ないし一時間を要していたし、事務所にも同様の所要時間を経た頃に通知がなされるのが例であつた(証人田中政由の証言、乙第七号証)。

本件事故当夜、同気象台二〇時発表の雷雨注意報が事務所に伝えられたのが二〇時五〇分であり、二二時三〇分発表の大雨警報は二三時二五分になつて伝達された(乙第七号証)。

(2) 国道四一号の出張所の管理区間76.1キロメートル(うち坂東橋以北の三六キロメートルは金山工区が管理)において自記雨量計が設置されているのは出張所(39.7Km)のみで、テレメーターは設置されていなかつた。

3  本件事故当夜本件国道関係者の取つた行動

(一)  岐阜地方気象台

(1) 岐阜地方気象台の組織

岐阜地方気象台(以下気象台という)は台長以下二三名で総務課・防災業務課・技術課を組織し、技術課が岐阜県全域の気象につき観測・通信・予報等の業務を行つている。

気象予報については、当番制になつており、平常時には二名が担当するが、異常時において注意報発表の場合には四名、警報の場合には六名で行なう態勢になつている。

(2) 本件事故前後の気象概況

ア、台風七号が八月一〇日から本州南方海上を西進し、八月一五日東支那海で向きを北東にかえ、一六日一八時頃日本海にはいつた。その後日本海中部を衰弱しながら北東進を続け、一七日一八時には沿海州北部に上陸して温帯低気圧となつた。

イ、台風が日本海北部に達した一七日九時には新潟の北方海上から若狭湾を経て北九州に達する前線が発生した。この前線は台風の北上とは別にゆつくり南下した。

一方本州には一六日から台風の北上にともなつて暖湿気流が流入していた。

ウ、この前線の影響で岐阜県下は一七日朝からところどころで雷雨があつた。その後も雷雲の発生が続き、九時頃から三―四時間の間にところどころで強い雷雨があつたがまもなく止んだ。

エ、一七日は朝から中部地方は不安定な気層になつており、二一時には八五〇ミリバール面で湿舌が南西から本州にはいり、五〇〇ミリバール面では乾燥した冷たい空気が本州に侵入していた。このため本州中部の気層は著しく不安定になつていた。

オ、前線が岐阜県中部に達した一七日二〇時頃から一八日早朝にかけ、益田郡南部・郡上郡南部・加茂郡・恵那郡の一部を中心に激しい雷雨となつた。加茂郡富加村では一時間最大降水量一〇五ミリメートル、益田郡萩原町でも六二ミリメートルにもおよぶものであつた。

カ、豪雨は一八日朝、前線が東海道沿岸附近に南下した頃から小降りとなり、以後天気は次第に回復に向つた。

(3) 名古屋地方気象台レーダーの観測状況

一七日五時、若狭湾と琶琵湖附近に、北東から南西に延びる二本の線状エコーが観測された。この線状エコーは九、〇〇〇―一〇、〇〇〇メートルの強い対流性の雲から構成されており、ゆつくり南下して九時には若狭湾を通る線状エコーはゆつくり南下しながら一〇時頃には最盛期に達したと考えられる。このころのエコー頂高度は一三、〇〇〇メートルに達し、線状エコーの走向に沿つてセルが毎時七五キロメートルで移動して大雨のパターンを形成していた。

線状エコーはその後次第にくずれ、強いエコー域は分散し始め、一四―一五時頃には弱い層状エコーが中部地方から近畿地方中部にかけて散乱しており、さらに南下しながら衰弱の傾向を示していた。

一九時三〇分名古屋の北方で発雷が観測された。二〇時の観測によると、九時の観測時にみるような顕著な線状ではないが強い対流性の雲で構成された線状エコーが午前の最盛期と同じ位置に観測された。この線状エコーはきわめてゆつくり南下しているが、線状エコーの走向とセルの移動方向はほぼ一致し、大雨のパターンを再現している。二二時頃にはこの線状エコーは最盛期に達し一三、〇〇〇メートルにおよぶエコー頂が観測された。二三時以後は、エコーの主な部分はほぼ名古屋の北四〇―五〇キロメートルの処に存在しており、一八日四時すぎには南下の傾向を示してきた。

(4) 本件事故前後の気象台のとつた措置

気象台では本件事故当夜の前後、前記の各態勢をとり、次のとおり警報等を発表し、伝達した。

ア、気象注意報・警報・情報発表状況

①台風情報第一号 八月一六日一七時三五分

②風雨注意報 八月一六日二二時〇〇分

③大雨注意報・洪水注意報 八月一七日九時三〇分

台風七号が日本海中部を北東に進んでおり、明朝はオホーツク海南部に出る見込、このため県内のところどころに雷を伴う強い雨雲が出ていますので、局地的大雨になります。今夜までの雨量は揖斐川・長良川上流地域・庄川上流地域では五〇―一〇〇ミリメートルに達する見込みです。このため低地の浸水・河川の増水・山くずれ・がけくずれの起るおそれがあります。中小河川では急に増水するところがありましよう。注意して下さい。

④大雨注意報・洪水注意報・雷雨注意報

八月一七日一一時一〇分

雷を伴なう強い雨雲は一〇時現在下呂・萩原方面から琵琶湖の南にかけてあり、ゆつくり南東に移動しはじめてきました。今後は美濃地方・東濃地方で局地的に雷を伴う強い雨の降るところがあります。今後の雨量は、東濃地方・飛騨地方南部では、五〇―一〇〇ミリメートルに達する見込です。このため低地の浸水・河川の増水・山くずれ・がけくずれの起るおそれがあります。中小河川では急に増水することがあります。注意して下さい。

⑤右各注意報解除 八月一七日一七時一五分

⑥雷雨注意報 八月一七日二〇時〇〇分岐阜県南部のところどころに雷を伴なう強い雨雲が発生していますので、今夜半頃まで、所によつては落雷や局地的に強い雨が降りますので注意して下さい。このため低地の浸水・河川の増水・山くずれ、がけくずれの起るおそれがあります。中小河川では急に増水するところがあります。

⑦大雨警報・洪水注意報 八月一七日二二時三〇分

県内のところどころに雷を伴う雨雲があり、二二時現在、長良川流域の美並では二一時までの前一時間五六ミリメートル、二二時までの前一時間一四九ミリメートル、降り始めてから二七四ミリメートルになりました。今後もまだところどころに強い雨が降りますから警戒して下さい。中小河川では洪水の起るおそれがあります。今後雨は明朝まで時々強く降り、長良川流域・飛騨川流域・東濃地方では一〇〇―一五〇ミリメートルに達する見込、このため低地の浸水・河川の増水・洪水・山くずれ・がけくずれの起るおそれがあり、中小河川では急に増水するところがあります。警戒して下さい。なお、今後の気象通報に十分注意して下さい。

⑧大雨警報・洪水警報 八月一八日五時一五分

⑨洪水注意報 八月一八日九時一〇分

⑩右注意報解除 八月一八日一二時四五分

イ、八月一七日二二時三〇分発表大雨警報・洪水注意報通知状況

通知先

通知時刻

通知先

通知時刻

電話局(運用課)

22時30分

名古屋鉄道

(岐阜電気管理区)

23時29分

県庁(消防々災課)

22 35

岐阜市役所(総務課)

23 24

警察本部(警備課)

22 34

ラジオ岐阜

22 36

木曾川上流工事々務所

23 05

岐阜日々新聞社

23 10

NHK

22 35

共同通信社

23 10

国鉄(鉄道気象通告)

23 18

朝日新聞社

23 17

電報局(通知電報)

23 10

毎日 〃

23 20

自衛隊(情報係)

22 40

中日 〃

23 13

岐阜国道工事々務所

23 25

読売 〃

23 13

中部電力(給電課)

23 10

右のうちNHK・電話局・県庁・警察本部・ラジオ岐阜にはまず表題のみ送り、その後本文を送つた。

(NHK名古屋中央放送局では、ラジオでは二二時五八分から、テレビでは二三時一五分からのローカルニュースの時間に放送を行つた。)

(二)  本件国道管理者

(1) 事務所

ア、(二〇時発表の雷雨注意報の伝達まで)

a、(一七日(土曜日)正午まで)

一六日午後から一七日にかけて台風七号が日本海を北上しながら通過したため岐阜県北部・西部の山間部には局地的な大雨が予想され、気象台は、

①一六日一七時三五分 台風情報第一号

②同日二二時〇〇分 風雨注意報

③一七日九時三〇分 大雨・洪水注意報を相ついで発表し、事務所では右情報・各注意報の全文を約三〇分後に気象台より通報され、一七日九時三〇分発表の大雨・洪水注意報の内容を美濃加茂国道維持出張所を始め他の管下各出張所に伝えた(その注意報の内容は前示のとおりである)。

事務所では、右情報・注意報を受けたが、その発令などを知つていたのは管理課員のみで、一七日午前中は事務所全体が平常の勤務を続けた。

一七日一〇時三〇分頃、出張所の村田所長・谷端技官が事務所管理課と事務打合せのため事務所に到着し、右九時三〇分発表の大雨・洪水注意報を知つた。その後一一時一〇分気象台から大雨・洪水・雷雨注意報が発表され、事務所は一一時三七分頃気象台から右通報を受けこれを管下各出張所に通報した。

村田出張所長は事務所で右一一時一〇分発表の大雨・洪水・雷雨注意報を聞き、谷端技官に指示して金山工区に右注意報を通報させるとともに金山工区附近の気象状態を尋ねさせた。

このように注意報が相ついでいたが、事務所では管理課長の指示により同課長および数名の係員を在庁させたほか他の職員は全員定時刻(一二時三〇分)

に退庁した。

b、(一七日二一時まで)

一二時三〇分、当日の宿直員河合隆俊(同人は事務所工務課に所属し、監督官付であつた)は事務所本棟一階の宿直室で宿直勤務についた。

一方事務所所別棟の管理課では、退庁時刻を過ぎてもなお前記一一時一〇分発表の注意報が解除となるにいたらないため、管理課長鈴木の指示により同課維持修繕係長金森・管理係長杉山その他二、三名の職員が状況の如何により臨機の措置をとるべく待機していたが、一七時二六分頃にいたり、宿直員河合が気象台から一一時一〇分発表の注意報が一七時一五分解除されたとの連絡を受け、これを事務所管理課で待機していた杉山係長に伝えた。

鈴木課長らは憂慮していた気象状況が好転したことに安堵し、一七時三〇分頃全員帰宅した。

その後河合は右注意報解除を出張所に電話で伝え、宿直室にいたところ、二〇時五〇分、気象台から二〇時発表の雷雨注意報の連絡を受けた。

右注意報は、前示のとおり今夜半頃まで、所によつては落雷や局地的に強い雨が降りますので注意して下さいという内容のものであつたが、河合は、自己の判断で二一時頃右注意報を美濃加茂・大垣・岐南の三出張所のみに伝え、岐阜出張所は事務所構内にあるため、八幡出張所は新設したばかりであつたため、右両出張所には通報しなかつた。また、美濃加茂出張所に連絡した際、美濃加茂附近では降雨が認められないとの報告をうけたところから管理課長へは右注意報発表を連絡しなかつた。

しかし、この当時すでに八幡町所在の雨量観測所では二〇時から二一時の時間雨量五一ミリメートルという降雨を記録していた(乙第七号証)のであるが八幡出張所からは豪雨についての報告は全くなく、宿直員河合において同出張所方面の天候について配慮することは思いもよらぬ事柄であつた。

イ、(白山地内崩落の通報)

a、二二時二〇分頃、宿直員河合に岐阜県警察本部から電話があり、国道一五六号白山地内で土砂崩れがあつたが御存じですかと知らせてきた。そこで河合は管轄の八幡出張所に電話で尋ねたところ、同出張所の宿直員永井は知らないとの返事であつた。その際永井は「雷と雨が強くてパンツ一つでおるんだ」と伝えており(証人金森登の証言)、その頃八幡町の雨量観測所では二二時から二三時間の一時間雨量二三ミリメートルを記録しており(乙第七号証)、八幡出張所附近は当夜一九時頃から降りはじめた雨が依然として止まず、強い雨が降つていたのであつた。

宿直員河合は前示のとおりすでに帰宅していた鈴木管理課長に県警察本部からの八幡町白山地内の土砂崩落の連絡と、八幡出張所における降雨状況を電話で伝えたところ、鈴木課長は事態が急変したのに驚ろきすぐ事務所に出勤するから官舎に帰宅中の金森維持修繕係長を起せと指示した。

(註)岐阜県警察本部から右土砂崩落の通報のあつた時刻頃、本件バス集団が犬山市の集合地点を出発したのである。

二二時三五分頃、金森係長・鈴木課長が相前後して事務所に来たので、河合はここではじめて鈴木課長に二〇時発表の雷雨注意報の内容を報告した。

金森係長が事務所に入ると同時くらいに電話が鳴つたので同人が出ると八幡出張所の永井からで、宿直員が永井一人で何もできないから車一台の手配と、河田八幡出張所長の派遣を要請していた。そこで金森係長は、鈴木課長の指示で河合に橋口運転手を呼びに行かせ、橋口運転手は二三時頃河田所長を乗せて八幡出張所へ急行した。

二三時すこし前、鈴木課長の要請により足立機械課長が出所して無線の開局をし、二三時一〇分頃、鈴木課長・金森係長は協議して岐阜市羽島町の市川工務店に八幡町の崩落現場へ重機を手配するよう依頼した。

その後金森係長は八幡出張所の永井に電話をさせ、橋口運転手が八幡出張所長を乗せて八幡に向つたこと、市川工務店に重機の手配をしたこと、岐阜県の八幡土木出張所に土砂崩落の状況を聞くよう連絡した。しばらくして永井から電話があり、八幡土木工張所へ電話したが詳細は不明であること、同土木出張所にグレダーが一台あるからそれを現場に出すとのことであつた旨伝えて来た。

b、この頃、二二時三〇分発表の「今後雨は明朝まで時々強く降り、長良川流域・飛騨川流域・東濃地方では一〇〇ないし一五〇ミリに達する見込、このため低地の浸水・河川の増水・洪水・山くずれ・がけくずれの起るおそれがあり警戒して下さい」との内容の大雨警報・洪水注意報が、NHKラジオで二二時五八分から、NHKテレビでは二三時一五分からのローカルニュースの時間に放送されたけれども、事務所では誰も知らなかつた。

(註) 二三時〇分頃から同一九分頃の間、本件バス集団は篠突く雨の中を七宗橋(54.1Km)から飛泉橋(66.7Km)の間を右大雨警報・洪水注意報も知らないまま北上していたのである。

ウ、(下油井地内崩落と二二時三〇分発表の大雨警報等の伝達)

二三時二五分頃、美濃加茂出張所の宿直員青木から電話があり、金森係長がうけると、加茂警察署からの通報で国道四一号下油井地内(後に、七八Kmおよび78.45Km地点の二箇所と判明)で土砂崩落があつたが詳細不明である、一応連絡しますとのことであつた。そこで金森係長は鈴木課長に報告し、鈴木課長の指示で、青木に対し、今からすぐパトロールに出よ、現地の詳細調査と無線の開局・宿直者の交替を指示したところ、青木から、出張所長と金山工区への連絡を頼まれた。

右電話の直後に、気象台から二二時三〇分発表の前記内容の大雨警報・洪水注意報の全文が事務所に伝えられ、金森係長が右警報を伝えるため出張所に電話をかけたが三、四分呼んでも通ぜず、そこで八幡出張所の永井を呼び出し右警報を伝えた。

気象台から右警報が通報された後、鈴木課長は坂上事務所長に白山および下油井の崩落と大雨警報が発表されたことを報告した。

金森係長は、二三時四〇分頃、名四国道工事事務所の官舎(名古屋市瑞穂区熱田東町浜新開一〇番地)に帰宅していた村田出張所長に電話し、下油井の崩落の事実と、大雨警報が発表されていること、青木・郷右近らがパトロールに出ていることを報告し、鈴木課長の指示で、すぐ出動するよう要請した。

その後鈴木課長は金山工区へ下油井崩落のことを連絡し、建設業者へ重機の手配を指示したところ、金山工区の榊原からは、まず直ちに現場を見てくるとの返事であつた。金森係長は、中部地建の道路管理課長への報告のため電話を入れた。

(註) その当時二三時一九分頃飛泉橋を通過した本件バス集団は同三三分頃モーテル飛騨に到着し、同所において旅行を中止するか否かを協議中であつた。

事務所では一八日〇時頃からしばらく待機していると、〇時三〇分頃、出張所の谷端から、川辺町の役場から下麻生の地内で三〇軒ばかりが道路上へ流れてきたという連絡があつた旨報告してきたので、鈴木課長は金森係長・杉山らを出張所に赴かせることにし、同人らは運転手と一時頃出発し、二時頃出張所に到着し、郷右近・青木から第一回パトロールの状況を聞き、鈴木課長にこれを報告した。金森係長らが出張所に着くまでの間、加茂警察署(37.9Km附近)の前に北進禁止の標識が出ており太田橋三叉路(39.0Km)には警察官二名がおり、北進禁止の標識がでていた。

金森係長らが事務所を出るころ、その附近には雨は降つておらず、出張所に着く間多少の雨に会つたが、さほど強い雨ではなかつた。

鈴木課長は右報告により、64.17Km地点に大崩落があり北進不能であること、非常な豪雨で、下麻生では道路が冠水していること等を知りその旨を二時頃坂上事務所長に報告し、さらにこれから非常態勢に入り、人員を動員し、重機の手配等も行なう旨報告した。事務所長はよろしいといつた趣旨の返事を与え、事務所には出所しなかつた。

エ、(第二回パトロール)

金森係長ら事務所から赴いた三名は村田出張所長とともに第二回パトロールに二時一〇分頃出張所を出発したが、川辺町の下麻生地内で山側の民家から家財道具等が流れており通行不能のため一時間くらい停車していた。雨がすこし小止みになつたのでさらに前進を続け、七宗橋の手前で無線交信したが不通であつた。そこで金森係長らは村田所長らを先にやり、七宗村役場まで電話を借りに行き、そこから事務所の鈴木課長に下麻生附近の災害の模様や降雨状況等を報告した。

その後七宗橋を出て北進したが途中ところどころで沢から水が相当激しく流れ出ていた。

鈴ケ谷の崩落地点まで来て直ちに出張所へ引き返し、出張所へ六時ごろ着き、直ちに杉山・中村・郷右近・永田の四名で調査班の第一班を編成し、鈴ケ谷の奥の調査に向つた。

金森係長は情報係として出張所に残つていたところ、八時のニュースで本件バスの転落事故を知つた。

坂上事務所長は八時頃事務所に出所した。

(2) 出張所

ア、(二〇時発表の雷雨注意報の伝達まで)

a、(一七日正午まで)

出張所職員はほとんどの者が八時三〇分頃に出勤した。

当時出張所附近は曇りの天気であつた。

九時頃、岩田・大場の両名が、岩田が連絡車を運転して、出張所・金山工区間の日常パトロールに出発し、右区間の途中にある白川町熊野島のドライブイン「熊野島」(70.3Km)での道路法二四条による請願工事の立会のため青木管理主任が右連絡車に便乗し、一二時ごろ岩田らはパトロールを終え出張所に帰つて来たが、その復路に、再び青木をドライブイン「熊野島」前でひろつて帰つた。右パトロール中、道路に異状は認めなかつた。

同九時頃、中園・長谷川の両名は人夫五人と共に金山工区管内の村君(八〇Km附近)にデリネーターの設置作業に出発し、一六時三〇分頃帰所した。途中、夕立程度の雨が降つたが、道路には異状はなかつた。

同九時頃、塩谷は人夫二名を連れて美濃加茂市内・鵜沼・羽場・三柿野方面に道路の補修作業に出発した。雨は降らなかつた。材料がなくなつたため、一二時頃一旦帰所し、昼食をとつて一四時頃再び同じところに補修作業に出て行き、一六時三〇分頃出張所に帰つて来た。

次いで九時三〇分頃、村田所長と谷端の両名が途中出張所・各務原間のパトロールを兼ねて連絡車(ライトバン)で岐阜の事務所に向けて出発し、一四時頃出張所に帰つて来た。

郷右近係長は午前中は出張所内で勤務し、一七日午前九時三〇分発表の大雨・洪水注意報が事務所から伝えられたのを一〇時過ぎに知つた。

b、(一七日二一時まで)

一二時頃出張所に帰つて来た青木や午前中出張所勤務だつた郷右近係長その他の八、九名は直営作業現場で人夫を使つている関係で出張所に残つて執務していた。事務所から帰つて来た村田所長を囲んで、一四時三〇分頃から居合せた職員は仕事の事等につき雑談的な打合せ会をした。

一六時三〇分頃、金山の方で作業をやつていた中園等が、前記のとおり出張所に帰つて来て、途中に夕立程度があつたがそれ程大きなことではなかつた、別に異状はなかつたと報告した。

一七時三〇分頃、事務所から大雨・洪水・雷雨注意報解除の連絡を川合が受けたので打ち合せ会を終り、ビールを少し飲んで散会した。

その後村田所長・青木らは宿直室でマージャンを始め、郷右近係長はしばらく見ていたが一九時頃出張所裏の官舎にもどり就寝した。

一九時三〇分頃、村田所長は名鉄今渡駅一九時五〇分発の電車で名古屋の自宅に向つた。

一六時三〇分頃出張所に帰つて来た塩谷は、車を洗つたり、道具を片付けて一七時頃事務室にキーを置いて出張所構内の自宅に帰つた。

二〇時頃になつて宿直員の青木に金山工区の諸井から電話があり、降雨があつたのでパトロールした結果、九三Km地点の三ツ渕にバラバラと落石があつたが箒木ではいて片付けたとの報告があつた。

二一時頃、事務所の河合から二〇時発表の雷雨注意報の通報を受け、青木はその注意報が出たという結果をメモし、宿直簿にはさんだ。

青木が右注意報を直ちに金山工区に連絡したか否かについて、証人青木伯文は「金山工区のほうへ連絡したと思います。」「本当に連絡したんですか―はつきり記憶がございません。」「金山工区へ連絡したと思うと言つておられますが、何か指示でもしたんですか―通常することになつておりますので……。」と証言しているが、当時金山工区で勤務していた証人榊原俊治は「一七日の午後五時以降、あなたが出張所もしくは事務所との間にとつた連絡は、諸井がパトロールに出た一〇分か一五分後にかかつた電話と、三ッ渕へ二人で行つて帰つてきてから諸井が出張所へ報告したことと、一一時四〇分に鈴木課長から電話があつたのと、この三回だけですね―そうと思います。」「それ以外にあなたが電話を受けたということはないですね―ないと思います。」「午後五時以降、気象通報のことに関しては知らなかつたというふうに言われておりますが間違いありませんね―はい。」と証言しているのであつて、右榊原の証言に照し、青木の右証言部分は措信し難く、二〇時発表の雷雨注意報は、出張所から金山工区に伝達されていないものと認められる。

イ、(白山地内崩落の通報)

二二時二〇分頃、事務所では岐阜県警察本部から白山地内で発生した崩落を知らされたが、出張所では、連絡がなかつたため、誰も知らなかつた。

ウ、(下油井地内崩落と二二時三〇分発表の大雨警報等の伝達)

二三時二五分頃、青木は加茂警察署の宿直と称する者から「下油井で土砂崩れがあつたという連絡を白川の派出所から受けたがどうですか。」との電話連絡をうけ、青木はそのことを知らなかつたので土砂崩れの規模を聞くと全然わからないとのことであつた。そこで青木は事務所の金森係長に「加茂署からの通報で、国道四一号線の下油井地内で土砂崩落があつたが詳細は不明である。」と報告し、金森係長からは今からすぐにパトロールに出よ、現地の詳細調査と無線の開局、宿直者の交替をせよとの指示を受けたので、村田所長と金山工区への連絡を同係長に頼んで直ちにパトロールに出ることにした。

青木は出張所構内の官舎にいる郷右近係長を起こし、二人でパトロールカーに機材を補充して一〇ないし一五分後に、パトロールに出た。天候は曇りで雨は全然降つていなかつた。

郷右近係長はパトロールの出発に先立ち既に就寝していた同じ構内官舎の塩谷に留守番を頼んだ。塩谷が急いで事務所に行つた時には、同係長と青木がパトロールカーで出ていくところであつた。

塩谷が事務室に入ると白川町役場から坂東橋附近(下油井)の土砂崩れを知らせてきたので、塩谷は直ちに村田所長にその旨連絡しようとして電話したが一回目は通ぜず、急いで事務所に電話したところ既に事務所では右崩落のことを知つていた。

村田所長は、同四〇分頃事務所から下油井の土砂崩落と大雨警報発表中であるとの電話を受け、直ちに出動するよう要請された。その話の最中に出張所の塩谷からも電話(二回目)が入つたので、同人に対し塩谷の妻を留守番させ、川辺町の官舎の松岡・谷端・岩田の三名を呼びに行くよう指示し、さらに白川町の大脇建設と金山町の金山建設に電話して下油井の土砂崩れ排除のため重機の出動を要請した。その際大脇建設からは、「雨が非常にひどいからすぐには行けない」とのことであつた。

村田所長から指示を受けた塩谷は二三時四五分頃妻を留守番にして自動車で川辺町の官舎に向つたが、途中、西4.5Km地点と中川辺駅前附近の道路は膝くらいまで冠水しており自動車での通行は不能であつた。

一八日〇時一五分頃、塩谷は帰所し、谷端ら川辺町官舎の三名も同じころ出所し、待機中、〇時三〇分ころ谷端は、川辺町の役場から下麻生地内で三〇軒ほどが道路上へ流れて来たとの連絡があつたことを事務所へ連絡した。塩谷が出張所へ戻つてくる直前に出張所に対し道路上の土砂崩落に対する手配を要請する電話が美濃加茂署より塩谷の妻にあつた。

村田所長は〇時三〇分頃、名四国道工事事務所の自動車を借りて名古屋の宿舎から出張所に向け出発した。

エ、(第一回パトロール)

二三時三五分ころ郷右近係長・青木の第一回パトロールは無線を開局して出発した。美濃加茂附近までは雨に会わず、中川辺あたりから小雨のなかを時速五〇キロメートルぐらいの速度で走つていた。そして七宗橋附近から突如ものすごい雷鳴と豪雨の中に突入し時速二五ないし三〇キロメートルの速度で進んだ。途中、無線による出張所との交信を試みたが雷鳴のひどいせいか通じなかつた。路面には山側からの土砂流がポンプのようにふき出し道路に溢れて激しい勢いで流れており、滝に打たれているような深夜の豪雨の中で、見透しは利かず、車に乗つていること自体が怖ろしいような状態であつたが、二人は道路管理職員としての使命感に支えられ、ハンドルを抱え手さぐりのようにしてなおも北上をつづけた。

途中、路端で止つている自動車には動くことは危険であるとの警告を与え、落石などのある危険箇所五箇所ぐらいにはバリケード・警戒燈・セフテイコーンを設置しながら、〇時三〇分頃64.17Km地点に到着した。

そこで大崩落にぶつかり前進をはばまれたので崩落前二〇メートルぐらいまで近づいて停車し、徒歩で崩落の縁まで行きバリケード・警戒燈を設置した。

郷右近係長らが右地点についたときにはすでに三重急行の乗鞍行バスが前方の土砂崩落のため道路左側に停車しており、同バスは同係長らが崩落の手前にバリケードを置くのを見てバックしながら引き返して行つた。

その頃同じ土砂崩落をはさんで北側に乗用車の片山達雄が南進をはばまれていたが、同人はパトロールカーの赤と黄色のライトと一人の人が標識を置いたのを目撃し、道路管理者が現場に居ることを知つてやがて土砂が排除されるか救出されるか何らかの方策がとられるのであろうと期待していた。

郷右近係長と青木の両名は、右崩落にあつてさらにその北方にも同じような土砂崩落が発生するかも知れないと予測はしたが、降雨の状況から、右崩落の北側に車両が多数停車しているとはまつたく予想していなかつた。二人は崩落現場に約一〇分間いて引き返した。

(註) その当時〇時四〇分頃、モーテル飛騨から反転南下して来た本件バス集団のうちの六台は、丁度右64.17Km地点の北側に到着したのであつた。

帰路、豪雨と雷鳴は依然としてつづいており、郷右近係長らは七宗橋の南詰で警官に会い、64.17Km地点の崩落と通行止めの事実を伝えた。往路は小雨程度であつた下麻生附近は復路は土砂降りになつており、50.2Km地点では山側から土砂流が民家を突き抜け国道上を川のように流れており、家具がほとんど流されていた。その附近では警察官が子供を背負つて避難させており、郷右近係長らは冠水している路上を前進したが49.8Km地点附近で道路上の流水のため立往生した。数分後、流水にハンドルをとられながらも前進を再開し途中49.7Km地点附近で美濃加茂へ向つて歩いている警察官二名を同乗させ出張所へ戻つた。

帰路に約一時間かかり、一時四〇分頃出張所に着くと松岡・岩田・谷端・塩谷夫婦が居たが、交通止めの措置がとつてなかつたので、郷右近係長の指示で出張所前に北進禁止の看板を出した。

一時五〇分頃村田所長が出張所に到着し、北進禁止の標識をもつと大きなものにするよう指示した。

村田所長が郷右近係長・青木の二人からパトロールの情況を聞いていた二時頃、事務所から派遣された金森係長・杉山係長らが出張所に到着し右情況を聞いて事務所の鈴木課長に報告した。

オ、(第二回パトロール)

二時一〇分頃、村田所長・金森係長ら八名は64.17Km地点の土砂崩落を再度現場確認し、その排除計画を立てるため、事務所からきたパトロールカー一台と出張所のパトロールカー・作業車各一台計三台の自動車に分乗し、出張所には松岡事務係長・岩田・塩谷の妻を残し、第二回目のパトロールに出発した。

出張所を出発する頃はほとんど雨はなく、途中中川辺附近(44.6―45.5Km)では普通の雨の降り方になり、路面から約三〇センチメートルぐらい冠水していた。四九Km地点あたりから非常に強い雨になり、この附近からずつと路面が冠水しており50.2Km地点では三〇―四〇センチメートルぐらいの深さであつた。この地点附近には乗用車が三台ほど停車しており、同地点の山側にある民家の一階部分を裏の沢からの土砂流がつつきつて流れており、同家の商品である日用品・雑貨等が土砂流で流されていた。このような状態で通行不能であつたのでパトロール隊は同地点に約一時間ほど停車していた。その間、無線連絡を試みたが不通であつたので、附近の床屋から電話連絡しようとしたがこれも不通であつた。雨がすこし小止みになつたので瓦礫を乗り越え身の危険を感じながら前進した。七宗橋三叉路(五四Km附近)に来ると雨は小止みになつており、同地点で出張所・事務所と無線交信したが不通であつたので金森係長らは七宗村役場に電話をかけに行つた。金森係長らと別れた村田所長らはさらに前進し、三時三〇分頃、59.6Km附近(鈴ケ谷ドライブイン南)で土砂崩れに会い前進をはばまれ、引返し、六時頃ようやく出張所に帰り着いた。七宗橋から鈴ケ谷への往路は飛騨川の流水が擁壁にぶつかり飛沫が国道上にしぶきを上げて落ちており、五六ないし五七Km地点附近では、飛騨川の水面は路面下約一メトルぐらいであつた。また、同じ往路で五七Km附近および六六Km附近のパーキングに停車していた各三、四台の乗用車に七宗橋の低地部へ避難するよう指示した。八時過ぎ村田所長は本件バス事故を知つた。

(3) 金山工区

ア、(二〇時〇〇分発表の雷雨注意報の伝達まで)

a、(一七日正午まで)

榊原・諸井は一七日午前中103.7Km地点附近の三原地内で花畑の草取作業をしたが、作業中一〇時三〇分頃約三〇分間かなり強い降雨に見舞われたが休憩所はないし、合羽は持つてなかつたので、そのまま作業を続けた。

このとき金金山工区(83.2Km附近)から国道沿いに1.7、8キロメートル北方にある中部電力の大船渡堰堤では一〇時から一一時までの時間雨量二〇ミリメートルを記録している(乙第七号証)。

b、(一七日二一時まで)

一二時三〇分頃榊原らが工区に戻ると出張所の中園らが昼食に寄つており、榊原は妻から一一時一〇分気象台発表の大雨・洪水・雷雨注意報の連絡が出張所からあつたことを聞いた。

一三時から一六時三〇分頃まで榊原は人夫をつれて八二Km地点附近でデリネーターの設置作業をして工区にもどつた。その間諸井は倉庫でデリネーターの修理等をしていた。

一七時すこし前、金山工区附近に夕立のような強い雨があり雷鳴もあつたので翌日が日曜日のことでもあり、道路に不安を感じたので、榊原と諸井は相談して諸井が下呂方面のパトロールに向つた。

一八時三〇分頃諸井が工区にもどり九三Km地点の三ツ渕で小さい石を含む土砂が谷水とともに道路上に側溝から1.5メートル幅に流れ込んでいるとの報告をしたので、一八時四〇分頃、善後措置のため二人で同所にセフテイコーンおよびデリネーターを置きに出かけ、二〇時頃工区に帰つた。

榊原も諸井も、右の土砂の流入はたいしたことではない判断し、工区から諸井が出張所の青木にパトロールの結果異状はなかつた旨報告し、なおその際、三ツ渕に前記のような土砂の流出がありセフテイコーンを設置してきたことも報告した。

このとき、前記大船渡堰堤では一六時から一七時にかけての時間雨量が二五ミリメートル、一七時から一八時にかけての時間雨量が一九ミリメートルを記録していた(乙第七号証)。

イ、(二〇時発表の雷雨注意報の伝達)

金山工区では、どこからも二〇時発表の雷雨注意報の伝達を受けず、諸井は工区から離れている官舎に帰り、榊原は風呂に入りやがて就寝した。

ウ、(下油井地内崩落と二二時三〇分発表の大雨警報等の伝達)

金山工区構内の官舎に住んでいる榊原は、二三時四五分頃事務所の鈴木課長から下油井地内の土砂くずれを知らせる電話を受け、金山建設および大脇建設に重機の手配をするよう指示を受けた。

榊原は諸井を工区から七、八〇〇メートル離れた構外の官舎に自転車で呼びに行き、二人で自動車を運転して崩落現場に向い、一八日〇時二〇分頃78.45Km地点の崩落現場に到着した。同崩落は山側から石を含んだ土砂が川側のガードレールの端で膝ぐらいの高さに崩れてきてきていた。榊原らは車に飛び乗り直ちに工区に引き返した。

工区に帰つて榊原は金山建設と大脇建設に重機の手配を頼み、諸井は事務所の鈴木課長に崩落現場の状況を報告した。そして建設省名で1.3メートル×1.7メートルの大きさの交通止標識を作り、それを置きに工区を出て南進し金山町井尻地内の県道との三叉路(82.8Km)前まで来ると警察の車が路肩から車輸を落していたので、手伝つて引き上げ、同地点に前記交通止標識を設置し警察官といつしよにバリケードを設置した。この時一時四〇分頃であつた。

この後、榊原らは崩落現場(87.45Km地点)へ行つたが、建設業者がまだ来ていなかつたので工区にもどり、再び金山建設に重機の手配を要請したころ、同建設の前が水につかつており明かるくなるまで出られないとの返事であつた。

四時三〇分頃、金山建設の重機が崩落現場に到着し排土作業を開始したが、榊原らはこの時になつて初めて四五〇メートル南側の七八Km地点にも土砂崩落があり、それが事務所から連絡を受けた下油井の崩落であることを知つた。

榊原らが本件バス事故を知つたのは一一時頃であつた。

(三)  警察・消防関係

(1) 白川警察官派出所

加茂警察署白川警察官派出所(岐阜県加茂郡白川町所在。勤務警察官三名。以下派出所という。)では一七日八時一五分から高橋巡査部長が午前中平常勤務をし、午後は退出した。

片桐巡査は当直勤務であつたので八時三〇分から翌朝八時三〇分までの勤務についていた。

派出所附近は同日午前中雨は降らず午後から降りだした。

一七日二三時五分頃派出所に所轄の下油井駐在所勤務の幸野巡査から下油井で交通事故が発生したとの連絡が入り、これを受けた片桐巡査は、派出所隣りの官舎で一七日二二時三〇分発表の大雨警報が二二時四〇分頃通報されたため待機していた高橋巡査部長を呼びに行つた。

高橋巡査部長は下油井の事故現場に急行すべく装備を点検していたところ、二三時二〇分頃モーテル飛騨から電話があり、下油井で土砂崩れがあり交通が渋滞しているので交通整理に来てほしいとのことであつた。

そこで高橋巡査部長と片桐巡査は、駐在所からの前示報告が土砂崩れを原因とするものであることを知り、二三時二五分頃加茂警察署(同県美濃加茂市所在)に連絡し、建設省の出先機関への通報方を依頼したうえ、交通止標識を自動車に積んで派出所を出発し、先ず二三時三〇分頃飛泉橋東詰めに北進禁止の標識をたてたのち、雷を伴つた相当強い、雨の中を、普通の速度では走れないので時速二〇―三〇キロメートルで北上した。

途中、勘八地内(69.5Km、69.8Km地点、第二回検証調書第一〇見取図(2)、(3)の写真)で道路上に土砂が流出してきており、大利地内(七一Km附近)では民家が三軒ほど流水に洗われていた。

モーテル飛騨(75.6Km)の附近では駐車場および路上にバスを含む車両が多数駐車しており、その北方には異状はなく、二三時五〇分頃下油井の崩落(78Km)地点に着いた。

右崩落は山側から川側のガードレール附近にかけ斜めに土砂が堆積しており幅は三〇メートルくらいに及んでいた。

高橋巡査部長らは崩落の二〇―三〇メートル手前で車を降り、徒歩でその崩落の川側の低い部分を越えて渡り坂東橋北側78.45Km地点の土砂崩落北方約三〇メートルの地点に、さきに駐在所の幸野巡査が立てていた工事用の看板をさらに道路中央寄りに通行止の趣旨で立て、一八日〇時一〇分頃駐在所に赴いたところ、間もなく幸野巡査が帰つて来た。

高橋巡査部長は駐在所から加茂署に電話を入れ、建設省への手配の有無を確認したところ、すでに出発したとの返事であつた。

七八Km地点の崩落の白川口寄りに停滞中の車両の運転手から飛泉橋の南にも崩落のあることを聞き、高橋巡査部長らは右停滞車両の整理を幸野巡査に頼み、飛泉橋南へ急行した。

〇時五五分頃モーテル飛騨に立ち寄り、駐車車両の運転手二〇名ほどをモーテル飛騨の軒下に集め、飛泉橋南にも崩落があり、そこの土砂排除後でなければ下油井の土砂は排除できず、開通は朝までかかる見込であるから慎重に行動するよう警告を与え、一時二〇分頃白川口駅前に到達し同所でバスの交通整理をして南下、飛泉橋の東詰めまで来た。同所では消防団の鍋島厚吉が立つて南進車両を交通止しており、同人から下山地内でバス六、七台等の車両が土砂崩れにはさまれており、消防団が現場をみにいつていると聞いた。

高橋巡査部長らは現場を確認するため鍋島に同所で引き続き南進車両を規制するよう頼んで下山方面へ向つた途中、鈴木石油店前(66.0Km)で北進して来る消防団に会い、バスが土砂崩れにはさまれて動けないでいることを聞いた。

高橋巡査部長らがさらに南下し65.4Km地点まで来ると崩落があり、現場を見ているうちに同地点の山側から土砂が落ちて来たので崩落からのがれることに精一杯で、急拠自動車をバックして対策をねるため消防団本部のある消防会館まで戻り、そこで協議中、土砂排除のため大脇建設へ連絡すると、重機は下油井の土砂排除に出動しているとのことであつた。協議の場では、土砂崩落にとじ込められたバスの乗客等を下山堰堤を渡り高山線の線路伝いに避難させる案が考えられ、高橋巡査部長の指示で巣山巡査が白川口駅に状況を聞きに行くと、高山線も三箇所ほど土砂崩れがあり通行不能とのことであつた。

高橋巡査部長らは崩落に閉じ込められたバス集団等の車両が飛騨川の水で冠水し、浮いて流されることを心配していたが、現地は堰堤があつて高くなつており、堰堤で水位を調節でき大丈夫であると聞き安心した。

そのうち、白川の町のほうで民家が流されたりし、派出所附近も冠水してきたので高橋巡査部長らは派出所の備品を運び出すとともに、町のほうの救助作業に当つた。

やがて二時一五分頃本件事故現場附近で発煙筒がたかれ、異常事態が発生したらしいとの報が中部電力の上麻生発電所下山堰堤から入つたので、巣山巡査と数名の消防団員が現場に向つたが、65.82Km地点(第二回検証第八見取図(14)の写真)に土砂崩れがあり附近は冠水して前進不能であつたため引き返した。山越えして反対側に出る案も考えられたが、夜間、雨の中を険しい山の中を行くのはかえつて危険だということで採用されなかつた。

一八日五時頃、消防団本部のものからバスが落ちたことを聞き、当時警察電話は不通となつていたので白川口駅の鉄道電話を利用して加茂警察署に連絡した。

(2) 下油井警察官駐在所

加茂警察署下油井警察官駐在所(以下駐在所という)勤務の警察官幸野巡査が駐在所にいると、一七日二三時五分頃近所の杉山幸司が来て高山線に土砂崩れがあり危険だから駅に連絡してくれと頼んだ。幸野巡査は直ちに下油井駅(国鉄高山線)に電話連絡するとともに、一七時ごろから降り始めた雨がその頃激しく降りだしたところでもあつたので高台になつている駐在所から坂東橋先の飛騨川対岸の国道を見たところ、交通渋滞していた。同巡査は交通事故が発生したと思い、直ちに白川警察官派出所の片桐巡査に電話し、交通事故が発生したから出動してくれるよう要請した。

その後豪雨の中を坂東橋の方へ確認に向うと、橋上から国道上の状況が見え、橋の位置から国道上南方約一〇〇メートルの地点に大崩落(後に78.0Kmの崩落と判明)を発見し、直ちに引返して、白川派出所に対し、交通事故ではなく土砂崩れであると訂正報告し、建設省等への重機の手配を依頼したが、高橋巡査部長はすでに下油井に向つて出発したとのことであつた。

そこで幸野巡査は消防団の安江一栄に下油井駅前の消防団車庫でサイレンを鳴らしてもらい、消防自動車で坂東橋北方金山方面のパトロールに出発した。

幸野巡査は坂東橋北方約三〇メートルの所にも小規模の崩落(78.45Km)を発見したが消防自動車で乗り越え、同崩落から北方約三〇メートルの所に南進を禁止する趣旨で附近にあつた工事中の大きな看板を道路中央部分に設置したうえ、途中出会つた南下中の三、四の車に対し下油井駅の方に避難するよう指示しつつ、村君の金山町境(80.2Km)までパトロールしたが、前記のほかには異状は認められなかつたので駐在所にもどつた。

帰路幸野巡査は坂東橋の手前で立往生している車を坂東橋を渡り下油井駅前まで誘導した。

その後坂橋東詰め附近の前記高山線上の土砂崩れ箇所で附近の民家に土砂流が流れ込んでいたので、その対策のため駐在所にもどると白川派出所の高橋巡査部長がいた。

(3) 消防団

一七日、白川町の空模様は一一時頃までは雨がなく雲つていたが、その後一五時頃まで断続的に相当強い雨が降り、一五時頃一時青空もみられ雨はあがつた。一九時頃から再び相当強い雨が降つたり止んだりし、二二時頃から雷を伴なう激しい豪雨となり、一八日〇時頃にはバケツの水をぶちあける様な激しい雨になつていた。雨は一八日三時頃まで降り続いた。

一八日〇時ごろ白川町消防団副団長近藤邦光は、自宅から白川の増水の激しいのを発見し、消防団服を着て町役場に連絡のため急行した。この時役場で下油井方面の国道上に土砂の流出があつたことを聞いた。近藤は大至急飛騨川の水位を確認に走り、白川と飛騨川の合流する地点の低地にある末広屋の風呂場の床下三〇センチメートルぐらいまで水位があることを確認し、直ちに同消防団第一分団第二部々長浅井邦夫を呼起して、消防会館に走り、同所に出て来た浅井と相談し、〇時一〇分頃消防団員召集のため天神橋南詰めのサイレン塔のサイレンを五、六秒吹鳴した。

同消防団第二部の団員今井昭二は、一七日二二時頃から降雨が激しくなつたのでやがて召集のあることを予期し待機していた。そして右サイレンを聞き急いで消防服に着替えて消防会館に行くと、そこには既に五、六名の団員が集合していた。

右サイレンの吹鳴中、今藤は名倉発電所に電話して飛騨川上流の雨量を確認した後、前記場所の水量を確認に行くと、末広屋の風呂場床下はすでに水につかつていた。家財道具を運び出している民家もあつたので消防団員数名が手伝いに向つた。

(註) 本件バス集団の六台のバスが南下して飛泉橋を通過したのは右サイレン吹鳴後の〇時一八分頃であつた。

浅井は白川派出所に電話して洪水に備え消防団の出勤していることを連絡すると、高橋巡査部長の妻が出て同巡査部長は下油井に出ているとのことであつた。

白川口駅北方約一〇〇メートルの地点の町営駐車場(第二回検証第九見取図(11)の写真)に駐車している車両が一、二両あつたので数名の消防団員が行き、同所は飛騨川の河床部分にあり、飛騨川が増水すると冠水するので、駐車々両を同所から避難させた。この往復路白川口駅前には知多観光バスを含む多数の観光バスが駐車しており、往路には消防自動車が通れないほど混雑していたので、交通整理をして通つた。

その後消防団は団員を数名ずつ民家に配置し、川股神社前で東白川加子母方面の通行を禁止した。

一時すこし前今藤ら団員数名は消防会館前から飛泉橋を渡つて南下していく車両を認めた。消防団員はそれまで白川口駅前に多数の車両が駐車していたことと当夜の雨の激しさから当然飛泉橋南の山場の多い河岐地区は通行できないのであろうと思つていたところ、このように通行(南下)車両があつたため河岐地区が開通になつたかと思い、小原第三地区(天神橋南詰め附近から鈴木石油店附近)および国道四一号の状況を調べに、消防団第二部第二班係長の山口直次・今井昭二・鍋島厚吉ら八名が消防自動車に乗り同地区に向つた。この時丁度一時頃であつた。

右飛泉橋通過車両中に本件バス集団がいたか否かについて検討すると、本件バス集団が飛泉橋を通過したのは前記認定のとおり〇時一八分頃であること、消防団員が右飛泉橋を車両が通過するのを目撃する前に白川口駅前で知多観光バスが駐車していたのを見ており、同バスは本件バス集団の後から来ていた八・九号車と推認され、そうすると知多観光バスが白川口駅に着いた頃には同駅前を止らずに通過した本件バス集団は、同所から一〇〇メートル南にある飛泉橋はすでに通過した後であると推認されること、消防団員が飛泉橋通過車両を見たのは前記のとおり一時少し前頃であると認められること等を綜合すればその中には本件バス集団の六台はいなかつたものと認められる。

今井昭二らが消防自動車で国道四一号を美濃加茂方面へ進んで行くと65.25Km地点で山側の谷になつた部分から土砂が水に流され路上へ堆積しており、左側の山側車線は大型車両以外は通行出来ないほどであつたが、川側の右側車線には頭大の石が数個ある程度で石をどかして通過した。

このころ雨は非常に激しく降つており、消防自動車のワイヤプレードを高速に作動させても前がよく見えないほどであつた。

右地点を通過しさらに南進し、上麻生の中部電力の下山堰堤の所まで来ると前方に乗用車・バス・トラック等が多数停車しており消防自動車は前進不能で同所に停車した。右地点から消防団の今井と波多野が徒歩で駐車車両群の最先頭まで行くと、先頭の乗用車の四〇―五〇メートル前方に大崩落(64.17Km地点)があつた。

先頭附近にいた乗用車とトラックにヘッドライトで照してもらうと、右崩落は山側から川側のガードレール一杯まで山の傾斜が続いている様になつていた。

右64.17Km地点から堰堤附近の間にバス五、六台・トラック二、三台・三〇台近くの乗用車が駐車していた。

右64.17Km地点は通行不能であるし、消防団が通過して来た65.25Km地点は徐々に土砂が堆積して来ており時間がたてば通行出来なくなるおそれが十分あつたので、山口係長の指示で団員が手分けして駐車々両の運転手に白川口駅方面へ脱出するよう呼びかけた(乙第一〇号証、証人今井昭二の証言)。

今井は川側を、波多野は山側をうけもち、順に窓ガラスを叩いて寝ている運転手を起し、白川口駅方面へ移動するよう指示した。

消防団が警告を与えた結果、後部にいた五、六台の乗用車が白川町方面へ引き返して行つた。消防団の鍋島は飛泉橋で南進を禁止するため先に同所方面に向つた。

消防団員は駐車々両に警告を与えた後、同団員らも崩落により閉じ込められるのを恐れ、堰堤附近から消防自動車で白川町の町中へ引き返す途中、65.25Km地点で車両が土砂でスリップして立往生している軽自動車を助け、川側まで拡がつて来た土砂を乗り越えて帰つた。途中、鈴木石油店前(66.0Km)まで来ると南進して来る高橋巡査部長らの自動車に会い、前記区間にバスがとまつており白川口駅前まで戻るように言つたが最後まで見届けてこなかつたので行つてくれるよう頼んで消防会館にもどつた。

その間、その後も、民家から応援の要請があり、消防団は四〇数名が諸所に配置につき救援・警戒に忙しかつた。消防団員のみでは手が足りず、団員以外の一般住民にも協力を要請した。高橋巡査部長から応援要請があり、腹部附近まで冠水した中を消防車で警察の車を消防会館まで引つ張つた。

二時一五分頃下山堰堤から派出所に下山国道(本件事故現場附近)で発煙筒らしきものを発見したとの連絡が入り、巣山巡査、消防団の今井・鍋島ら数名が現場に向つたが、65.82Km地点附近で土砂崩れと冠水のため前進できず引き返した。

三時三〇分白川町役場が避難命令を出したので団員は分散して連絡し、住民を誘導し、五時頃、鍋島らが65.82Km地点の崩落を徒歩で越え、下山堰堤まで来ると、附近のバス乗客からバス転落の事実を知らされた。

鍋島ら数名の消防団員は乗客を白川口方面へ誘導し、白川中学校体育館まで避難させた。

4、事故後の道路管理における措置

(一)  基本姿勢の変更

国道四一号の管理は本件事故後にいくつも大幅な変更がなされた。

なかでも最も重要なのは道路管理の基本姿勢の変更である。従来の道路管理は道路の通行の確保をいかにはかり、道路に障害が発生した場合いかに迅速に通行を回復させるかに主眼があり、従つて、道路上に現実の交通障害が発生し、物理的に通行が不能となつて始めてその部分のみの通行止の措置をとつていた。

これが本件事故を契機として、気象情報を重視し、その掌握に積極的に努力すると共に崩落等の危険が予測されるような場合には崩落等現実の交通障害が発生していなくても交通安全確保の見地からその通行を規制するようになつた。

その諸点は次のとおりである。

(二)  予備規制の実施

(1) 建設省は本件事故の翌日「道路の災害による事故防止の強化について」(昭和四三年八月一九日建設省道総発第二四六号建設省道路局長から地方建設局長あて、甲第一四号証)と題する通達を出し、道路管理者に対し事故防止のため

①危険箇所の点検と法面防護工・根固擁壁・排水溝等の補強

②気象庁・県警察本部および消防機関等と密接な連絡をとり、道路情報機関を設け、じん速な交通規制体制の整備

③災害発生が予想される場合における危険箇所の重点パトロール

を指示した。

次いで事故一ケ月後の昭和四三年九月一八日「道路の災害による事故防止強化対策に関する実施要領について」(昭和四三年九月一八日建設省道一発第三二号道路局国道第一課長から道路部長あて、甲第一四号証)と題する通達を出し、危険箇所の総点検・交通規制基準の作成・道路情報モニターの委嘱等を内容とする情報連絡・パトロールの強化の四点についてその実施要領を示した。

さらに同四四年四月一日「異常気象時における道路通行規制について」(昭和四四年四月一日建設省道政発第一六号道路局長から地方建設局長あて、甲第一四、第一五号証)と題する通達を出し、異常気象時通行規制区間の指定および道路通行規制基準の作成等について指示した。

右昭和四三年九月および同四四年四月の通達によれば、道路およびその周辺の状況(道路の構造・地形・地質・過去の被害の程度・路線としての重要性)から、異常気象時において被害が発生するおそれが著しい箇所を含む相当の区間を異常気象時通行規制区間として道路局長の承認を受けて指定し、規制区間ごとに、過去の災害に関する資料から、降雨量・洪水流量・風速・積雪量・震度等に応じた災害の発生状況を想定し、特に降雨量を対象としてこれに対応した規制のための基準を関係諸官庁の意見も聞いた上で作成し、それらが一定の基準値に達した場合には、現実の通行障害が発生していなくても道路の通行を規制(通行止めおよび通行注意)するという制度である。

(2) 国道四一号事務所管内では七宗橋先(54.7Km)から金山町井尻(81.6Km)間(白川町の町中を除いてさらに二つに分けられる)、金山町(87.7Km)から下呂町(105.6Km)間および下呂町(110.5Km)から東上田(114.0Km)の三つの区間を右予備規制の指定区間とし、その区間内の雨量が速続雨量で

①六〇ミリメートルに達したときに通行注意

②八〇ミリメートルに達したときには通行止

という基準が定められた(昭和四七年夏頃この基準値は順次連続雨量八〇ミリメートル、一二〇ミリメートルに改められた)。この予備規制をより効果的に実施するためにいくつかの具体的な措置がとられた。

ア、テレメーターの設置

前記三つの規制区間の雨量を把握するために柿ケ野隧道白川口町側出口飛騨川対岸(62.4Km附近、第二回検証第六見取図(10)の写真)、下呂町西上田地内(112.0Km附近、国道より益田川をはさんだ対岸、第二回検証第一三見取図(4)の写真)にテレメーターが設置され、出張所事務室内に一時間毎に情報が送られ自動的に記録されている。

イ、道路情報板の設置

道路の要所々々に通行車両に道路の状況を知らせるために道路情報板が設けられた。出張所前(39.7Km)、鈴木石油店前(66.0Km)、モーテル飛騨(67.5Km)、金山町井尻三叉路(82.7Km)等である。

これらの道路情報板には、障害発生のおそれある区間と理由等が表示されるが、その内容は出張所の職員または管理を委嘱された道路情報モニターの手によつて板面に表示されることになつている。

ウ、道路情報モニターの委嘱

台風雨・集中豪雨・降雪等により落石・土砂崩壊等の発生のおそれの高い箇所附近に居住する民間人を道路情報モニターに委嘱しておき、当該地附近の道路情報の収集および通報を行わせるとともに必要に応じて道路標識等の設置・取りはずしを依頼する制度である。

国道四一号では、七宗橋附近(54.4Km、第二回検証第五見取図(8)の写真)の民間人、その他沿道のガソリンスタンド・モーテル・ドライブイン等の施設関係者、電話所有者等が道路情報モニターとして事務所から委嘱されている。

エ、通行止めゲイト

七宗橋近くの54.75Km地点(七宗町本郷部落附近。第二回検証第五見取図(10)の写真)、金山町の町並みをはさんで81.64Kmと87.7Km地点(第二回検証第一〇見取図(11)、(9)の写真)および下呂町の町並みの南はずれ105.6Km地点(第二回検証第一三見取図(3)の写真)にそれぞれ通行止めの規制を徹底させるためにゲイトが設けられている(金山町地内の二つのゲイトは昭和四七年八月中旬頃に設置されたものである。)。

通行注意の雨量を越えると出張所職員がゲイト近くに待機しており、規制雨量を越えたとの連絡を受けて、通行止めのバーを道路におろし車両の通行を安全に遮断するものである。

七宗橋附近のゲイト・金山町地内北側のゲイトは北進を、その余のゲイトは南進車両を規制するもので、ゲイトの上部には左・中・右側の三欄に分け、通行注意および通行止めとその理由を示す字幕が設備されている。

(三)  気象情報の重視と伝達の迅速化

(1) 建設省と気象庁は本件事故後に協議し、災害の予想される時における気象情報の伝達を円滑かつ迅速に行えるような協力体制を作りあげた。

これは事故後における気象庁の「道路情報対策に対する協力について」(気企第六六四号昭和四四年一〇月九日、甲第三五号証)と題する通達となつて端的に表明されているが、この中で気象庁は原則として一府県予報区担当官署につき、建設省出先機関一事務所(河川事務所を含むが、予警報一斉伝達装置設置官署でその容量に余裕のある場合は河川関係および道路関係各一箇所とできる)に対し、注意報・警報・情報を提供することにした。

(2) 事故後になつて気象台と気象情報の連絡を受ける側との間に同時通話装置が取り付けられ、同時に多数の通報先へ気象情報が伝達されるようになり、従来気象台―事務所間で四〇分ないし一時間を要していたが大はばに時間短縮された。

また気象情報重視という観点から事務所の下部機構である各出張所にも様式一号用紙(乙第三号証の一ないし四の型式の用紙)が備えられ、気象情報の全文が末端の出張所まで確実に伝えられるようになつた。事故当時は各出張所に対する気象情報の伝達は概要あるいはタイトルのみの伝達に終ることも珍らしくはなかつた。

(四)  パトロールの強化

昭和四三年八月一九日建設省は前記「道路の災害による事故防止の強化について」と題する通達を出し、その中で災害が予想される時期におけるパトロールの強化と危険箇所の総点検を指示した。

従来災害の予想されるときのパトロールは異常時パトロール一本で処理して来たが事故後は前記の三態勢に応じ、注意パトロール・警戒パトロール・非常パトロールに細分され、気象注意報が発せられた場合注意パトロール態勢に、警報が発せられた場合警戒パトロール態勢に入る等状況に応じて各パトロール態勢に入る基準が細かく検討された(甲第七号証)。

(五)  関係諸機関との連絡強化

気象台のほか右沿道を管理する各警察署・各市町村との連絡を強化し、異常事態発生の場合の情報交換、交通規制の場合の相互連絡を緊密にするようになつた。

現在では前記の予備規制の実施は警察と連絡をとりながら行つている。

また、道路に関する情報の収集および提供を行なうための機関として、昭和四四年六月一〇日建設省道路局路政課と八つの地方建設局・北海道開発局および三道路公団に道路情報センターが設置された(昭和四四年六月三日道政発第三五号各地方建設局長、北海道開発局長、三公団総裁理事長あて道路局長通達、甲第四三号証の三六、甲第一四号証)。

以上の事実が認められる。

六、原告らは、本件事故は国道の設置・管理に瑕疵があつたことによつて生じたと主張し、被告は、瑕疵の存在を否定し、事故は不可抗力によるもので、それ以外に原因があつたとすればそれは旅行主催者および運転手らの過失であると主張している。よつて、叙上認定の事実に基づき、以下順次判断する。

1、本件土石流について

本件事故は、バス集団が縦列となつて国道上に駐車していたところ、午前二時一一分頃、国道東側急斜面の沢に突如として大量の土石流が発生し、二台のバスがこの土石流の直撃をうけ、瞬時のうちに飛騨川へ転落、水没したものである。

事故発生の直接の原因は土石流の流出であつた。

この土石流は、国道から約六五〇メートルおよび約五八〇メートルという沢の遙か上方二箇所の急斜面に堆積していた表土が、折柄の激しい集中豪雨によつて沢へ向つて崩落し、これとともに、五〇年ないし一〇〇年の年月を経て以前から沢に堆積しており、右のような集中豪雨によつて不安定な状態となつていた三、〇〇〇ないし七、〇〇〇立方メートルという大量の崖錐様堆積物が、秒速約一〇メートルの速さで一挙に流出したものであつた。

そこでまず、この土石流の発生が予見可能なものであつたか否かを検討するに、乙第一三号証(土石流現象を専攻する工学博士大同淳之の意見書)には、「土石流の発生と降雨量の関係について―土石流を発生させるに至る降雨量は、土石流の性質によつて異なり一概にはいえない。渓流堆積物の流動による土石流に限つたとしても、流域の大きさ、形、渓流の勾配、堆積物の量とその性質によつて違う。

また、いままでに起つた事例について調べると、単位時間に降る降雨強度そのものが大きいことも重要であるが、その雨の前の雨量と継続時間もまた土石流の発生に関係する。」「本件沢について、その地質条件、地形条件等を考慮して、土石流の発生、時期を事前に予知できたか―発生前に現地を見ていないが、土石流の発生、時期を予知することは、現在の段階では困難であると考える。土石流は現在一部の発生機構が判つただけで、その全容は不明である。発生機構の明らかな堆積物の流動による土石流に限つても、その機構は複雑な自然の条件を極めて単純化したモデル実験の結果からの類推である。これを予知に用いるためには、土石流の発生に関する各要因の相対的な重要さの不明確さ、モデル実験と実際とのギャップをなくさなければならず、その解決に困難があることから、現在の段階では予知は難かしいといわざるを得ない。」という記載部分があるのであつて、これと当審における証人大同淳之の証言とを併せ考えると、いわゆる土石流に関する現在の学問的水準は、渓流堆積物の流動による土石流と降雨量との関係に限つてみても、特定の地域で、どれ丈の雨量が降れば発生するのか、未だ不明であつて、その発生を予見し得る域にまでは到達していないものと認められる。

そして、本件沢につき、同証人は「(風化の進んだ沢、長年にわたつて土石が堆積しているところ、雨のよく降るところ)、こういう条件のところが、日本中いつぱいあるんです。だから、それだけでは土石流が起りますよという判定にはならないんです。」と述べている。この証言と、さきに認定のように、本件沢には断層があるけれども、それはわが国の古生層で構成されている地域の平均に較べて決して多いとは言えないこと、これらの断層は一億年ないし六、〇〇〇万年前にできた古いもので、その断層部分は右の長い年月を経て流紋岩類と同程度の硬さに再堅化しており、わが国にある多数の他の沢と較べて地質的に特に脆い沢であるとは認められないこと、並に本件当夜の集中豪雨は、すでに土石流々出の午前二時一一分までに、時間最大降水量九〇ミリメートルに達しており、後記のように、本件沢附近の地域において通常予測され得る範囲を越えた異常に激しいものであつたことを考え合わせると、その発生を事前に予見することは不可能であつたというべきである。

これに対して、地質学者である証人河井政治は「本件の沢で、この事故を起したような土石流の発生は予見し得たものであるかどうかを伺いたいんですけれども―それは予見できることなんです。この地域全体を通してみて、古い地層よりも新しい地層がその最上部にあるとするならば、そういう土砂が速やかに発生するという条件は地層が新しければ新しいほど、こういう条件は起きてくるということは予見できます。」「そういう堆積している土砂が流れ出すという危険はかなり強いわけでしようか―それはいろいろ沢の条件、いわゆる段傾斜を示して参ります沢とか、沢は小さくとも急勾配を示している沢とか、そういう条件がございますが、事故を起した沢を考えた場合には、相当急勾配の沢であり、短い沢であると。ですから堆積したものも、その勾配の尺度によつて、それに匹敵する雨量があれば下へ降ちてくるという可能性は十分あり得たと思います。」と証言しているけれども、同証人が「新しい地層」と言う濃飛流紋岩類は、新しいとは言つても、さきに認定のように、一億年ないし六〇〇〇万年前という古い時代に形成されたものであり、同証人が「予見できる」と言つているその内容は、本件沢は相当急勾配であるから一定量以上の雨が降れば土石流が発生する可能性があるというにとどまり、その一定量の雨量がどれだけかを予測し得たとするところはないのであるから、これをもつて前示判断を左右することはできない。

以上のとおり、本件土石流の発生を予見することは不可能であつたというべきものであるから、これが可能を前提とする原告らの主張は採用できない。

2、その他の瑕疵について

以上のように、本件事故発生の直接の原因は土石流の発生であり、それは予見不可能であつたのであるが、そうであるとしても、もし、本件国道の設置・管理においてそれ以外の点に瑕疵があり、その瑕疵と右予見不可能な現象とが関連競合して本件事故が発生するに至つたという事実関係が認められる場合には、なお、事故は国道の設置・管理に瑕疵があつたために生じたというに妨げない。よつて、この点についてさらに検討をすすめる。

(一)  本件国道の危険性について

(1) 事故当夜の崩落

前示土石流の発生は別にしても、本件国道においては事故当夜、54.22Km地点から78.45Km地点までの区間に一九箇所の崩落が発生した。その土量は一一立方メートルから一、〇一〇立方メートルに及ぶものである。このことは、さきに認定のように、本件国道が東海地方と北陸地方を結ぶ重要幹線道路で完全舗装された交通量の多い道路でありながら、右の区間においては、降雨があれば国道上にたやすく崩落を見るような危険な道路ではなかつたか、との疑いを生ずる。

この点について、被告は、右の崩落は異常気象のためで、通常予測される程度の降雨によつて発生したものではないから、瑕疵があつたことにはならないと主張する。よつて当夜の気象について判断する。

(2) 事故当夜の気象

本件国道に沿う右崩落発生箇所附近は、飛騨山脈を中心とする中部山岳地帯と濃尾平野のほぼ中間に位し、東濃山間部と呼ばれる。この地域は、わが国では比較的降雨量の多いところに属するが、それでも同じ岐阜県下の揖斐川・長良川・牧田川の各上流域と較べればこれらの地域ほど多いところではない。この地域における従来の降雨量の歴史はつぎのとおりである。

(日最大降水量) 単位ミリメートル

観測地名

上麻生

下麻生

黒川

金山

観測開始年

昭 四〇

明 四五

昭 一七

明 二七

1

一八九

昭四二

一九八

大四

一九八

昭三六

昭四二

二六三

大四

昭三三

2

一四〇

昭四一

一八五

大四

一八六

昭三九

二二五

明四三

3

一〇二

昭四一

一六七

昭二八

一六二

昭四二

一六九

昭四二

4

九四

昭四〇

一四八

昭二七

一五七

昭三四

一六三

昭三六

5

九一

昭四〇

一二八

昭三六

一五〇

昭二〇

一五二

昭三八

(乙第七号証)

(時間最大降水量) 単位ミリメートル

観測地名

久田見

富加

観測開始年

昭 三一

昭 三一

1

五八

昭三四

六一

昭三六

2

五五

昭三三

五六

昭三八

3

五三

昭四二

五〇

昭四二

4

五〇

昭四二

四八

昭三一

5

四六

昭三一

三九

昭三七

(乙第七号証)

これによれば、前示崩落を見た地域においては、日最大降水量においては二〇〇ないし二六〇ミリメートル、時間最大降水量においては観測期間が昭和三一年からという比較的短期間のものであることを考慮に入れ、ある程度の余裕を見て、六〇ないし八〇ミリメートル程度の降雨が時としてあり得べきことは通常予測し得たものというべきである。

ところで、これを本件事故当夜の集中豪雨と較べると、当夜の降雨は地域的に狭く、短時間に集中し、降雨強度の極めて強かつたことが最大の特徴で、日降水量は三八二ミリメートル(上麻生)、時間降水量は九〇ミリメートル(上麻生)に達したのであるから、これではもはやこの地域で通常予想され得る限界を越えた異常な集中豪雨であつたといわなければならない。

もつとも、右の程度、さらにはそれ以上の降雨が同じ岐阜県下に嘗つてなかつた訳ではない。その事例はつぎのとおりである。

(日最大降水量) 単位ミリメートル

順位

降水量

観測地点

観測年

1

六〇七

郡上郡八幡町(八幡)

明二六

2

四二〇

美濃市(美濃)

昭二九

3

三八五

揖斐郡春日村(春日)

昭三四

4

三七五

揖斐郡藤橋村(東横山)

昭一〇

5

三六九

同右

昭三四

(時間最大降水量) 単位ミリメートル

順位

降水量

観測地点

観測年

1

一一八

桑名

昭二九

2

一一二

湯屋

昭三三

3

一〇八

大之田

昭二九

4

一〇八

黒津

昭三五

5

一〇八

春日

昭二八

しかしながら、これらの降雨は同じ岐阜県下とは言つても、飛騨川流域とはかなり距離があり、一般的により降雨量の多い長良川・揖斐川流域の記録で、気象上同一範疇の地域に属するものとは認め難いので、これをもつて前示判断を左右するには足らない。

そうすると、前示一九箇所の崩落は通常の予測を越えた異常気象によつて発生したということになりそうであるが、そのうち左記四箇所の崩落は、さきに認定のとおり、崩落発生の時刻が判明しているので、それが通常予測される程度の雨量で既に発生したか否かにつきさらに検討を加える必要がある。その関係はつぎのとおりである。

崩落地点(Km)

78.00

78.45

65.25

64.17

崩落時刻

二三時〇五分頃

二三時五五分頃

〇時一〇分頃

それまでの時聞最大降水量

(ミリメートル)

三〇

(観測地点名倉)

七八

(観測地点上麻生)

七八

(観測地点上麻生)

それまでの九時からの降水量

(ミリメートル)

四七

(同上)

一六三

(同上)

一七八

(同上)

それまでの連続降雨量

(ミリメートル)

三二

(同上)

一一八

(同上)

一三三

(同上)

(別紙13乙第七号証三三頁から)

1

2

3

4

5

6

粁標

七八・五

九七・三

六四・四

七九・四

六四・二

六八・〇

推定土量(m3)

4.5

400.0

100.0

696.0

160.0

18.0

観測地点

黒川

下原

上麻生

名倉

名倉

黒川

連続降雨量(mm)

6.8

23.0

199.7

158.5

26.8

154.0

時間最大降雨量(mm)

3.8

8.8

29.0

65.5

8.5

56.0

(別紙10の一覧表から)

これによれば、これらの崩落は日雨量、時間雨量のいずれにおいても通常予測し得る範囲内の降雨によつて既に発生したものというべきである。

(3) 事故前の崩落事例

本件国道が「指定区間」に指定された後の昭和四一年七月一六日から昭和四三年六月一九日までの約二年間に、事務所管内の本件国道では、別紙10のとおり、記録に残されたものだけで八件の崩落が発生している。そのうち降雨が原因と思われるものに左表のとおり六例がある。

これらの崩落は、いずれも、日雨量および時間雨量のいずれにおいても、前示のとおり、この地域で通常予測され得る範囲内の降雨によつて発生している。

(4) 以上のように、本件事故前の六件の崩落および事故当夜の四箇所の崩落は、通常予測され得る範囲内の降雨を原因として発生しており、崩落の規模は4.5立方メートルから六九六立方メートルに及ぶもので、崩落の場所は、①本件国道の64.17Km地点(白川町下山)から68.0Km地点(同町勘八)までの3.83キロメートルと、②78.0Km地点(白川町下油井)から80.0Km地点(同町村君)までの二キロメートルの区間に集中しているのであるから、本件国道はこれら①②の区間地域において降雨の際には崩落のおそれがあり、その崩落に伴う事故発生の危険が通常予見し得たものというべきである。

このようにして、本件国道には予見可能な危険が存在していたのであるが、本件事故はこの危険性、即ち国道上の崩落が直接の原因となつて発生したものではない。しかしながら、本件バス集団はこの種の危険性、即ち、右危険地域内に在る64.17Km地点の崩落によつて国道上に停滞を余儀なくされ、そこへ土石流の直撃をうけるに至つたものであるから、この危険性即ち瑕疵さえなかりせば本件事故地点を無事に通過して事故の発生を免れ得たものというべく、右の瑕疵が本件事故の一因をなしているといわなければならない。

また、右のような危険は現に存在したのであるから、かかる国道を管理する者としては、現に存在する危険性の内容・程度に応じて適宜適切な管理方法を実施することにより、当該危険性を補填して通行の安全を確保しておくべきであつたのであり、もしその点に欠けるところがあればその管理の面にも瑕疵があつたといわなければならない。よつて当時の管理方法とその実施状況について検討する。

(二)  本件国道の管理について

(1) 道路管理関係者らの行動

本件国道の管理を担当していた岐阜国道工事事務所、美濃加茂国道維持出張所、金山工区の各所属職員が、八月一七日午前から本件事故発生の八月一八日午前二時一一分ないし同日夜明け頃までにとつた行動の経過はさきに認定のとおりである。この認定の事実によれば、当時の管理態勢を前提とする限り、その間各人の行動に過失ないし客観的に見て手落ちと認むべきところは見当らない。

(2) 当時の管理態勢

しかしながら、本件国道には前示のような危険性があつたのであるから、当然それに適合した管理態勢が用意されておるべきであつたのであり、その点に問題がある。その方法は交通の事前規制である。

もとより、交通を予め規制することは、技術的に仲々困難であり、結果の影響するところ重大である。交通は衣・食・住とともに、人類の生活においてもつとも重要かつ基本的な現象の一つである。そして道路は各種交通設備のうちもつとも普遍的かつ基礎的な役割を果している。道路はその地域における唯一もしくは最小限度の交通設備として他に代替の手段をもたない場合が多い。そして、規制が「予め」のものである以上、そこでは予想される危険性の内容と程度、さらにはその危険発生の蓋然性の程度に各種各様のものがあることを免れない。また、一旦規制が実施された場合には、観光旅行のように計画を中止もしくは変更すれば足り、それによつてさほど深刻な苦痛を覚えない者もあれば、急病人や産婦の搬送、生鮮食料品や納期の迫つた物品の運送のようにそれを耐え難いとする者もある。

しかしながら、問題のこのような困難さも、もともと交通設備の具備すべき要件は安全であることを第一とするものであることに思いを到し、その時代における財政・技術の限りをつくせば、それ相当の解決は必ずしも不可能なことではない。これを本件について言うならば、予測される危険は降雨によつて起るのであり、降雨の量は時に急緩の差はあるにしても、必ず時間の経過を伴なうものであるから、性能の高い雨量計をなるべく多数かつきめ細かに配置し、その他関係諸機関との連絡を密にして降雨状況の把握に万全を期し、刻々把握される状況に応じて迅速且つ効果的に、その情報を通行者に提供して通行の注意を促すとともに、事態の進展によつては交通の直接規制を実施し、そうすることによつて、まず交通の安全を確保すると同時に規制区間・規制時間の可及的短縮を図ることがそれである。

しかるに、本件国道の前記危険地域ないしその周辺においては、美濃加茂国道維持出張所に自記雨量計が設置されているだけで他に見るべきものはなかつたのであるから、管理の態勢は不完全であり、そこに瑕疵があつたといわなければならない。

而して、どの程度の降雨があつた場合にいかなる規制を実施するかは前示のように難かしい問題であるが、前記事故当夜の崩落のうちの四件、本件事故前の崩落のうちの六件、計一〇件のうち五件までのものが連続降雨量一一八、一三三、199.7、158.5、一五四ミリメートルで発生していること、その余の五件はそれよりも遙かに低い三二、6.8、二三、26.8ミリメートルで発生していることを考えれば、客観的には、少くとも連続雨量が六〇ないし八〇ミリメートルに達した段階においては、道路情報板その他の方法によつて、時を移さず、危険の内容を知らせて注意を促すか、あるいはさらに状況の進展に応じて交通を直接規制するかの措置に出るべきであつたのである。そして、もし本件事故当時この態勢が完備されていたならば、つぎのとおり、事故後改善されている程度のものをもつてしても、本件バス集団が前示の危険な地域において本件土石流に直撃されることは防止でき、ひいては本件事故の発生を未然に回避できたものと推定される。

規制区間(Km)

七宗橋先

54.7

飛泉橋

66.7

飛泉橋

66.7

井尻

81.6

雨量観測所(Km)

川辺

(45.2)

上麻生

(55.1)

名倉

(77.0)

七宗

(81.3)

連続雨量が六〇ミリに達した時刻

一七日・二四時

一七日・二四時

一七日・二四時

一七日・二三時

同上 八〇ミリに達した時刻

一八日・一時

一七日・二四時

一八日・一時

一七日・二三時

(別紙13から)

即ち、②の区間では一七日二三時、①の区間では同日二四時には、少くとも各区間内の一観測地点ですでに連続雨量が八〇ミリメートルを越えているのであるから、通行規制の措置に一〇分を要したとしても、二三時一〇分には飛泉橋(66.7Km)において北上車両にその措置がとれたことになる。そして、その頃本件バス集団は七宗橋(54.1Km)附近を北上中であつたのであり、このバス集団が飛泉橋にさしかかつたのは二三時一九分頃であつたから、同所においてバス集団が反転を決めたとすれば、反転のために仮に二〇分間を要したとしても、65.25Kmおよび64.17Km地点の崩落が発生した二三時五五分、二四時一〇分頃までには本件事故現場附近を無事に通過して南下できたことになる。

仮に、飛泉橋における前記の措置に二〇分を要し、本件バス集団に間に合わなかつたとしても、このバス集団がモーテル飛騨(76.5Km)に到着し、そこで反転直前の一七日二四時にはすでに①の区間においても連続雨量が八〇ミリメートルを越え一二四ミリメートルにも達していたのであるから、バス集団は南下途中の二四時一八分頃飛泉橋においてそれ以上の南下を阻止され得たことになる。なお、飛泉橋における二三時の北上車両に対する措置には二〇分を要したとしても、二四時の南下車両に対するときには、本件事故当時の気象情報伝達態勢をもつてしても、二二時三〇分発表の大雨警報・洪水注意報が二三時二五分には事務所へ、同五〇分頃には出張所へ伝達されており、美濃飛騨地方で大雨警報が出されるのは日雨量が二〇〇ミリメートルを越えると予想されるただならぬときであり、現に上麻生観測所(55.1Km)附近では二三時から二四時にかけて時間雨量七八ミリメートルという激しい豪雨が降りつづいており、かつ、飛泉橋以北の②の区間では前示のとおり二三時の時点ですでに八〇ミリメートルをこえて通行規制の措置をとるべき状態に立至つていたのであるから、この南下車両に対する措置に再び二〇分もの時間を要するとは認められない。

そうすれば、この管理態勢の瑕疵もまた本件事故発生の一因をなしているといわなければならない。

(3) 被告の主張について

被告は現行の事前規制を本件事故当時的確に運用したものと想定し、あらゆる可能な仮定を立ててみても、本件バス集団の南下を阻止することはできなかつたと主張する。

しかしながら、被告は現在設置してああるテレメーターを基準にし、その設置地点附近の雨量観測値のみを想定しているのであり、それが当時とるべき最善の方法であつたとは言えない。道路管理者としては、中部地建河川部に集中される雨量観測結果の通報態勢や数多くのテレメーターのきめ細い適切な設置により規制区間の雨量把握に万全を期すべきである。被告は、七宗観測所(81.3Km)における降雨記録は、規制区間の北端附近でテレメーターの設置は想定し得ないというが、過去の崩落事例を見ても78.5Km地点、80.0Km地点に各一件、事故当夜においても78.0Km地点、78.45Km地点に各一件の崩落を見ているのであつて、むしろ七宗観測所附近は是非とも設置を必要とするところであり、想定不能の箇所ではない。

また、交通の規制は、高速でしかも一日三、〇〇〇台という多数の自動車が通行する本件国道のような道路では、迅速適確に行われなければその効果を逸することになるのであつて、事故当時の事務所、出張所、工区の態勢をそのまゝ前提とすべきものではない。危険が迫つて通行規制をすべき区間へ自ら自動車で走つて規制地点に到着してから規制を実施するというのでは時機を失する。そのためには電導式情報板を用いるとか、予め職員を配置につかせるとか、さらには適当な官公署、地元住民等に予め連絡の上、規制が必要と認められる段階に立至つたならば、直ちにその措置がとれるような態勢を整えておくべきである。

3、バス運行関係者の過失について

被告は、本件事故は旅行主催者、バス運転手らの過失によつて生じたものであると主張するので、以下検討する。

(一)  本件バス旅行が企画され、旅行団が犬山に集結し、一五台のバスを連ねて同地を出発、モーテル飛騨で反転し、南下して65.25Km地点に到着したまでの経過は、さきに認定のとおりである。この認定の事実によれば、この間に旅行主催者、バス運転手らに過失として咎むべきところは見当らない。

(二)  その後、六台のバス集団は65.25Km地点で国道上の崩落に遭い、約一五分間土砂崩れをならしたり落石を取除いたりしてこの地点を越え、さらに南下をつづけたのであるが、この行動はいささか慎重な注意を怠つたものというべきである。

即ち、旅行団は約七五〇名の多数で構成され、バスは一五台、これが約三〇メートルの車間距離を保つて進行したとしても梯団はおよそ六〇〇メートルの長蛇の列となる。この旅行団に在つて、主催者の奥様ジャナル社々長と名鉄観光サービス株式会社中部営業局次長は、出発の時より自ら先頭の本部車(一号車)に乗込み、モーテル飛騨で旅行の中止、反転を決めるについても二人だけで協議決定している。そして、バス運転手らは「雨の量が多いので動かないでそこにいる方がいいなと思つたが、矢張り団体だから決つたことは実行しようと思つた」者もいる(証人早川正美の証言)のであるから、本件バス旅行において右主催者側の両名は、一五台のバス集団を現実に掌握・統率して約七五〇名の人命を掌中に預つていたものというべきである。また、それぞれのバスの運転手が個々のバスの運行について五十余名の乗客の人命を預つていたこともいうまでもない。そうであるとするならば、これらバス集団がこの地点に到着するまでに、すでに北上の際、下麻生附近から飛泉橋手前までの間、時間雨量にして五〇ミリメートルはあつたと思われる激しい雷雨に遭つており、その後も雨は降りつづき、モーテル飛騨で反転を決めたのもその理由は進路前方に土砂崩落が発生したというのであり、反転後も雨は依然として降りつづき、飛泉橋を通過する頃は一〇分間に一二ミリメートル(時間雨量に換算すると七二ミリメートルー乙第七号証三三頁)の激しい雨が降つており、道路はこれからいよいよ急峻のもつとも迫つた山間部に差しかかるのであるから、現に土砂の流出を眼の前にしている以上、この段階においては、前記のように重大な責任を担う主主催者両名はもとよりバスの運転手においても、慎重の上にも慎重を期し、もはやそれ以上の南下は思い止まるべきであつたというべきである。この点に若干の過失なしとしない。そしてこの過失なかりせば、バス集団が急峻の迫つた事故現場附近に進入することはなく、本件事故の発生には至らなかつたのであるから、この過失も本件事故発生の一因をなしているというべきである。

(三)  その後の行動については、これらの者の過失として咎むべきところは認められない。

七、以上の次第であるから、本件事故は、予見し難い、その意味において不可抗力というべき土石流の発生を直接の原因とし、これに被告の道路設置・管理の瑕疵および旅行主催者・バス運転手の過失が関連競合して発生したものというべきである。而して、このように不可抗力と目すべき原因とのその他の原因が競合して事故が発生し、それによつて損害を生じた場合には、国家賠償法二条一項によつて責任を負うべき国、民法七〇九条によつて責任を負うべき旅行主催者・運転手らはそれぞれその損害を賠償しなければならないが、賠償の範囲は、事故発生の諸原因のうち、不可抗力と目すべき原因が寄与している部分を除いたものに制限されると解するのが相当である。蓋し、民法七〇九条は過失責任を定めたものであり、国家賠償法二条一項も瑕疵の存在を前提とするもので純然たる結果責任を負わせるものではないのである。このことは、事故の原因が全部過失または瑕疵に在ればそれによつて生じた損害のすべてを賠償すべきものであることは勿論であるが、逆に全部不可抗力によつて生じたものであれば損害は生じてもこれを賠償すべき義務はないことを意味するのであつて、もし現実の具体的な事件において、それが右両端のいずれでもなく両者の中間に位するものであるならば、その実態に即して、不可抗力と目すべき原因が寄与したと認められる部分を除き、その余の部分について賠償の義務を負わせることが、これら損害賠償制度の当然の帰結と考えられるからである。

そこで、前示諸原因の関係を考えてみるに、事故発生の直接の原因は不可抗力と目すべき土石流の流出であり、バスはまさにこれによつて転落、水没したものであること、そうではあるけれども、この土石流の発生を予見することは現在の学問的水準をもつてしても不可能であつたとは言え、当夜の多量の降雨が原因となつていることには間違いないこと、他方、本件において瑕疵とされているものは、右土石流の発生地点を含む地域において多量の降雨があるときは崩落の危険があり、かつ、この危険を防止するための態勢が不十分であつたというのであつて、両者の間には程度に懸隔はあれ、ともに多量の降雨という点に共通の要素があること、多量の降雨は必ず時間の経過を経て累積する結果であることおよびその他さきに認定の具体的事実関係を考え合せれば、本件事故の発生に不可抗力と目すべき原因が寄与している程度はその半ばまでには達せず、これを四割と認めるのが相当である。

なお、本件においては、前示旅行主催者・運転手らの過失は損害賠償の額を定めるにつきこれを斟酌しないこととする。

八、損害

(註) 損害関係の説明

(一)(親族関係等)

各原告ならびに各死亡者の親族関係、死亡者の年令、職業、収入については親族関係等の項記載のとおりであり、証拠と認定事実を列記する。

(二)(逸失利益)

各死亡者の逸失利益の計算については逸失利益の項記載のとおりである。

ア、就労可能年数

原則として一八才から六三才までとし、死亡時に五五才以上のもの(未就職者、主婦、家事手伝を除く)については、日本人男・女子の平均余命年数のおよそ二分の一を就労可能年数とする。

イ、ホフマン係数(小数点第五位以下は切捨)

本件事故当時就労開始年令に達していない未就職者については、死亡時より六三才までの期間のホフマン係数から死亡時より就労開始年令までの期間のホフマン係数を控除する。

ウ、死亡者の年間所得額

1、有職者については本件事故当時における死亡者の前一年間の実際の所得額による。

2、主婦・家事手伝

昭和四三年度における女子の平均年間総所得額(平均月間給与二万五、八〇〇円、平均年間賞与その他の特別給与五万八、七〇〇円により算出、第二〇回日本統計年鑑)の八〇パーセントとする。

3、男子大学生・高校生

死亡時大学生・高校生であつた男子については、昭和四三年度大学卒男子の初任給三万〇、六〇〇円(第二〇回日本統計年鑑)の固定方式により算出する。

4、男子中学生以下

死亡時中学生以下であつた男子については、昭和四三年度高校卒男子の初任給二万三、〇〇〇円(第二〇回日本統計年鑑)の固定方式により算出する。

5、女子短大生

死亡時短大生であつた女子については、昭和四四年度短大卒女子の初任給二万六、二〇〇円(第二一回日本統計年鑑)を賃金の上昇率25.8/29.2で除して算出した昭和四三年度初任給の固定方式で算出する。

6、女子高校生以下

死亡時高校生以下の女子については、昭和四三年度における女子高校卒の初任給二万〇、五〇〇円(第二〇回日本統計年鑑)の固定方式により算出する。

エ、死亡者の年間生活費控除

1、扶養家族のある者、配偶者のある者については年間所得額の三分の一を控除する。

2、単身者については年間所得額の二分の一を控除する。

(三)(慰藉料)

本件事故の態様、原告らの身分関係、前記自然現象、国道設置・管理の瑕疵の態様その他諸般の事情を綜合すると原告らの慰藉料は各慰藉料の項記載のとおりに認める。

(四)(損害相殺)

損害相殺の項記載の金額は、本件事故を原因として支払われた自動車損害賠償責任保険金(死亡者一人当り三〇〇万円)および本件バス旅行に関与した三社(名鉄観光サービス株式会社、団地新聞奥様ジャーナル株式会社、岡崎観光自動車株式会社)よりの示談金(死亡者一人当り三三万円)の合算額である。

但、(23)の亡関口英子、(38)の亡石川義夫、(39)の亡高橋和男、(40)の亡吉永政義については後記各親族関係等の項記載のとおりである。

(五)(弁護士費用)

原告らが本件訴訟の遂行を弁護士に委任していることは記録上明らかである。本件訴訟の内容、経過、認容額等を斟酌し、原告らにおいて訴訟代理人に支払う弁護士費用のうち、被告に対し損害賠償として請求し得べきものは、認容額一〇〇万円以下の部分につき同部分のおよそ一〇パーセント、同五〇〇万円以下一〇〇万円を超える部分につき同部分のおよそ七パーセント、同一、〇〇〇万円以下五〇〇万円を越える部分につき同部分のおよそ六パーセントとし、各弁護士費用の項記載のとおりに認める。

(1)  死亡者 秋山アイ子,同秋山晶子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡アイ子は原告秋山茂則の妻であり,原告秋山美香,同秋山康郁は右夫婦間の子である。亡晶子は原告茂則の妹,原告秋山いとは右両名の母である。原告庄林エツは亡アイ子の母である。

本件事故当時,亡アイ子は年令36才5ケ月で主婦として家事に従事し,亡晶子は年令35才1ケ月で家事手伝をしていた。

2.(逸失利益)

亡アイ子

………原告茂則,同美香,同康郁の相続分亡晶子

………原告いとの相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告茂則の損害

4.(慰藉料)

原告茂則  500,000円

同 美香  500,000円

同 康郁  500,000円

同 エツ  300,000円

同 いと  1,800,000円

5.(損害総額)

原告茂則 1,340,166円

同 美香 1,160,166円

同 康郁 1,160,166円

同 エツ  300,000円

同 いと 3,322,207円

合計 7,282,705円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告茂則 114,590円

同 美香  99,199円

同 康郁  99,199円

同 エツ  25,651円

同 いと  284,064円

7.(弁護士費用)

原告茂則 11,000円

同 美香  9,000円

同 康郁  9,000円

同 エツ  2,000円

同 いと 28,000円

8.(認容額)

原告茂則 125,590円

同 美香 108,199円

同 康郁 108,199円

同 エツ  27,651円

同 いと 312,064円

(2)  死亡者 池田昌雄,同池田ツヤ子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡昌雄,同ツヤ子は夫婦であり,原告池田守雄,同池田利彦,同池田真知子は右夫婦間の子である。

本件事故当時,亡昌雄は年令56才6ケ月で毛受勇英税理士事務所に事務員として勤務し昭和42年における年間総所得は835,000円であり,亡ツヤ子は年令49才6ケ月で主婦として家事に従事していた。

2.(逸失利益)

亡昌雄

……原告守雄,同利彦,同真知子の相続分

亡ツヤ子

………原告守雄,円利彦,同真知子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告守雄の損害

4.(慰藉料)

原告守雄 800,000+600,000=

1,400,000円

同 利彦 800,000+600,000=

1,400,000円

同真知子 800,000+600,000=

1,400,000円

5.(損害総額)

原告守雄 2,799,242円

同 利彦 2,619,242円

同真知子 2,619,242円

合計 8,037,726円

6.(損益相殺)

以上の損害について,原告らに6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告守雄 479,810円

同 利彦 448,957円

同真知子 448,957円

7.(弁護士費用)

原告守雄 47,000円

同 利彦 44,000円

同真知子 44,000円

8.(認容額)

原告守雄 526,810円

同 利彦 492,957円

同真知子 492,957円

(3)  死亡者 伊藤汀子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡汀子は原告伊藤義郎の妻であり,原告伊藤博司,同伊藤秀司は右夫婦間の子である。

本件事故当時,亡汀子は年令42才4ケ月で主婦として家事に従事していた。

2.(逸失利益)

………原告義郎,同博司,同秀司の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円……原告義郎の損害

4.(慰藉料)

原告義郎 600,000円

同 博司 600,000円

同 秀司 600,000円

5.(損害総額)

原告義郎 1,334,072円

同 博司 1,154,072円

同 秀司 1,154,072円

合計3,642,216円

6.(損害相殺)

以上の損害について原告らに3,330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告義郎 114,358円

同 博司 98,928円

同 秀司 98,928円

7.(弁護士費用)

原告義郎 11,000円

同 博司  9,000円

同 秀司  9,000円

8.(認容額)

原告義郎 125,358円

同 博司 107,928円

同 秀司 107,928円

(4)  死亡者 加藤健郎,同加藤太喜子,同加藤邦子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡健郎と同太喜子は夫婦であり,原告加藤幸子,同加藤孝子および亡加藤邦子は右夫婦間の子である。原告加藤幹夫は昭和27年3月29日右夫婦の養子となつたものであり,原告山下淳子は亡健郎と訴外及川とみ子との間に生まれた子である。

本件事故当時,亡健郎は年令53才9カ月で矢部コンクリート工業株式会社に勤務し,昭和42年における年間総所得は883,007円であり,亡太喜子は年令56才11ケ月で主婦として家事に従事し,亡邦子は年令17才7ケ月で約1年前から川村工業株式会社に勤務し昭和43年8月分の給与は16,469円であつた。

2.(逸失利益)

亡健郎

………原告幹夫,同幸子,同孝子の相続分

………原告淳子の相続分

亡太喜子

………原告幹夫,同幸子,同孝子の相続分

亡邦子

………原告幸子,同孝子の相続分

………原告淳子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円……原告幹夫の損害

4.(慰藉料)

原告幹夫 690,000+600,000=

1,290,000円

同 幸子 690,000+600,000+

720,000=2,010,000円

同 孝子 690,000+600,000+

720,000=2,010,000円

同 淳子 350,000+360,000=

710,000円

5.(損害総額)

原告幹夫 2,406,155円

同 幸子 3,497,079円

同 孝子 3,497,079円

同 淳子 1,352,702円

合計 10,753,015円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告幹夫 170,686円

同 幸子 248,132円

同 孝子 248,132円

同 淳子 95,910円

7.(弁護士費用)

原告幹夫 17,000円

同 幸子 24,000円

同 孝子 24,000円

同 淳子 9,000円

8.(認容額)

原告幹夫 187,686円

同 幸子 272,132円

同 孝子 272,132円

同 淳子 104,910円

(5)  死亡者 川本正雄,同川本正治,同川本敏男

1.(親族関係等)<証拠略>

亡正雄は原告川本タミ子の夫であり,原告神足チヅ子,同江尻陽子,同川本三枝子,亡正治,同敏男は右夫婦間の子である。

本件事故当時,亡正雄は年令55才10ケ月で国家公務員共済組合連合会東海病院の調理士として勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は484,745円であり,亡正治は年令15才11ケ月で高校生,亡敏男は年令14才7ケ月で中学生であつた。

2.(逸失利益)

亡正雄

………原告タミ子の相続分

………原告チヅ子,同陽子,同三枝子の相続分

亡正治

………原告タミ子の相続分

亡敏男

………原告タミ子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告タミ子の損害

4.(慰藉料)

原告タミ子 800,000+1,800,000+

1,800,000=4,400,000円

同 チヅ子 540,000円

同 陽子 540,000円

同 三枝子 540,000円

5.(損害総額)

原告タミ子 9,181,617円

同 チヅ子 1,053,500円

同 陽子 1,053,500円

同 三枝子 1,053,500円

合計 12,342,117円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告タミ子 1,749,800円

同 チヅ子  200,772円

同 陽子  200,772円

同 三枝子  200,772円

7.(弁護士費用)

原告タミ子 152,000円

同 チヅ子  20,000円

同 陽子  20,000円

同 三枝子  20,000円

8.(認容額)

原告タミ子 1,901,800円

同 チヅ子  220,772円

同陽子  220,772円

同 三枝子  220,772円

(6)死亡者 来栖健三

1.(親族関係等)<証拠略>

亡健三は,原告柴田ヒサ子,同来栖途子,同来栖勝子の父であるが,本件事故当時年令69才6ケ月で,昭和43年1月20日から「味の店ヒサ」という名の飲食店を経営していた。その毎月の純益は,亡健三が右飲食店経営前調理士として働いていた際の月収50,000円を下らないものと認められる。

2.(逸失利益)

……原告ヒサ子,同途子,

同勝子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告ヒサ子の損害

4.(慰藉料)

原告ヒサ子 800,000円

同 途子 800,000円

同 勝子 800,000円

5.(損害総額)

原告ヒサ子 1,329,144円

同 途子 1,149,144円

同 勝子 1,149,144円

合計 3,627,432円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに3,330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告ヒサ子 108,983円

同 途子  94,224円

同 勝子  94,224円

7.(弁護士費用)

原告ヒサ子 10,000円

同 途子  9,000円

同 勝子  9,000円

8.(認容額)

原告ヒサ子 118,983円

同 途子 103,224円

同 勝子 103,224円

(7)  死亡者 河野信子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡信子は,河野善美と訴外亡河野市郎の子であり,本件事故当時年令22才1ケ月で,株式会社岸本慶三商店に勤務し昭和43年3月から8月までの総所得は142,520円であつた。

2.(逸失利益)

………原告善美の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告善美の損害

4.(慰藉料)

原告善美 1,800,000円

5.(損害総額)

原告善美 3,858,732円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告善美に3,330,000円支払われている。これは前記債権に充当されたものと認められる。

残額

原告善美 528,732円

7.(弁護士費用)

原告善美 52,000円

8.(認容額)

原告善美 580,732円

(8)  死亡者 左殿正文,同左殿喜代子,同左殿孝子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡正文,亡喜代子は原告左殿由紀子,同左殿泰夫,同左殿和夫の両親,亡孝子は,右両親の弐女で原告らの姉妹である。

本件事故当時,亡正文は年令56才5ケ月で無職,亡喜代子は年令48才3ケ月で株式会社名鉄百貨店に勤務し昭和42年における年間総所得は387,851円であり,亡孝子は年令18才1ケ月で高校3年生であつた。

2.(逸失利益)

亡喜代子

………原告由紀子,同泰夫,同和夫の相続分

亡孝子

………原告由紀子,同泰夫,同和夫の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告由紀子の損害

4.(慰藉料)

原告由紀子 600,000+700,000+

600,000=1,900,000円

同 泰夫 =1,900,000円

同 和夫 =1,900,000円

5.(損害総額)

原告由紀子 3,219,330円

同 泰夫 3,039,330円

同 和夫 3,039,330円

合計 9,297,990円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

(9)  死亡者 竹尾一郎,同竹尾ハツコ

1.(親族関係等)<証拠略>

亡一郎と同ハツコは夫婦であり,原告竹尾明,同竹尾弘,同竹尾悟,同福地ヒサエは右夫婦間の子である。また,原告津田コユキは亡ハツコの母である。

本件事故当時,亡一郎は年令62才11ケ月で株式会社守山製作所に工員として勤務し昭和43年4月から8月までの総所得は135,998円であり,亡ハツコは年令57才3ケ月で香流病院(その後同病院は守山十全病院と改称)に看護婦として勤務し,昭和43年3月から8月までに給与228,400円および賞与41,160円の支払を受けた。

2.(逸失利益)

亡一郎

………原告明,同弘,同悟,同ヒサエの相続分

亡ハツコ

………原告明,同弘,同悟,同ヒサエの相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告明の損害

4.(慰藉料)

原告明   530,000+400,000=

930,000円

同 弘 =930,000円

同 悟 =930,000円

同 ヒサエ =930,000円

同 コユキ     200,000円

5.(損害総額)

原告明   1,764,843円

同 弘   1,584,843円

同 悟   1.584,843円

同 ヒサエ 1,584,843円

同 コユキ  200,000円

合計 6,719,372円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告明   15,594円

同 弘   14,003円

同 悟   14,003円

同 ヒサエ 14.003円

同 コユキ  1,767円

7.(弁護士費用)

原告明   1,000円

同 弘   1,000円

同 悟   1,000円

同 ヒサエ 1,000円

同 コユキ   0円

8.(認容額)

原告明   16,594円

同 弘   15,003円

同 悟   15,003円

同 ヒサエ 15,003円

同 コユキ  1,767円

(10)  死亡者 中根泰三,同中根文子,同中根美好

1.(親族関係等)<証拠略>

亡泰三と亡文子は夫婦であり,原告三浦光惠,同中根晴美,および亡美好は右夫婦間の子であり,原告西秀子は亡文子の母である。右夫婦間に昭和17年1月31日中根久が出生し,出生後間もなく死亡したが,死亡届は出されていない。

本件事故当時,亡泰三は年令62才1ケ月で株式会社姫野組に勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は426,812円であり,亡文子は年令50才10ケ月で主婦として家事に従事する傍ら家政婦として働いていた。しかし,亡文子の家政婦としての収入については甲第40号証の10の13のみでは認めるに足りない。亡美好は年令17才1ケ月で高校生であつた。

2.(逸失利益)

亡泰三

………原告光惠,同晴美の相続分

亡文子

………原告光惠,同晴美の相続分

亡美好

………原告秀子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告光惠の損害

4.(慰藉料)

原告光惠 1,200,000+800,000=

2,000,000円

同 晴美 1,200,000+800,000=

2,000,000円

同 秀子 200,000+1,800,000=

2,000,000円

5.(損害総額)

原告光惠 3,475,193円

同 晴美 3,295,193円

同 秀子 3,644,145円

合計 10,414,531円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告光惠 141,660円

同 晴美 134,323円

同 秀子 148,547円

7.(弁護士費用)

原告光惠 14,000円

同 晴美 13,000円

同 秀子 14,000円

8.(認容額)

原告光惠 155,660円

同 晴美 147,323円

同 秀子 162,547円

(11)  死亡者 那須弘

1.(親族関係等)<証拠略>

亡弘は,原告那須冨美枝の夫であり,原告那須國宏の父であり,原告えつの子である。

本件事故当時,亡弘は年令51才11ケ月で長者町福利協同組合に専務理事として勤務し,同人の昭和43年7月および8月の給与はそれぞれ金56,630円および金54,130円であり昭和42年の夏季,年末賞与はそれぞれ金55,000円および70,000円であつた。

2.(逸失利益)

……原告冨美枝の相続分

………原告國宏の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告冨美枝の損害

4.(慰藉料)

原告冨美枝  700,000円

同 國宏 1,400,000円

同 えつ  300,000円

5.(損害総額)

原告冨美枝 1,784,319円

同 國宏 3,208,639円

同 えつ  300,000円

合計 5,292,958円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに3.330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告冨美枝  661,736円

同 國宏 1,189,962円

同 えつ  111,285円

7.(弁護士費用)

原告冨美枝  66,000円

同 國宏 113,000円

同 えつ  11,000円

8.(認容額)

原告冨美枝  727,736円

同 國宏 1,302,962円

同 えつ  122,258円

(12)  死亡者 新川信義,同新川千恵子,同新川晴子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡信義,同千恵子は夫婦であり,亡晴子は右夫婦間の子である。原告新川利一,同野原ふたを,同下村みさをは亡信義の兄弟である。原告中谷ムメヨは,亡千恵子の母である。

本件事故当時,亡信義は年令48才4ケ月で矢野コンクリート工業株式会社に勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は532,954円であつた。亡千恵子は年令49才6ケ月で日本生命保険相互会社名古屋南支社に勤務し,昭和43年1月から7月までの総所得は金802,471円であつた。亡晴子は小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡信義

……原告利一,同ふたを,同みさをの相続分

亡千恵子(生命保険会社外交員の必要経費として年間所得額の40パーセントを控除するのを相当とする。)

………原告ムメヨの相続分

亡晴子

………原告ムメヨの相続分

3.(葬儀費)

300,0000×0.6=180,000円………原告ムメヨの損害

4.(慰藉料)

原告ムメヨ 1,800,000+1,800,000

=3,600,000円

同 利一 800,000円

同 ふたを 800,000円

同 みさを 800,000円

5.(損害総額)

原告ムメヨ 8,615,028円

同 利一 1,970,452円

同 ふたを 1,970,452円

同 みさを 1,970,452円

合計 14,526,384円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告ムメヨ 2,690,351円

同 利一  615,344円

同 ふたを  615,344円

同 みさを  615,344円

7.(弁護士費用)

原告ムメヨ 218,000円

同 利一  61,000円

同 ふたを  61,000円

同 みさを  61,000円

8.(認容額)

原告ムメヨ 2,908,351円

同 利一  676,344円

同 ふたを  676,344円

同 みさを  676,344円

(13)  死亡者 西川喜代美

1.(親族関係等)<証拠略>

亡喜代美は,原告西川武史の妻,原告西川嘉人,同西川欣吾は右夫婦間の子である。

本件事故当時,亡喜代美は年令31才11ケ月で主婦として家事に従事していた。

2.(逸失利益)

………原告武史,同嘉人,同欣吾の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告武史の損害

4. (慰藉料)

原告武史 600,000円

同 嘉人 600,000円

同 欣吾 600,000円

5.(損害総額)

原告武史 1,503,690円

同 嘉人 1,323,690円

同 欣吾 1,323,690円

合計 4,151,070円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに3,330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告武史 297,425円

同 嘉人 261,822円

同  欣吾 261,822円

7.(弁護士費用)

原告武史 29,000円

同 嘉人 26,000円

同 欣吾 26,000円

8.(認容額)

原告武史 326,425円

同 嘉人 287,822円

同 欣吾 287,822円

(14)  死亡者 二宮釼一,同二宮幾枝,同二宮玉代,同二宮仁志

1.(親族関係等)<証拠略>

亡釼一,同幾枝は夫婦であり,同玉代,同仁志は右夫婦間の子である。原告吉田ヒサヲは亡釼一の実母であり,原告二宮東一は亡釼一の養父である。原告花田亘,同花田艶子,同花田克己,同花田一介,同堀糸枝,同山本十二子は,亡幾枝の兄弟である。

亡釼一は年令41才1ケ月で昭和40年頃からサッシ取付業を自営し,同幾枝は年令42才6ケ月で主婦として家事に従事し,同玉代は年令13才3ケ月で中学生,同仁志は年令9才6ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡釼一(サッシ取付業の自営収入が明らかでないので,昭和43年度の全労働者平均月間給与(51,200円)および平均年間賞与等(143,200円)により算出する。第20回日本統計年鑑)

………原告東一,同ヒサヲの相続分

亡幾枝

………原告亘,同艶子,同克己,同一介,同糸枝,同十二子の相続分

亡玉代

………原告東一,同ヒサヲの相続分

亡仁志

………原告東一,同ヒサヲの相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円……原告東一の損害

4.(慰藉料)

原告東一 1,200,000+900,000+

900,000=3,000.000円

同 ヒサヲ 1,200,000+900,000+

900,000=3,000,000円

同 亘    300,000円

同 艶子  300,000円

同 克己  300,000円

同 一介  300,000円

同 糸枝  300,000円

同 十二子  300,000円

5.(損害総額)

原告東一 6,906,652円

同 ヒサヲ 6,726,652円

同 亘    577,036円

同 艶子  577,036円

同 克己  577,036円

同 一介  577,036円

同 糸枝  577,036円

同 十二子  577,036円

合計 17,095,520円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに13,320,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告東一 1,525,323円

同 ヒサヲ 1,485,571円

同 亘    127,437円

同 艶子  127,437円

同 克己  127,437円

同 一介  127,437円

同 糸枝  127,437円

同 十二子  127,437円

7.(弁護士費用)

原告東一 136,000円

同 ヒサヲ 133,000円

同 亘    12,000円

同 艶子  12,000円

同 克己  12,000円

同 一介  12,000円

同 糸枝  12,000円

同 十二子  12,000円

8.(認容額)

原告東一 1,661,323円

同 ヒサヲ 1,618,571円

同 亘    139.437円

同 艶子  139,437円

同 克己  139,437円

同 一介  139,437円

同 糸枝  139,437円

同 十二子  139,437円

(15)  死亡者 肥後元子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡元子は,原告肥後由衛,同肥後絹子夫婦間の子である。

本件事故当時,亡元子は年令22才1ケ月で三菱レイヨン株式会社繊維加工研究所に勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は234,658円であつた。

2.(逸失利益)

………原告由衛,同絹子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告由衛の損害

4.(慰藉料)

原告由衛 2,239,994円

同絹子 900,000円

5.(損害総額)

原告由衛 900,000円

同絹子 2,239,994円

合計 4,299,988円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに3,330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告由衛 505,296円

同絹子 464,691円

7.(弁護士費用)

原告由衛 50,000円

同絹子 46,000円

8.(認容額)

原告由衛 555,296円

同絹子 510,691円

(16)  死亡者 深水ヨシ子,同深水勝

1.(親族関係等)<証拠略>

亡ヨシ子は原告深水護の妻,原告坂本健介の子である。亡勝は右夫婦間の子である。

本件事故当時,亡ヨシ子は年令39才11ケ月で合資会社東海電話広告社および財団法人電気通信共済会東海支部に電話帳の広告販売員として勤務し,昭和42年9月から同43年8月までの総所得は474,075円および98,782円であつた。亡勝は年令13才6ケ月で中学年生であつた。

2.(逸失利益)

亡ヨシ子

………原告護,同健介の相続分

亡勝

………原告護の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告護の損害

4.(慰藉料)

原告護  900,000+1,800,000=2,700,000円

同健介 900,000円

5.(損害総額)

原告護  6,287,691円

同健介 2,623,738円

合計 8,911,429円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに金6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告護  1,588,554円

同健介  662,874円

7.(弁護士費用)

原告護  141,000円

同健介  66,000円

8.(認容額)

原告護  1,729,554円

同健介  728,874円

(17)  死亡者 藤本耕平,同藤本公子,同藤本昭平

1.(親族関係等)<証拠略>

亡耕平は原告藤本絹子の夫であり,原告藤本政伊の子である。亡公子,同昭平は右夫婦間の子であり,原告藤本咲子,同藤本薫,同藤本寮子と兄弟姉妹である。

本件事故当時,亡耕平は年令60才11ケ月で中部計器工業株式会社の嘱託として勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は562,756円であり,同42年夏期賞与は25,600円,同年冬期賞与は220,800円であつた。亡公子は年令26才5ケ月で家事手伝をしていた。亡昭平は年令23才11ケ月で昭和43年4月から名古屋通商産業局に就職し,昭和43年4月から8月までの総所得は136,173円であつた。

2.(逸失利益)

亡耕平

………原告絹子の相続分

………原告咲子,同薫,同寮子の相続分

亡公子

………原告絹子の相続分

亡昭平

………原告絹子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告絹子の損害

4.(慰藉料)

原告絹子 720,000+1,800,000+1,800,000=4,320,000円

同咲子 480,000円

同薫  480,000円

同寮子 480,000円

同政伊 240,000円

5.(損害総額)

原告絹子 9,292,725円

同咲子 1,066,903円

同薫  1,066,903円

同寮子 1.066,903円

同政伊  240,000円

合計 12,733,434円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに金9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告絹子 2,002,129円

同咲子  229,865円

同薫   229,865円

同寮子  229,865円

同政伊  51,708円

7.(弁護士費用)

原告絹子 170,000円

同咲子 22,000円

同薫  22,000円

同寮子 22,000円

同政伊  5,000円

8.(認容額)

原告絹子 2,172,129円

同咲子  251,865円

同薫   251,865円

同寮子  251,865円

同政伊   56,708円

(18)  死亡者 穂積和子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡和子は原告穂積克彦の母である。本件事故当時亡和子は年令44才5ケ月で富士見台小学校に給食婦として勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は420,352円であつた。

2.(逸失利益)

………原告克彦の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告克彦の損害

4.(慰藉料)

2,400,000円

5.(損害総額)

5,888,002円

6.(損益相殺)

以上の損害について,原告克彦に3,330,000円支払われている。これは前記債権額に充当されたものと認められる。

残額 2,558,002円

7.(弁護士費用)

209,000円

8.(認容額)

原告克彦 2,767,002円

(19)  死亡者 南久子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡久子は,原告南齊の妻であり,原告南和雄,同南裕子,同南孝志,同南欽司の母であり,原告菅野チヨは亡久子の実母である。

本件事故当時亡久子は年令42才2ケ月で名古屋法務局厚生部の事務員として勤務し,昭和43年1月から6月までの給与および賞与は合計176,479円であつた。

2.(逸失利益)

………原告齊の相続分

………原告和雄,円裕子,円孝志,同欽司の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告齊の損害

4.(慰藉料)

原告齊  520,000円

同和雄 260,000円

同裕子 260,000円

同孝志 260,000円

同欽司 260,000円

同チヨ 240,000円

5.(損害総額)

原告齊  1,363,739円

同和雄  591,869円

同裕子  591,869円

同孝志  591,869円

同欽司  591,869円

同チヨ  240,000円

合計 3,971,215円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに3,330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告齊  220,197円

同和雄  95,566円

同裕子  95,566円

同孝志  95,566円

同欽司  95,566円

同チヨ  38,751円

7.(弁護士費用)

原告齊  22,000円

同和雄  9,000円

同裕子  9,000円

同孝志  9,000円

同欽司  9,000円

同チヨ  3,000円

8.(認容額)

原告齊  242,197円

同和雄 104,566円

同裕子 104,566円

同孝志 104,566円

同欽司 104,566円

同チョ 41,751円

(20)  死亡者 森脇道恵

1.(親族関係等)<証拠略>

亡道恵は原告森脇潔と同森脇敏乃夫婦間の子であり,本件事故当時年令25才10ケ月で海外技術協力事業団名古屋国際研修センターに栄養士として勤務し,昭和42年における年間総所得は423,870円であつた。

2.(逸失利益)

………原告潔,同敏乃の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告潔の損害

4.(慰藉料)

原告潔  900,000円

同敏乃 900,000円

5.(損害総額)

原告潔  2,391,373円

同敏乃 2,211,373円

合計 4,602,746円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに3,330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告潔  661,259円

同敏乃 611,486円

7.(弁護士費用)

原告潔  66,000円

同敏乃 61,000円

8.(認容額)

原告潔  727,259円

同敏乃 672,486円

(21)  死亡者 井上美智子,同井上敦詞

1.(親族関係等)<証拠略>

亡美智子は,原告井上英太郎の妻であり,原告井上智津子および亡敦詞は右夫婦間の子である。原告吉岡さ乃は亡美智子の母である。

本件事故当時,亡美智子は年令36才1ケ月で主婦として家事に従事し,亡敦詞は年令8才1ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡美智子

………原告英太郎の相続分

……原告智津子の相続分

亡敦詞

………原告英太郎の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=1,800,000円………原告英太郎の損害

4.(慰藉料)

原告英太郎 500,000+1,800,000=2,300,000円

同智津子 1,000,000円

同さ乃  300,000円

5.(損害総額)

原告英太郎 4,641,114円

同智津子 2,320.332円

同さ乃  300,000円

合計 7,261,446円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに金6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告英太郎 384,410円

同智津子 192,186円

同さ乃  24,848円

7.(弁護士費用)

原告英太郎 38,000円

同智津子 19,000円

同さ乃  2,000円

8.(認容額)

原告英太郎 422,410円

同智津子 211,186円

同さ乃  26,848円

(22)  死亡者 岩松園子,同岩松浩子,同岩松昌弘,同岩松聡

1.(親族関係等)<証拠略>

亡園子は原告岩松弘祐の妻であり,亡浩子,同昌弘,同聡は右夫婦間の子である。原告千葉カツは亡園子の実母である。

本件事故当時,亡園子は年令33才6ケ月で主婦として家事に従事し,同浩子は年令8才1ケ月で小学生,同昌弘は年令6才1ケ月,同聡は年令3才5ケ月であつた。

2.(逸失利益)

亡園子

………原告弘祐,同カツの相続分

亡浩子

………原告弘裕の相続分

亡昌弘

………原告弘祐の相続分

亡聡

………原告弘祐の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告弘祐の損害

4.(慰藉料)

原告弘祐 900,000+1,800,000+1,800,000+1,800,000=6,300,000円

同カツ 900,000円

5.(損害総額)

原告弘祐 11,675,062円

同カツ 1,962,430円

合計 13,637,492円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに13,320,000,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告弘祐 271,805円

同カツ 45.686円

7.(弁護士費用)

原告弘祐 27,000円

同カツ  4,000円

8.(認容額)

原告弘祐 298,805円

同カツ  49,686円

(23)  死亡者 関口亮英,同関口千恵子,同関口英子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡亮英と同千恵子は夫婦であり,原告関口藤太,同関口哲世は右夫婦間の子である。また亡英子は同亮英の母である。原告安田たかえ,同安田政雄は亡千枝子の両親である。

本件事故当時,亡亮英は年令45才5ケ月で三菱重工業株式会社名古屋自動車製作所に勤務し昭和42年における年間総所得は2,039,910円であり,亡千枝子は年令40才6ケ月で主婦として家事に従事し,亡英子は年令72才3ケ月であつた。

2.(逸失利益)

亡亮英(55才で停年に達し爾後63才までは年間総所得額の70パーセントの所得と認めるを相当とする。)

………原告藤太,同哲世の相続分

………原告藤太,同哲世の相続分

亡千枝子

………原告藤太,同哲世の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告藤太の損害

4.(慰藉料)

原告藤太 1,200,000+600,000+900,000=2,700,000円

同哲世 1,200,000+600,000+900,000=2,700,000円

同たかえ  300,000円

同政雄 300,000円

5.(損害総額)

原告藤太 8,338,304円

同哲世 8,158,304円

同たかえ  300,000円

同政雄  300,000円

合計 17,096,608円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに7,910,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告藤太 4,480,463円

同哲世 4,383,743円

同たかえ  161,200円

同政雄  161,200円

7.(弁護士費用)

原告藤太 343,000円

同哲世 336,000円

同たかえ  16,000円

同政雄  16,000円

8.(認容額)

原告藤太 4,823,463円

同哲世 4,719,743円

同たかえ  177,200円

同政雄  177,200円

(24)  死亡者 高笠原和子,同高笠原敏洋

1.(親族関係等)<証拠略>

亡和子は原告高笠原武の妻であり,亡敏洋および原告高笠原邦洋は右夫婦間の子である。原告生川留雄および同生川ふさ子は亡和子の両親である。

本件事故当時,亡和子は年令37才6ケ月で1年位前から名古屋市北区の城北小学校に産休補助教員として勤務し,本件事故直前に正教員となるための試験を受験し,その合否の発表を待つ状態であつた。同人の昭和43年6月から8月までの総収入は109,926円であつた。亡敏洋は年令15才5ケ月で高校1年生であつた。

2.(逸失利益)

亡和子

………原告武の相続分

………原告邦洋の相続分亡敏洋

………原告武の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告武の損害

4.(慰藉料)

原告武   400,000+1,800,000=2,200,000円

同邦洋 800,000円

同留雄 300,000円

同ふさ子 300,000円

5.(損害総額)

原告武   5,350,889円

同邦洋 2,720,498円

同留雄  300,000円

同ふさ子  300,000円

合計 8,671,387円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告武   1,241,174円

同邦洋  631,037円

同留雄  79,587円

同ふさ子  69,587円

7.(弁護士費用)

原告武    116,000円

同邦洋  63,000円

同留雄   6.000円

同ふさ子   6,000円

8.(認容額)

原告武   1,357,174円

同邦洋  694,037円

同留雄   75,587円

同ふさ子   75,587円

(25)  死亡者 田中月子,同田中浩

1.(親族関係等)<証拠略>

亡月子は原告田中平八の妻であり,原告田中美穂および亡浩は右夫婦間の子である。

本件事故当時,亡月子は年令43才11ケ月で主婦として家事に従事し,亡浩は年令8才7ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡月子

……原告平八の相続分

………原告美穂の相続分亡浩

………原告平八の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告平八の損害

4.(慰藉料)

原告平八 600,000+1,800,000=2,400,000円

同美穂  1,200,000円

5.(損害総額)

原告平八 4,628,589円

同美穂 2,230,532円

合計 6,859,121円

6.(損益相殺)

以上の損害について,原告らに金6,660,000円支払われている。これは,前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告平八 134,368円

同美穂  64,752円

7.(弁護士費用)

原告平八 13,000円

同美穂  6,000円

8.(認容額)

原告平八 147,368円

同美穂  70,752円

(26)  死亡者 成田清,同成田喜久子,同成田明子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡清,同喜久子は夫婦であり,同明子および原告成田良正は右夫婦間の子である。原告浜口きみは亡清の母である。

本件事故当時,亡清は年令45才5ケ月で株式会社貿易之日本社(亡喜久子の兄訴外吉村豊が代表取締役をしている。)に常務取締役として勤務し,昭和43年1月から8月までの総収入は899,360円であつた。亡喜久子は年令38才2ケ月で日本生命保険相互会社に保険外交員として勤務し,昭和43年8月分の給与は56,960円であつた。亡明子は年令16才9ケ月で高校生であつた。

2.(逸失利益)

亡清

……原告良正の相続分亡喜久子(必要経費として年間所得額の40パーセントを控除する。)

………原告良正の相続分

亡明子

………原告きみの相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告良正の損害

4.(慰藉料)

原告良正 2,000,000+1,800,000=3800,000円

同きみ  400,000+1,800,000=2,200,000円

5.(損害総額)

原告良正 13,396,434円

同きみ  3,866,507円

合計 17,262,941円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告良正 5,643,967円

同きみ 1,628,973円

7.(弁護士費用)

原告良正 418,000円

同きみ 144,000円

8.(認容額)

原告良正 6,061,967円

同きみ 1,772,973円

(27)  死亡者 水野あい子,同水野洋一,同水野由紀子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡あい子は原告水野茂の妻であり,亡洋一,同由紀子は右夫婦間の子である。原告佐藤さゝをは亡あい子の母である。

本件事故当時,亡あい子は年令38才10ケ月で主婦として家事に従事しており,亡洋一は年令15才3ケ月で中学生であり,亡由紀子は年令12才8ケ月で中学生であつた。

2.(逸失利益)

亡あい子

……原告茂,同さゝをの相続分

亡洋一

………原告茂の相続分

亡由紀子

………原告茂の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告茂の損害

4.(慰藉料)

原告茂   900,000+1,800,000

+1,800,000=4,500,000円同 さゝを 900,000円

5.(損害総額)

原告茂   8,865,810円

同 さゝを 1,813,366円

合計 10,679,176円

6.(損益相殺)

以上の損害について,原告らに金9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告茂   572,151円

同 さゝを 117,024円

7.(弁護士費用)

原告茂   57,000円

同 さゝを 11,000円

8.(認容額)

原告茂   629,151円

同 さゝを 128,024円

死亡者 森みや子,同森明美

1.(親族関係等)<証拠略>

亡みや子は原告森鋹夫の妻,原告森久美子,同森馨一郎,亡明美は右夫婦間の子である。

本件事故当時,亡みや子は年令41才1ケ月で主婦として家事に従事し,亡明美は年令12才5ケ月で中学生であつた。

2.(逸失利益)

亡みや子

………原告鋹夫,同久美子,同馨一郎の相続分

亡明美

………原告鋹夫の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告鋹夫の損害

4.(慰藉料)

原告鋹夫 600,000円+1,800,000

=2,400,000円

同 久美子 600,000円

同 馨一郎 600,000円

5.(損害総額)

原告鋹夫 4,617,710円

同 久美子 1,172,780円

同 馨一郎 1,172,780円

合計 6,963,270円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告鋹夫 201,114円

同 久美子 51,077円

同 馨一郎 51,077円

7.(弁護士費用)

原告鋹夫 20,000円

同 久美子 5,000円

同 馨一郎 5,000円

8.(認容額)

原告鋹夫 221,114円

同 久美子 56,077円

同 馨一郎 56,077円

死亡者 森嶌章夫,同森嶌喜代子,同森嶌理津子,同森嶌一浩

1.(親族関係等)<証拠略>

亡章夫と同喜代子は夫婦であり,同理津子および同一浩は右夫婦間の子である。原告生川留雄,同生川ふさ子は亡喜代子の両親,原告森嶌仙右衛門,同森嶌すては亡章夫の両親である。

本件事故当時,亡章夫は年令38才8ケ月で三重食糧事務所に勤務し,昭和42年における年間総所得は850,570円であり,亡喜代子は年令35才2ケ月で主婦として家事に従事し,亡理津子は年令5才11ケ月であり,亡一浩は年令3才5ケ月であつた。

2.(逸失利益)

亡章夫

………原告仙右衛門,同すての相続分

亡喜代子

…原告留雄,同ふさ子の相続分

亡理津子

………原告仙右衛門,同すて,同留雄,同ふさ子の相続分亡一浩

………原告仙右衛門,同すて,同留雄,同ふさ子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告仙右衛門の損害

4.(慰藉料)

原告仙右衛門 1,200,000+450,000+

450,000=2,100,000円

同 すて 1,200,000+450,000+

450,000=2,100,000円

同 留雄  900,000+450,000+

450,000=1,800,000円

同 ふさ子  900,000+450,000+

450,000=1,800,000円

5.(損害総額)

原告仙右衛門 5,576,316円

同 すて 5,396,316円

同 留雄 3,474,405円

同 ふさ子 3,474,405円

合計 17,921,442円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに

13,320,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認めることができる。

残額

原告仙右衛門 1,431,753円

同 すて 1,385,537円

同 留雄  892,075円

同 ふさ子  892,075円

7.(弁護士費用)

原告仙右衛門 130,000円

同 すて 126,000円

同 留雄  89,000円

同 ふさ子  89,000円

8.(認容額)

原告仙右衛門 1,561,753円

同 すて 1,511,537円

同 留雄  981,075円

同 ふさ子  981,075円

死亡者 柳川久榮,同柳川徹哉

1.(親族関係等)<証拠略>

亡久榮は原告柳川久男と同馬場ヒデ子夫婦(昭和39年11月10日離婚)間の子であり,亡徹哉は原告吉岡信夫,亡久榮夫婦(昭和37年2月19日離婚)間の子である。

本件事故当時亡久榮は年令33才1ケ月で公認会計士兼税理士西尾正作の事務所に事務員として勤務し昭和43年1月から8月までの総所得は286,000円であり,亡徹哉は年令9才8ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡久榮

………原告久男,同ヒデ子の相続分

亡徹哉

………原告信夫の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告ヒデ子の損害

4.(慰藉料)

原告久男 1,050,000円

同 ヒデ子 1,050,000円

同 信夫 1,800,000円

5.(損害総額)

原告久男 2,596,913円

同 ヒデ子 2,776,913円

同 信夫 3,368,786円

合計 8,742,612円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告久男 618,620円

同 ヒデ子 661,499円

同 信夫 802,491円

7.(弁護士費用)

原告久男 61,000円

同 ヒデ子 66,000円

同 信夫 80,000円

8.(認容額)

原告久男 679,620円

同 ヒデ子 727,499円

同 信夫 882,491円

(31) 死亡者 石原久治

1.(親族関係等)<証拠略>

亡久治は原告石原和子の夫である。

本件事故当時亡久治は年令58才4ケ月で以前は日本工業新聞編集長の地位にあつたが昭和43年8月1日から株式会社団地新聞奥様ジャーナル社に勤めていたところ,まだ1回も給料をもらわぬうち同年8月18日の本件事故にあつた。甲第40号証の30の2の証明書には,亡久治を右会社が8月17日付で総務部長として採用し,8月17日当時は総務部長として執務していたことおよび同人の給与が月額150,000円であつたことを証明する趣旨の記載があるが,前記認容のとおりまだ1回も給与をもらわぬうちの事故であることに照らし,右証明書の記載はにわかに措信し難い。そうすると昭和43年度における出版業に従事する労働者の平均賃金に基き算出するのが相当である。第20回日本統計年鑑によれば同業労働者の平均月間給与額は47,500円,平均年間賞与等は128,700円である。

2.(逸失利益)

………原告和子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円

4.(慰藉料)

800,000円

5.(損害総額)

1,658,037円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告和子に1,110,000円支払われている。これは前記債権に充当されたものと認められる。

残額 548,037円

7.(弁護士費用)

54,000円

8.(認容額)

原告和子 602,037円

(32) 死亡者 天野五平,同天野ゆき枝,同天野彰子,同天野良禎

1.(親族関係等)<証拠略>

亡五平と同ゆき枝は夫婦であり,亡彰子,同良禎および原告天野裕子は右夫婦間の子である。原告天野伴六,同天野アサノは亡五平の両親である。

本件事故当時,亡五平は年令46才10ケ月で名古屋法務局に調査官として勤務し,昭和42年における年間総所得は

1,196,118円であり,亡ゆき枝は年令41才7ケ月で主婦として家事に従事し,亡彰子は年令19才1ケ月で短期大学1年生であり,亡良禎は年令6才7ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡五平

………原告裕子の相続分

亡ゆき枝

………原告裕子の相続分

亡彰子

………原告伴六,同アサノの相続分

亡良禎

………原告伴六,同アサノの相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告裕子の損害

4.(慰藉料)

原告裕子 1,800,000+1,800,000

=3,600,000円

同 伴六 300,000+900,000+

900,000=2,100,000円

同 アサノ 300,000+900,000+

900,000=2,100,000円

5.(損害総額)

原告裕子 10,961,727円

同 伴六 3,750,146円

同 アサノ 3,750,146円

合計 18,462,019円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに

13,320,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告裕子 3,053,046円

同 伴六 1,044,486円

同 アサノ 1,044,486円

7.(弁護士費用)

原告裕子 243,000円

同 伴六 103,000円

同 アサノ 103,000円

8.(認容額)

原告裕子 3,296,046円

同 伴六 1,147,486円

同 アサノ 1,147,486円

(33) 死亡者 五十嵐英子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡英子は原告五十嵐四郎の妻であり,原告五十嵐優子,同五十嵐洋夫は右夫婦間の子であり,原告片寄房子は亡英子の母である。

本件事故当時,亡英子は年令50才8ケ月で主婦として家事に従事していた。

2.(逸失利益)

………原告四郎,同優子,同洋夫の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告四郎の損害

4.(慰藉料)

原告四郎 500,000円

同 優子 500,000円

同 洋夫 500,000円

同 房子 300,000円

5.(損害総額)

原告四郎 1,042,018円

同 優子  862,018円

同 洋夫  862.018円

同 房子  300,000円

合計 3,066,054円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに3,330,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

(過払額,片寄房子 25,825円)

(34) 死亡者 竹内孝,同竹内越子,同竹内恵美子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡孝と亡越子は夫婦であり,亡恵美子は右夫婦間の子である。原告竹内靖は亡孝の兄であり,原告片寄房子は亡越子の母である。

本件事故当時,亡孝は年令40才11月ケで株式会社中部日本新聞社に勤務し,昭和42年における年間総所得は1,366,980円であり,亡越子は年令45才4ケ月で主婦として家事に従事し,亡恵美子は年令9才7ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡孝(55才で停定年に達し,以降は年間所得額の70パーセントと認めるを相当とする。)

………原告靖の相続分

………原告靖の相続分

亡越子

………原告房子の相続分

亡恵美子

………原告房子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告靖の損害

4.(慰藉料)

原告 靖 2,400,000円

同 房子 1,800,000+1,800,000

=3,600,000円

5.(損害総額)

原告 靖 9,868,091円

同 房子 6,483,628円

合計 16,351,719円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告 靖 3,839,230円

同 房子 2,522,488円

なお原告房子については前記の過払額と損益相殺すると,同原告の残額は

2,496,663円となる。

7.(弁護士費用)

原告 靖 298,000円

同 房子 204,000円

8.(認容額)

原告 靖 4,137,230円

同 房子 2,700,663円

(35) 死亡者 並木昌子,同並木宣道,同並木美揚子

1.(親族関係等)<証拠略>

亡昌子は原告並木友之の妻,亡宣道および同美揚子は右夫婦間の子である。原告加藤信二および同加藤冨士子は亡昌子の両親である。

本件事故当時,亡昌子は年令34才1ケ月で主婦として家事に従事し,亡宣道は年令10才4ケ月で小学生であり,亡美揚子は年令8才4ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡昌子

……原告友之の相続分

………原告信二,同冨士子の相続分

亡宣道

………原告友之の相続分

亡美揚子

………原告友之の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告友之の損害

4.(慰藉料)

原告友之 900,000+1,800,000

+1,800,000=4,500,000円

同 信二 450,000円

同 冨士子 450,000円

5.(損害総額)

原告友之 8,625,447円

同 信二 969,429円

同 冨士子 969,429円

合計 10,564,305円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに金9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告友之 468,903円

同 信二 52,700円

同 冨士子 52,700円

7.(弁護士費用)

原告友之 46,000円

同 信二 5,000円

同 冨士子 5,000円

8.(認容額)

原告友之 514,903円

同 信二 57,700円

同 富士子 57,700円

(36) 死亡者 西垣みふ子,同西垣隆,同西垣博

1.(親族関係等)<証拠略>

亡みふ子は原告西垣守雄の妻であり,亡隆,同博は右夫婦間の子である。原告玉井静のは亡みふ子の母である。

本件事故当時,亡みふ子は年令35才6ケ月で主婦として家事に従事し,亡隆は年令9才6ケ月で小学生であり,亡博は年令5才10ケ月であつた。

2.(逸失利益)

亡みふ子

………原告守雄,同静のの相続分

亡隆

………原告守雄の相続分

亡博

………原告守雄の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告守雄の損害

4.(慰藉料)

原告守雄 900,000+1,800,000+

1,800,000=4,500,000円

同 静の 900,000円

5.(損害総額)

原告守雄 8,667,944円

同 静の 1,914,804円

合計 10,582,748円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告守雄 485,498円

同 静の 107,249円

7.(弁護士費用)

原告守雄 48,000円

同 静の 10,000円

8.(認容額)

原告守雄 533,498円

同 静の 117,249円

(37) 死亡者 森下諒子,同森下裕一,同森下晴代

1.(親族関係等)<証拠略>

亡諒子は原告森下信也の妻,亡裕一,同晴代は右夫婦間の子である。原告伊藤彰は亡諒子の父である。

本件事故当時,亡諒子は年令35才7ケ月で主婦として家事に従事し,亡裕一は年令10才4ケ月で小学生であり,亡晴代は年令4才11ケ月であつた。

2.(逸失利益)

亡諒子

………原告信也,同彰の相続分

亡裕一

………原告信也の相続分

亡晴代

………原告信也の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告信也の損害

4.(慰藉料)

原告信也 900,000+1,800,000+

1,800,000=4,500,000円

同  彰 900,000円

5.(損害総額)

原告信也 8,495,885円

同  彰 1,890,249円

合計 10,386,134円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに9,990,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告信也 324,038円

同  彰 72,095円

7.(弁護士費用)

原告信也 32,000円

同  彰 7,000円

8.(認容額)

原告信也 356,038円

同  彰  79,095円

(38) 死亡者 石川義夫

1.(親族関係等)<証拠略>

亡義夫は原告石川タネ子の夫であり,原告石川憲治,同石川美智子は右夫婦間の子である。

本件事故当時亡義夫は年令39才9ケ月で岡崎観光自動車株式会社に観光バスの運転手として勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は508,338円であつた。

なお,本件事故の際,亡義夫が転落した5号車の運転手であつたため,右原告らは自賠責保険金および関与三社からの示談金の支払を受けていない。

2.(逸失利益)

自動車運転手という職務の性質・内容から年令55才以降はそれ以前の年間所得額の70パーセントと認めるを相当とする(以下同会社の高橋和男運転手ならびに吉永政義運転手についても同じ。)。

………原告タネ子,同憲治,同美智子の相続分

……原告タネ子,同憲治,同美智子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告タネ子の損害

4.(慰藉料)

原告タネ子 800,000円

同 憲治 800,000円

同 美智子 800,000円

5.(損害総額)

原告タネ子 2,385,636円

同憲治 2,205,636円

同美智子 2,205,636円

合計 6,796,908円

6.(弁護士費用)

原告タネ子 196,000円

同憲治 184,000円

同美智子 184,000円

7.(認容額)

原告タネ子 2,581,636円

同憲治 2,389,636円

同美智子 2,389,636円

(39) 死亡者 高橋和男

1.(親族関係等)<証拠略>

亡和男は原告美智子の夫であり,亡和男には先妻との間に訴外高橋康生と称する子がある。

本件事故当時,亡和男は年令35才8ケ月で岡崎観光自動車株式会社に観光バス運転手として勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は441,096円であつた。本件事故に際し亡和男は3号車の予備運転手として待機中に事故に遭遇したもので,原告美智子,訴外康生は自賠責保険金3,000,000円は受領したが,関与三社からの示談金330,000円は受領していない。

2.(逸失利益)

………原告美智子の相続分

………原告美智子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告美智子の損害

4.(慰藉料)

800,000円

5.(損害総額)

2,364,854円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告美智子に

1,00,000円支払われている。これは前記債権に充当されたものと認められる。

残額 1,364,854円

7.((弁護士費用)

125,000円

8.(認容額)

原告美智子 1,489,854円

(40) 死亡者 吉永政義

1.(親族関係等)<証拠略>

亡政義は原告吉永綾子の夫であり,原告吉永義幸,同吉永弘文,同吉永康男は右夫婦間の子である。原告吉永シケノは亡政義の母である。

本件事故当時亡政義は年37令9才ケ月で岡崎観光自動車株式会社に観光バス運転手として勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は537,349円であつた。本件事故の際亡政義は転落した6号車の運転手であつたため,自賠責保険金および関与三社からの示談金の支払を受けていない。

2.(逸失利益)

………原告綾子の相続分

………原告義幸,同弘文,同康男の相続分

………原告綾子の相続分

………原告義幸,同弘文,同康男の相続分

3.(葬儀費)

300.000×0.6=180,000円………原告綾子の損害

4.(慰藉料)

原告綾子 720,000円

同義幸 480,000円

同弘文 480,000円

同康男 480,000円

同シケノ 240,000円

5.(損害総額)

原告綾子 2,488,827円

同義幸 1,539,218円

同弘文 1,539,218円

同康男 1,539,218円

同シケノ  240,000円

合計 7,346,481円

6.(弁護士費用)

原告綾子 204,000円

同義幸 137,000円

同弘文 137,000円

同康男 137,000円

同シケノ  24,000円

7.(認容額)

原告綾子 2,692,827円

同義幸 1,676,218円

同弘文 1,676,218円

同康男 1,676,218円

同シケノ  264,000円

(41) 死亡者 伊藤とき子,同伊藤尚子,同伊藤洋,同佐倉圭一,同佐倉朱美

1.(親族関係等)<証拠略>

亡とき子は,原告伊藤彰の妻であり,亡森下諒子,原告佐倉郁子,同伊藤靖俊,亡尚子,同洋は右夫婦間の子である。亡圭一,同朱美は原告佐倉藤吉,同佐倉郁子夫婦間の子である。

本件事故当時,亡ときは年令57才6ケ月で神谷眼科院の医局事務員として勤務し昭和42年における年間総所得は271,450円であつた。亡尚子は年令21才8ケ月で株式会社三祐コンサルタンツ・インターナショナルに事務員として勤務し昭和43年1月から8月までの総所得は214,701円であつた。亡洋は年令18才9ケ月で岐阜大学工学部に在学中であつた。亡圭一は年令11才1ケ月で小学生,亡朱美は年令8才10ケ月で小学生であつた。

2.(逸失利益)

亡とき子

………原告郁子,同彰,同靖俊の相続分

亡尚子

………原告彰の相続分

亡洋

………原告彰の相続分

亡圭一

………原告藤吉,同郁子の相続分

亡朱美

………原告藤吉,同郁子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告藤吉の損害

4.(慰藉料)

原告藤吉 900,000+900,000=1,800,000円

同郁子 600,000+900,000+900,000=2,400,000円

同彰  600,000+1,800,000+1,800,000=4,200,000円

同靖俊 600,000円

5.(損害総額)

原告藤吉 3,466,286円

同郁子 4,197,190円

同彰  8,857,934円

同靖俊 910,904円

合計 17,432,314円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに16,650,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告藤吉 155,557円

同郁子 188,358円

同彰 397,519円

同靖俊 40,878円

7.(弁護士費用)

原告藤吉 15,000円

同郁子 18,000円

同彰  39,000円

同靖俊 4,000円

8.(認容額)

原告藤吉 170,557円

同郁子 206,358円

同彰  436,519円

同靖俊 44,878円

(42) 死亡者 神足第助,同神足しづこ

1.(親族関係等)<証拠略>

亡第助,同しづこは原告神足冨男,同神足忠男,同長尾美恵子,同松原和子の両親,原告池田はつは亡第助の母,原告島田ひさをは亡しづこの母である。

本件事故当時,亡第助は年令59才11ケ月で御幸毛織株式会社に勤務し,昭和43年1月から8月までの総所得は432,691円であり,亡しづこは年令51才11ケ月で尾張精機株式会社に勤務し昭和43年1月から8月までの総所得は301,960円であつた。

2.(逸失利益)

亡第助

………原告冨男,同忠男,同美恵子,同和子の相続分

亡しづこ

………原告冨男,同忠男,同美恵子,同和子の相続分

3.(葬儀費)

300,000×0.6=180,000円………原告忠男の損害

4.(慰藉料)

原告冨男 500,000+400,000=900,000円

同忠男 500,000+400,000=900,000円

同美恵子 500,000+400,000=900,000円

同和子 500,000+400,000=900,000円

同はつ 400,000円

同ひさを 200,000円

5.(損害総額)

原告冨男 1,716,703円

同忠男 1,896,703円

同美恵子 1,716,703円

同和子 1,716,703円

同はつ 400,000円

同ひさを 200,000円

合計 7,646,812円

6.(損益相殺)

以上の損害について原告らに6,660,000円支払われている。これは前記債権額の割合に応じて充当されたものと認められる。

残額

原告冨男 221,538円

同忠男 244,767円

同美恵子 221,538円

同和子 221,538円

同はつ 51,619円

同ひさを 25,809円

7.(弁護士費用)

原告冨男 22,000円

同忠男 24,000円

同美恵子 22,000円

同和子 22,000円

同はつ 5,000円

同ひさを 2,000円

8.(認容額)

原告冨男 243,538円

同忠男 268,767円

同美恵子 243,538円

同和子 243,538同

同はつ 56,619円

同ひさを 27,809円

九(結語)

以上の次第であるから、本訴請求中、別紙認容金額目録記載の原告らの請求は、認容金額欄の各金員およびその内、内訳欄の損害額の各金額については昭和四三年八月一八日以降、弁護士費用の各金額については本判決言渡の翌日以降、それぞれ支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度においては正当として認容できるけれども、その余の部分、および右原告らを除くその余の原告ら六名の請求は理由がないので失当として棄却すべきである。

よつて、訴訟費用の負担については、民事訴訟法九二条、九三条一項に従い、本件訴訟の争点とその審理経過、訴額と認容額との対比その他諸般の事情を考慮の上主文第三項のとおりに負担させることとし、主文のとおり判決した。

なお、仮執行の宣言は相当と認められないのでこれを附さないこととした。

(藤井俊郎 川端浩 木下順太郎)

認容金額目録

原告名

認容金額(円)

内訳

損害額(円)

弁護士費用(円)

秋山茂則

一二五、五九〇

一一四、五九〇

一一、〇〇〇

秋山美香

一〇八、一九九

九九、一九九

九、〇〇〇

秋山康郁

一〇八、一九九

九九、一九九

九、〇〇〇

庄林エツ

二七、六五一

二五、六五一

二、〇〇〇

秋山いと

三一二、〇六四

二八四、〇六四

二八、〇〇〇

池田守雄

五二六、八一〇

四七九、八一〇

四七、〇〇〇

池田利彦

四九二、九五七

四四八、九五七

四四、〇〇〇

池田真知子

四九二、九五七

四四八、九五七

四四、〇〇〇

伊藤義郎

一二五、三五八

一一四、三五八

一一、〇〇〇

伊藤博司

一〇七、九二八

九八、九二八

九、〇〇〇

伊藤秀司

一〇七、九二八

九八、九二八

九、〇〇〇

加藤幸子

二七二、一三二

二四八、一三二

二四、〇〇〇

加藤幹夫

一八七、六八六

一七〇、六八六

一七、〇〇〇

山下淳子

一〇四、九一〇

九五、九一〇

九、〇〇〇

加藤孝子

二七二、一三二

二四八、一三二

二四、〇〇〇

川本タミ子

一、九〇一、八〇〇

一、七四九、八〇〇

一五二、〇〇〇

神足チヅ子

二二〇、七七二

二〇〇、七七二

二〇、〇〇〇

江尻陽子

二二〇、七七二

二〇〇、七七二

二〇、〇〇〇

川本三枝子

二二〇、七七二

二〇〇、七七二

二〇、〇〇〇

柴田ヒサ子

一一八、九八三

一〇八、九八三

一〇、〇〇〇

来栖途子

一〇三、二二四

九四、二二四

九、〇〇〇

来栖勝子

一〇三、二二四

九四、二二四

九、〇〇〇

河野善美

五八〇、七三二

五二八、七三二

五二、〇〇〇

竹尾明

一六、五九四

一五、五九四

一、〇〇〇

竹尾弘

一五、〇〇三

一四、〇〇三

一、〇〇〇

竹尾悟

一五、〇〇三

一四、〇〇三

一、〇〇〇

福地ヒサエ

一五、〇〇三

一四、〇〇三

一、〇〇〇

津田コユキ

一、七六七

一、七六七

三浦光恵

一五五、六六〇

一四一、六六〇

一四、〇〇〇

中根晴美

一四七、三二三

一三四、三二三

一三、〇〇〇

西秀子

一六二、五四七

一四八、五四七

一四、〇〇〇

那須冨美枝

七二七、七三六

六六一、七三六

六六、〇〇〇

那須國宏

一、三〇二、九六二

一、一八九、九六二

一一三、〇〇〇

那須えつ

一二二、二五八

一一一、二五八

一一、〇〇〇

中谷ムメヨ

二、九〇八、三五一

二、六九〇、三五一

二一八、〇〇〇

野原ふたを

六七六、三四四

六一五、三四四

六一、〇〇〇

下村みさを

六七六、三四四

六一五、三四四

六一、〇〇〇

新川利一

六七六、三四四

六一五、三四四

六一、〇〇〇

西川武史

三二六、四二五

二九七、四二五

二九、〇〇〇

西川嘉人

二八七、八二二

二六一、八二二

二六、〇〇〇

西川欣吾

二八七、八二二

二六一、八二二

二六、〇〇〇

二宮東一

一、六六一、三二三

一、五二五、三二三

一三六、〇〇〇

吉田ヒサヲ

一、六一八、五七一

一、四八五、五七一

一三三、〇〇〇

花田亘

一三九、四三七

一二七、四三七

一二、〇〇〇

花田艶子

一三九、四三七

一二七、四三七

一二、〇〇〇

花田克己

一三九、四三七

一二七、四三七

一二、〇〇〇

花田一介

一三九、四三七

一二七、四三七

一二、〇〇〇

堀糸枝

一三九、四三七

一二七、四三七

一二、〇〇〇

山本十二子

一三九、四三七

一二七、四三七

一二、〇〇〇

肥後由衛

五五五、二九六

五〇五、二九六

五〇、〇〇〇

肥後絹子

五一〇、六九一

四六四、六九一

四六、〇〇〇

深水護

一、七二九、五五四

一、五八八、五五四

一四一、〇〇〇

坂本健介

七二八、八七四

六六二、八七四

六六、〇〇〇

藤本絹子

二、一七二、一二九

二、〇〇二、一二九

一七〇、〇〇〇

藤本咲子

二五一、八六五

二二九、八六五

二二、〇〇〇

藤本薫

二五一、八六五

二二九、八六五

二二、〇〇〇

藤本寮子

二五一、八六五

二二九、八六五

二二、〇〇〇

藤本政伊

五六、七〇八

五一、七〇八

五、〇〇〇

穂積克彦

二、七六七、〇〇二

二、五五八、〇〇二

二〇九、〇〇〇

南齊

二四二、一九七

二二〇、一九七

二二、〇〇〇

南和雄

一〇四、五六六

九五、五六六

九、〇〇〇

南裕子

一〇四、五六六

九五、五六六

九、〇〇〇

南孝志

一〇四、五六六

九五、五六六

九、〇〇〇

南欽司

一〇四、五六六

九五、五六六

九、〇〇〇

菅野チヨ

四一、七五一

三八、七五一

三、〇〇〇

森脇潔

七二七、二五九

六六一、二五九

六六、〇〇〇

森脇敏乃

六七二、四八六

六一一、四八六

六一、〇〇〇

井上英太郎

四二二、四一〇

三八四、四一〇

三八、〇〇〇

井上智津子

二一一、一八六

一九二、一八六

一九、〇〇〇

吉岡さ乃

二六、八四八

二四、八四八

二、〇〇〇

若松弘祐

二九八、八〇五

二七一、八〇五

二七、〇〇〇

千葉カツ

四九、六八六

四五、六八六

四、〇〇〇

関口藤太

四、八二三、四六三

四、四八〇、四六三

三四三、〇〇〇

関口哲世

四、七一九、七四三

四、三八三、七四三

三三六、〇〇〇

安田たかえ

一七七、二〇〇

一六一、二〇〇

一六、〇〇〇

安田政雄

一七七、二〇〇

一六一、二〇〇

一六、〇〇〇

高笠原武

一、三五七、一七四

一、二四一、一七四

一一六、〇〇〇

高笠原邦洋

六九四、〇三七

六三一、〇三七

六三、〇〇〇

田中平八

一四七、三六八

一三四、三六八

一三、〇〇〇

田中美穂

七〇、七五二

六四、七五二

六、〇〇〇

成田良正

六、〇六一、九六七

五、六四三、九六七

四一八、〇〇〇

浜口きみ

一、七七二、九七三

一、六二八、九七三

一四四、〇〇〇

水野茂

六二九、一五一

五七二、一五一

五七、〇〇〇

佐藤さゝを

一二八、〇二四

一一七、〇二四

一一、〇〇〇

森鋹夫

二二一、一一四

二〇一、一一四

二〇、〇〇〇

森久美子

五六、〇七七

五一、〇七七

五、〇〇〇

森馨一郎

五六、〇七七

五一、〇七七

五、〇〇〇

森嶌仙右衛門

一、五六一、七五三

一、四三一、七五三

一三〇、〇〇〇

森蔦すて

一、五一一、五三七

一、三八五、五三七

一二六、〇〇〇

生川留雄

一、〇五六、六六二

九六一、六六二

九五、〇〇〇

生川ふさ子

一、〇五六、六六二

九六一、六六二

九五、〇〇〇

柳川久男

六七九、六二〇

六一八、六二〇

六一、〇〇〇

馬場ヒデ子

七二七、四九九

六六一、四九九

六六、〇〇〇

吉岡信夫

八八二、四九一

八〇二、四九一

八〇、〇〇〇

石原和子

六〇二、〇三七

五四八、〇三七

五四、〇〇〇

天野裕子

三、二九六、〇四六

三、〇五三、〇四六

二四三、〇〇〇

天野伴六

一、一四七、四八六

一、〇四四、四八六

一〇三、〇〇〇

天野アサノ

一、一四七、四八六

一、〇四四、四八六

一〇三、〇〇〇

竹内靖

四、一三七、二三〇

三、八三九、二三〇

二九八、〇〇〇

片寄房子

二、七〇〇、六六三

二、四九六、六六三

二〇四、〇〇〇

並木友之

五一四、九〇三

四六八、九〇三

四六、〇〇〇

加藤信二

五七、七〇〇

五二、七〇〇

五、〇〇〇

加藤冨士子

五七、七〇〇

五二、七〇〇

五、〇〇〇

西垣守雄

五三三、四九八

四八五、四九八

四八、〇〇〇

玉井静の

一一七、二四九

一〇七、二四九

一〇、〇〇〇

佐倉藤吉

一七〇、五五七

一五五、五五七

一五、〇〇〇

佐倉郁子

二〇六、三五八

一八八、三五八

一八、〇〇〇

伊藤彰

五一五、六一四

四六九、六一四

四六、〇〇〇

伊藤靖俊

四四、八七八

四〇、八七八

四、〇〇〇

森下信也

三五六、〇三八

三二四、〇三八

三二、〇〇〇

石川タネ子

二、五八一、六三六

二、三八五、六三六

一九六、〇〇〇

石川憲治

二、三八九、六三六

二、二〇五、六三六

一八四、〇〇〇

石川美智子

二、三八九、六三六

二、二〇五、六三六

一八四、〇〇〇

高橋美智子

一、四八九、八五四

一、三六四、八五四

一二五、〇〇〇

吉永綾子

二、六九二、八二七

二、四八八、八二七

二〇四、〇〇〇

吉永義幸

一、六七六、二一八

一、五三九、二一八

一三七、〇〇〇

吉永弘文

一、六七六、二一八

一、五三九、二一八

一三七、〇〇〇

吉永康男

一、六七六、二一八

一、五三九、二一八

一三七、〇〇〇

吉永シケノ

二六四、〇〇〇

二四〇、〇〇〇

二四、〇〇〇

神足冨男

二四三、五三八

二二一、五三八

二二、〇〇〇

神足忠男

二六八、七六七

二四四、七六七

二四、〇〇〇

長尾美恵子

二四三、五三八

二二一、五三八

二二、〇〇〇

松原和子

二四三、五三八

二二一、五三八

二二、〇〇〇

池田はつ

五六、六一九

五一、六一九

五、〇〇〇

島田ひさを

二七、八〇九

二五、八〇九

二、〇〇〇

合計

九三、九六一、三八四

八六、四〇二、三八四

七、五五九、〇〇〇

別紙1

死亡者目録

秋山アイ子 秋山晶子 池田昌雄

池田ツヤ 伊藤汀子 太田勲

加藤健郎 加藤太喜子 加藤邦子

川本正雄 川本正治 川本敏男

森脇道恵 井上美智子 井上敦詞

来栖健三 神足第助 神足しづこ

河野信子 左殿正文 左殿喜代子

左殿孝子 竹尾一郎 竹尾ハツコ

中根泰三 中根文子 中根美好

田中浩 成田清 成田喜久子

那須弘 新川信義 新川千恵子

新川晴子 西川喜代美 二宮釼一

二宮幾枝 二宮玉代 二宮仁志

肥後元子 深水ヨシ子 深水勝

柳川久栄 柳川徹哉 石原久治

藤本明 藤本智恵子 藤本明美

藤本裕美 藤本耕平 藤本公子

藤本昭平 穂積和子 高橋一枝

南久子 三村政治 三村アサノ

竹内孝 竹内越子 竹内恵美子

岩松園子 岩松浩子 岩松昌弘

岩松聡 関口亮英 関口千枝子

関口英子 高笠原和子 高笠原敏洋

田中月子 森下晴代 成田明子

水野あい子 水野洋一 水野由紀子

森みや子 森明美 森嶌章夫

森嶌喜代子 森嶌理津子 森嶌一浩

石川義夫 天野五平 天野ゆき枝

天野彰子 天野良禎 五十嵐英子

伊藤とき子 伊藤尚子 伊藤洋

佐倉圭一 佐倉朱美 高橋和男

並木昌子 並木宣道 並木美揚子

西垣み子 西垣隆 西垣博

本城徹三 本城美代子 森下諒子

森下裕一 吉永政義

以上一〇四名

別紙2 請求金額目録《省略》

別紙3 損害明細表《省略》

別紙4 損害明細表(請求)の説明《省略》

別紙5 損害明細表(請求)の個人別説明《省略》

別紙6・7 一般国道四十一号線 自岐阜県加茂郡七宗村 至益田郡下呂町間平面図《省略》

堰堤および石垣の検尺結果

堰堤

石垣

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

1

2

3

4

5

6

高さ

2.85

2.90

4.00

4.00

4.05

4.00

4.00

5.00

4.50

4.05

4.05

4.00

1.80

1.50

1.40

2.00

1.50

1.40

10.55

3.90

6.40

17.90

16.60

18.50

21.50

22.00

15.50

16.50

16.00

17.00

17.00

29.00

12.80

11.40

15.80

15.50

厚さ

1.00

0.40

検証地点と写真綴りとの関係

検証地点

写真綴り

国道と接する地点

2

第三・四堰堤間

3

第五堰堤付近

4

第六・七堰堤間

5

第七堰堤付近

6

第八・九堰堤間

7

第九・一〇堰堤間

8

第一〇・一一堰堤間

9

第一一・一二堰堤間

10

第一二堰堤と第一石垣間

11

第一・二石垣間

12

第二石垣から崩かい起点間

13・14

第二石垣から沢本流

13

別紙9 本件事故前に設置された防護施設

(三九年二月から四三年七月まで)

粁標

工種

規模

施行年度

55

種子吹付

390m2

三九

55~55.55

PNC

144m2

四〇

55.2~55.5

モルタル吹付

500m2

三九

56~57.3

種子吹付

2,000m2

56.7

ストーンガード

48m2

四一

57.2~57.4

モルタル吹付

610m2

三九

58

種子吹付

1,360m2

59.5

695m2

四〇

59.8

PNC

92.8m2

三九

種子吹付

1,312m2

植生

313m2

63.1~64.52

モルタル吹付

5,520m2

63.5~64

種子吹付

337m2

植生

516m2

63.7

種子吹付

90m2

四〇

63.75

2,040m2

64~64.5

3,900m2

三九

64.2

PNC

162m2

64.6~64.9

65.55~65.67

モルタル吹付

3,000m2

四〇

65

種子吹付

1,450m2

三九

65.65~65.88

モルタル吹付

4,540m2

65.9

ストーンガード

56m2

四〇

石積擁壁

410m2

PNC

36m2

四一

石積擁壁

223m2

四二

66~66.2

種子吹付

1,590m2

三九

別紙10 本件事故前の崩落事例

発生年月日

地先名

粁標

推定土量

観測地点

連続降雨量

時間最大降雨量

摘要

四一、七、一六

白川町下油井

78.5

4.5m3

黒川

6.8mm

(一七時~一九時)

3.8mm

(一八時~一九時)

四一、七、二六

白川町村君

80

5.0m3

0

0

崩落時降雨なし

四二、三、二九

白川町下油井

78.5

30m3

0

0

崩落時降雨なし

四二、六、二五

一七時頃

下呂町門原

97.3

400m3

下原

23mm

(一二時~一七時)

8.8mm

(一五時~一六時)

四二、六、二九

五時頃

白川町下山

64.4

100m3

上麻生

199.7mm

(二八日六時~二九日四時)

29mm

(二八日二〇時~二一時)

崩落時降雨なし

四二、七、九

二一時頃

白川町村君

79.4

696m3

名倉

158.5mm

(八日七時~九日二一時)

65.5mm

(九日二〇時~二一時)

四三、三、一二

一三時頃

白川町下山

64.2

160m3

26.8mm

(一一日二〇時~一二日四時)

8.5mm

(一二日二時~三時)

崩落時降雨なし

四三、六、一九

一九時頃

白川町勘八

68

18.0m3

黒川

154mm

(〇時~一九時)

56mm

(七時~八時)

別紙11 時間雨量・連続雨量

17日

18日

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

1

2

3

4

5

6

7

川辺

時間雨量

×

×

10

4

0

0

0

0

0

0

0

2

2

36

33

23

15

0

62

12

1

1

連続雨量

10

14

2

4

40

73

96

111

173

185

186

187

上麻生

時間雨量

0

4

9

2

0

1

29

0

0

0

0

1

1

44

78

90

41

29

42

9

0

1

連続雨量

4

13

15

16

45

1

2

46

124

214

255

284

326

335

336

七宗

時間雨量

×

20

2

4

3

1

7

23

4

1

0

0

17

80

20

20

9

11

20

1

1

0

連続雨量

20

22

26

29

30

37

60

64

65

82

162

182

202

211

222

242

243

244

神淵

時間雨量

0

11

4

0

0

1

20

23

1

0

0

1

60

56

32

10

33

40

21

2

0

1

連続雨量

11

15

16

36

59

60

61

121

177

209

219

252

292

313

315

316

名倉

時間雨量

×

1

2

2

2

1

1

4

2

0

0

0

2

30

28

41

29

61

16

2

1

0

連続雨量

1

3

5

7

8

9

13

15

2

32

60

101

130

191

207

209

210

大船渡

時間雨量

×

20

2

5

7

0

6

25

10

2

0

1

32

47

15

8

5

28

7

1

0

0

連続雨量

20

22

27

34

40

65

75

77

78

110

157

172

180

185

213

220

221

下原

時間雨量

×

33

1

2

1

1

2

14

44

15

0

1

36

42

9

9

3

22

14

2

1

0

連続雨量

33

34

36

37

38

40

54

98

113

114

150

192

201

210

213

235

249

251

252

瀬戸第1

時間雨量

0

25

6

3

6

1

0

11

8

13

24

10

38

17

11

6

6

5

0

0

0

0

連続雨量

25

31

34

40

41

52

60

73

97

107

145

162

173

179

185

190

下呂

時間雨量

0

25

0

0

0

0

0

4

3

19

10

13

43

9

13

6

6

5

1

0

0

0

連続雨量

25

4

7

26

36

49

92

101

114

120

126

131

132

東上田

時間雨量

6

18

10

2

0

0

0

0

0

1

16

18

11

10

9

4

7

16

1

0

0

0

連続雨量

6

24

34

36

1

17

35

46

56

65

69

76

92

93

萩原

時間雨量

5

37

3

6

0

1

1

0

18

20

56

25

25

11

13

17

12

0

0

連続雨量

5

42

45

51

52

53

71

91

147

172

197

208

221

238

250

別紙12 時間雨量表 昭和43年8月

観測地

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

名倉

17

1.0

2.0

2.0

1.5

0.7

1.3

4.0

2.0

1.5

30.0

28.0

18

41.0

29.0

61.0

16.0

2.1

0.5

上麻生

17

3.8

9.3

2.2

0.7

29.0

0.3

0.2

1.0

1.3

44.2

78.0

18

90.0

41.4

28.6

42.4

8.9

0.2

0.5

川辺

17

10.0

3.8

0.2

0.1

0.3

1.5

1.6

35.5

32.9

18

22.8

14.7

0.2

62.1

11.6

0.7

0.5

(1) 時は計測時を示し,雨量は計測時の前1時間の降雨量を示す(例えば1時は0時から1時までの雨量)。

(2) 雨量の単位はmm。

別紙13 日雨量・時間雨量・連続雨量

地名

雨量

雨量区分

日時

17日

18日

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20

21

22

23

24

1

2

3

4

5

6

7

8

9

川辺

199

時間雨量

×

×

10

4

0

0

0

0

0

0

0

2

2

36

33

23

15

0

62

12

1

1

0

0

連続雨量

10

14

2

4

40

73

96

111

173

185

186

187

上麻生

382

時間雨量

0

4

9

2

0

1

29

0

0

0

0

1

1

44

78

90

41

29

42

9

0

1

0

0

連続雨量

4

13

15

16

45

1

2

46

124

214

255

284

326

335

336

七宗

241

時間雨量

×

20

2

4

3

1

7

23

4

1

0

0

17

80

20

20

9

11

20

1

1

0

0

0

連続雨量

20

22

26

29

30

37

60

64

65

17

97

117

137

146

157

177

178

179

神淵

312

時間雨量

0

11

4

0

0

1

20

23

1

0

0

1

60

56

32

10

33

40

21

2

0

1

0

0

連続雨量

11

15

1

21

44

45

1

61

117

149

159

192

232

253

255

256

名倉

224

時間雨量

×

1

2

2

2

1

1

4

2

0

0

0

2

30

28

41

29

61

16

2

1

0

0

0

連続雨量

1

3

5

7

8

9

13

15

2

32

60

101

130

191

207

209

210

大船渡

228

時間雨量

×

20

2

5

7

0

6

25

19

2

0

1

32

47

15

8

5

28

7

1

0

0

0

0

連続雨量

20

22

27

34

40

65

84

86

87

119

166

181

189

194

222

229

230

下原

250

時間雨量

×

33

1

2

1

1

2

14

44

15

0

1

36

42

9

9

3

22

14

2

1

0

0

0

連続雨量

33

34

36

37

38

40

54

98

113

114

150

192

201

210

213

235

249

251

252

瀬戸第1

188

時間雨量

0

25

6

3

6

1

0

11

8

13

24

10

38

17

11

6

6

5

0

0

0

0

0

0

連続雨量

25

31

34

40

41

52

60

73

97

107

145

162

173

179

185

190

下呂

164

時間雨量

0

25

0

0

0

0

0

4

3

19

10

13

43

9

13

6

6

5

1

0

0

0

0

0

連続雨量

25

4

7

26

36

49

92

101

114

120

126

131

132

東上田

129

時間雨量

6

18

10

2

0

0

0

0

0

1

16

18

11

10

9

4

7

16

1

0

0

0

0

0

連続雨量

6

24

34

36

1

17

35

46

56

65

69

76

92

93

萩原

250

時間雨量

5

37

3

6

0

1

1

0

18

20

56

25

25

11

13

17

12

0

0

連続雨量

5

42

45

51

52

53

71

91

147

172

197

208

221

238

250

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